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異形の匣庭 第二部⑨-1【逃走】

 柄の悪い女子達が頻繁に使う「先生トイレ」を使ったのは初めてだった。相当苦し紛れの言い訳だったけどそこは察してくれた様で、特に言及される事なく口論の場から離れられた。嘘をついたのなら堂々と離れに戻ればいいのに、わざわざ律儀に行こうとする所が我ながら子供だと思う。行きたい訳ではなかったけれど、背中に刺さったままの視線も痛いしバツも悪いしで僕の足はトイレを目指していた。
 昨日今朝と教えて貰わないと辿り着けなかったトイレも流石に覚えられたようで、道中にある二百年前に作られたらしい青みがかった陶磁器の壺を発見した。この壺も妖怪か聞いてみたけれどそんなことはないらしい。二世紀も前の壺がどのくらいの値段になるのか知らないけれど、割らないようにって注意されたくらいだからさぞかし高いことは間違いない。
 これを目印に左に曲がって突き当たりを右に曲がって、あとは道なりに真っ直ぐ行けば右手に厠の文字が見えてくる。右を見ても左を見ても同じ部屋、同じ配置、電球も壁の色も、同じ景色の繰り返しだ。たまに置いてある壺以外は本当に何の変化もない。こんな山奥だから凝った作りなんて出来ないだろうし、別に豪邸を作りたい訳でもなかっただろうし。まあ、昔も今もこの屋敷なら豪邸って言ってもおかしくはないか。
 きちんとトイレを発見し、出もしないのは分かりつつも一応チャレンジしてみる。流れる所に蓋がしてあるのって高速バスぐらいでしか見た事なかったけど、田舎のトイレってみんなこうなのかな。妙にここだけ新しいというか、いや新しいんじゃなくて昭和っぽいというか。壁が若葉色の四角いタイルで床が紺色の石畳。しかも和式。他の部屋は古式ゆかしきなんだけど。
「はぁ……どうしよっかな、一回戻るか……でもなあ」
 手を洗いながらこの後のことを考える。逃げて来たはいいものの、この後何をするかどこに行くかはかなりの難題だ。戻る選択肢もある。選択肢があるだけで選びたくはない。じゃあどうするってなった時に離れしかなくて、でも見つかった時の言い訳を考えるのもそれはそれで物凄く面倒臭い。
 でも、その方が楽な気がする。
 悶々としたままトイレのドアを開けると、錆びついた蝶番がドアの重みに耐えかねて、きゅいっとネズミの断末魔みたいな音を鳴らした。普通の物は古くなったら手入れしてダメなら交換を繰り返して、いつかは壊れて捨てられる。このトイレも使い勝手が悪くなったから交換されて、多分そのうちもっと新しいのに交換されて蝶番と同じ運命を辿るに違いない。勿論そんな遠く消え去ったトイレや蝶番に思いを馳せてるんじゃなくて、その「物」っていう枠組みから外れたらどうなるんだろうってふと頭をよぎっただけ。感傷的になった訳じゃない。完全に壊れないのか、それともやっぱりいつかは消えて無くなるのか。そもそも何を食べて生きているのかも分からないし、生きてるっていう定義で合ってるのかも曖昧なとこだけど。でも見た目上動いている訳だしな、とも思う。何一つ分からない。
 同じ様に壺を目印に曲がってとりあえず縁側に戻るしかないだろう。どうせ離れへ続く廊下にもそこからすぐだし、気まずい空気がまだ漂っていそうならそのままそっちに行けばいい。なんならそのまま荷物を持って……
「……あれ?」
 次の角を曲がれば縁側が見えるはずだったのに、また廊下が続いていた。もしかして角を一つ間違えたかもと思いそのまま丁字路まで進んでも、左右には廊下が真っ直ぐに伸びているだけで、見つけられない間違い探しのようだった。
 トイレまで戻ればいいのかそれとも左右どちらか決めて進めばいいのか。この時の僕はまだ「ちょっと迷った」くらいにしか考えていなかったし、家の中で迷子になるなんて恥ずかしくて電話する気にもなれなかった。
 すぐにでも電話を掛けて迷ったと正直に言っていれば、まだ。
「左……かな?」
 と、勘を頼りに歩みを進める。少なからず感じている焦りと、未だ残る罪悪感、それに昨日の出雲大社での出来事。街中で食べるであろう郷土料理やお菓子、残りのお金。もしもこのままこの家からも逃げ出してしまったらどこに行くのか。当てはないが終わりある旅。本の妖怪、シゲさん、セツさん、鳴海、そして母さん。その思考の隙間に入り込む父の冷めた顔。どうして母さんが死んで……代わりに……死んで欲しいんじゃない。そうじゃなくて……。
 思考は僕の歩みと共にグルグルと回って堂々巡りになり、終着点を見失っていた。ただ、思考を止めなかった事だけは自分を褒めてもいいかもしれない。
「……また右? さっきも右じゃなかった?」
 振り返ると廊下は左に折れているのが見えて、前を向くとその先で廊下は右に折れていた。
 僕は一旦立ち止まって考えを巡らせる必要があった。丁字路を左、更に左、右、右、右……明らかに何かがおかしい。数えていた訳じゃなかったから正しいかは分からないけれど、今回を入れて最低でも三回は右に曲がったはず。本当なら今僕がいる所は、丁字路なり縁側なり何かしらの物が無いとおかしい。
 頭の中にこの屋敷の間取りを思い浮かべる。母さんが書いた時から改築していなければ、正方形を二つ横に並べた形をしているはずで、ぼくはその繋ぎ目を通過して縁側や玄関がある方に渡って来た、そう思っていた。もしくは僕の記憶力が乏しくて、縁側がある正方形からもう一つの正方形の方にきてしまったか。でもそうだとして、そうだとしなくても目線の先の廊下が右に曲がっているのは間違いなくおかしい。
 どこにも入り口が無い、真四角の家……。
 来た道を戻る? ヘンゼルとグレーテルみたいにここに何か目印でも落として前に進む? どれも正解じゃない様な気がする。いやでも念の為に確認しに行った方がいいか。単純に僕が間違えただけの可能性もあるし。
 そう思って確認しても状況は変わらず、むしろ現実である事の証明にしかならなかった。加えてどうして今の今まで気付けなかったのか自分でも不思議なくらい自然に、最初からそうだったみたいに、いや思い返せば本当に最初から。
 見回れど見回れどこの屋敷には縁側を除き、全ての壁に窓が無かった。 
 この状況になってからそんな重大な事に気付くなんて、僕はどこまでバカなんだ。携帯も縁側に置きっぱにしたままで、どうやって外に助けを求めれば……偶然誰かが助けに来てくれるなんて、そんな都合よくいくわけがない。外側じゃなくて中心に向かうのは? 案外上手くいくかもしれないし、それはまだ試してない。希望的観測どころかほぼ百パーセント抜け道が無いだろうけど、何か抜け出すための手がかりがあるかも。自分の精神状態を上手く把握出来てるとは言えないけど、今動かなきゃダメだと思う。
「よし」
 空元気を出して延々と続く襖に手を掛けたその時だった。
 何故か視線を感じ、ついさっき曲がったばかりの角の方へ顔を向けると、女の子が柱の陰から半分だけ顔を覗かせこちらを見ていた。
 ドキリとして思わず声が出そうになったけど何とか押し込み、その子を見る。背格好は近いが鳴海ではない。彼女の顔立ちよりも丸くおかっぱ頭で、こけしとか市松人形を思い起こさせる古風な顔立ちをしている。話には聞いていないがセツさんの知り合いか、ゲンさんの娘の可能性も捨てきれない。でなければこんな山奥深くの屋敷に女の子が来るわけがない。それこそ幽霊や妖怪でもない限りは……
「あ、ちょっと……」
 話しかけようとする前にその子は柱の陰に引っ込んでしまい、ぱたぱたぱたと足音を立ててどこかへ立ち去っていく。あっけにとられた僕は
「何だったんだろ……」
 と数秒のんきに考えていたが、そんな事をしている場合ではないとすぐに女の子の後を追いかけた。彼女がどこから来たにせよ、どこからかここまで来た事は間違いなく、彼女を追いかけていきさえすれば外に出られる。急いで角を曲がると彼女は更に先の角を右に曲がる寸前で、見失わない様に僕は足を速める。
 僕が角を曲がると彼女は更に先の角を曲がっており、もう追いついただろうと思うと更に先に進んでいる。おかしいと思ったがこの迷路内で分かりやすく縋れる物が目の前にあって、縋らない人はそうそういないだろう。彼女が本物の人であるかどうかさえ疑わしいのに。
 そうやって複数回曲がった先に、違った景色が突如として現れた。
 廊下の先に閂付きで木製の重厚な扉で、屋敷と同等かそれ以上に古い様に思える。開いた扉の先は真っ暗な洞窟に繋がっていて、ぼんやりと光る蛍光灯が壁にいくつもかかっていた。どれだけ深いのかは蛍光灯の数だけでは把握出来ない。
 彼女が着ている着物の袖が、開いた扉からチラチラと見えてはゆっくり遠ざかっていく。
「一人で入ると危ない」
 そう祖母は言っていたはずだが、彼女は入ってもいいのかな。錠前が外されているという事は彼女が鍵を持っているか、既に中に誰かがいるんだろうし……どちらにしろ追って問題はない、のかもしれない。
 彼女を追い扉へと近づくと急に視界が明るくなった。見上げると屋根は無く、瓦の黒と山の緑で縁取られた青が見える。間違いなくここは掃除の時にみたあの場所だ。
 ここを乗り越えれば外に出られる……この洞窟へ進むかまた屋敷内に戻るより懸命な判断ではないだろうか。そして祖母かシゲさんの元へと戻り事情を説明すべきだ。何か起きてしまったらあの回廊と同じ様に僕では対処できそうにない。
 そうこう逡巡している間に彼女の足音が聞こえなくなり、代わりに
「……継……継」
 懐かしい声が洞窟の奥から小さく木霊した。
 僕はその声の誘惑に打ち勝つ事が出来ず、洞窟へと足を踏み入れてしまった。

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