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クリミア戦争 ナイチンゲール到着前の英国陸軍の状態と問題点

はじめに

 看護師団を率いてクリミア戦争に従軍したフロレンス・ナイチンゲールは、現地で獅子奮迅の活躍をする。従軍時の状況は、クリミア戦争を扱う『黒博物館ゴーストアンドレディ』で描かれており、その活躍の多くは史実に基づく。 

 その範囲は看護の領域を大きく超えて、多大な物資の補給や管理、病院建築にまで及んだ。なぜ、そこまで彼女の活動範囲が広がったのか、なぜそこまで補わなければならなかったのか。

 その理由を理解するため、ナイチンゲール従軍前の英国陸軍の状況を以下に整理した。あわせて補足として、クリミア戦争の概要を、先に掲載する(戦争概要には書いていない様々な要素もあるため、詳細を知りたい方は参考文献をどうぞ)。

■戦争概要

○ロシアの領土的・宗教的野心

 クリミア戦争は1853年から1856年にかけて「ロシア」と、「トルコ・フランス・英国の連合軍」の間で行われた、19世紀の戦争となる。この戦争での死者は75万人と推計され、ロシア軍は50万人、フランスが10万人前後、英国は2万人程度、トルコで12万人とされている。戦争の中心となったセヴァストポリの市内には、25万人以上の軍人・民間人が埋葬されたという(『クリミア戦争』)。

 ロシアは長く、オスマン帝国(トルコ)との間で戦争を繰り返した。17世紀末にウクライナを併合して以降、ロシアは黒海から地中海への進出を企図として、周辺を支配するトルコとの戦争を行い、1783年には、後の戦争の舞台となるクリミアの併合もエカチェリーナ二世によって行われた。

 トルコではキリスト教徒への圧政が続いており、ロシアの戦争目的には、トルコ領内に住むスラブ民族や正教徒の「保護」「解放」もあった。ロシアはトルコと戦争を繰り返し、1828年から29年の露土戦争では、ダーダルネス海峡・ボスポラス海峡の自由通行権や、全トルコ領と黒海での通商圏を獲得し、大規模なロシアの南下政策は、ヨーロッパ諸国、特に英国とフランスを警戒させた。

※NHKでも特集をやっていました。

○クリミア戦争直前

 クリミア戦争は、宗教を巡る政治問題を発端とした。1846年に、カトリック教会と東方正教会の復活祭の日付が重なり、キリスト教宗派で共同管理するエルサレムの聖墳墓教会(イエス・キリストが処刑・埋葬された場所に建つ教会)での祭事の優先順位を巡り、両宗教が衝突し、死傷者が出る事態となった。

 聖地巡礼で最も信者を送り込んでいたのはロシアだった。ロシア正教会にとって、エルサレムは「祖国」とも呼べる熱狂的な信仰の場所となっていた。同年にはフランスの反露感情を煽るニュースとして、ロシアの支配地域でカトリック教会が強制的に解放・財産没収された上、修道院の尼僧への投獄と強制労働・虐待された出来事が、脱出した尼僧によって伝わった。奇しくも英国でこの報道を伝えたのは、まだ世に出ていないフロレンス・ナイチンゲールだった。

 フランスの皇帝ナポレオン三世が、対立を加速させた。皇帝は国内支持を集めるためにカトリック教会を支援する政策を打ち出し始めていた。フランスは1851年から聖墳墓教会でのカトリックの優先権を主張し、トルコ政府に圧力をかけた。1852年に主張が通り、トルコはカトリック教会の優先権を認め、東方正教は権利を失った。

 この措置に時のロシア皇帝ニコライ一世は聖地の権利回復と正教徒の権利保障を求めたが、後者は内政干渉として拒否された。トルコへの交渉継続と軍隊の動員を進む中、1853年6月の交渉が失敗すると、ロシアはトルコが宗主権を持つドナウ両公国(モルダヴィア、ワラキア)へ進軍した。

 全面戦争を避けたいトルコは撤退要求を行ったが拒絶されたため、英仏の支持を得て十月にロシアへ宣戦布告し、両公国内でロシア軍と戦闘状態になる。

 両国の戦争はロシアが有利に進め、ロシアの黒海艦隊がトルコ艦隊を撃破した。英仏は艦隊派遣準備を進めつつ、全面戦争を避ける外交的解決を模索したが、1854年1月にロシアはナポレオン三世が提案した和平案を拒絶した。フランスは2月末に最後通牒を行い、続いて英国も3月に宣戦布告を行い、両国はトルコと連合を組み、ロシアとの戦争状態に突入する。

○英国の動き

 英国とフランスの両軍は4月にガリポリ(ダーダルネス海峡に近い港町)へ展開したものの、同地は大規模な軍隊展開に適さず、黒海西部の都市ヴァルナへ移動する。そこから、トルコが防衛する近隣のシリストラでロシアと戦端を交えるはずだった。

 ところがロシアと同盟を結んでいたオーストリア(ハプスブルグ帝国)が急遽軍を展開し、ロシアに対して「ドナウ両公国からの撤退」を要求した。この裏切りにより、ロシアは退却を余儀なくされた。

 陸軍同士の対決は回避されたが、夏に入って英仏軍でコレラが流行し、8月には連合軍(英仏トルコ)の補給拠点ヴァルナで軍補給品・火薬庫への放火も発生し、甚大な損失を被った。食糧不足による飢餓とコレラから退避するため、軍は移動を迫られた。

 こうした中、撤退したロシアの戦力が整わないうちにクリミア半島へ侵攻するとした作戦が決定し、9月には黒海艦隊拠点でもあるセヴァストポリ要塞攻略のため、要塞に近いカラミタ湾への上陸を果たす。そして9月20日に進軍した連合軍は、ロシア軍とアルマの地で交戦し(アルマの戦い)、これに勝利する。

 この段階で防衛が不十分だった要塞へ進撃すれば、数日で陥落したともされる。しかし、連合軍は包囲戦準備のためにセヴァストポリを見下ろす高地に陣地を展開し、英国はパラグラヴァ湾の港を、フランスはカムイシュ湾の港を補給港とした。

 その後、10月25日に、ロシア軍がパラグラヴァを攻撃し(パラグラヴァの戦い)、11月5日にはセバストポリの北の港インケルマンで激戦があった(インケルマンの戦い)。

 戦闘で傷ついた連合軍を襲ったのが、暴風雨だった。陣営は壊滅的混乱に陥り、野営のテントから補給物資、食料だけではなく、船に積んでいた兵員の冬支度を含む装備一式、弾薬など膨大な物資を失った。数多くの物資補給の督促がなされるも、補給は遅れに遅れた。英国軍には、こうしたダメージに対応できる補給を計画・実施・完遂する能力がなかった。

 ヴァルナでの補給物資の火災消失と嵐によってもたらされた物資不足による混乱が、ナイチンゲールが必要な物資確保まで獅子奮迅の活躍せざるを得ない状況を生み出した一要因と言える。

赤いマークの場所が、ナイチンゲールが主に活動したスクタリ(現ユスキュダル)

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■主要な戦争時の出来事

1854年3月 英国、ロシアへ宣戦布告
1854年4月 ガリポリ→ヴァルナに駐屯
1854年8月 ヴァルナでコレラ流行と、放火での補給物資喪失
1854年9月 クリミア半島へ上陸。20日にアルマの戦いで勝利
1854年10月25日 ナイチンゲール、ロンドン出発
1854年10月25日 バラクラヴァの戦い
1854年11月5日 インケルマンの戦い
1854年11月5日 ナイチンゲール、現地入り(スクタリ兵舎病院に到着)
1854年11月14日 大暴風雨で駐屯地が混乱・補給物資や食料・衣類喪失、船沈没
1855年9月8日 セバストポリ陥落
1856年3月30日 パリ条約・停戦

■英国陸軍の状態・問題点

 ナイチンゲールが手腕を発揮したのは、医療に限らず、兵士が置かれた劣悪な補給環境による困窮状態の解決が筆頭に挙げられる。このような困難は、英国軍の計画・能力不足によってもたらされた。

 負傷兵を含めた兵員の生存に関わる問題は、大きく「補給能力」「後方支援」「医療環境」「能力」などによって引き起こされた。

○劣悪な補給地の環境

 英国がクリミア半島に確保した補給拠点は、不適切だった。英国がセヴァストポリ要塞を攻略する拠点として選んだ要塞近くのパラグラヴァの港は小さく、倉庫もなく、物資が停滞した。複雑な手続きのため、陸揚げした荷物が港で放置されてダメになることもあった。受け取りにも複雑な書式の書類が必要で、補給物資を用意する兵站部の係官の手続きには3通の書類も必要で、非効率的だった。

 前述したように嵐の被害は大きく、港にいた補給線20隻以上が沈没し、数百人の乗組員と、積んでいた冬用制服4万着や弾丸1000万発や食糧ほか膨大な物資が失われた。

 陸揚げした補給物資を運ぶ荷車に用いる貨物動物用の餌の手配なども不十分で、人間だけではなく家畜の衰弱死も目立った。そもそも補給港バラクラヴァから陣地への道路も劣悪で、低地の港から高地の駐屯地に運ぶための道路は高低差がある上、泥道で補給には多くの時間を要する有様だった。飼い葉の供給が止まった冬場には、人が荷物を持ち運ばなければならなかった。

 一方、フランスが選んだカムイシュ港は物資の陸揚げに適し、多くの船も来られた。陣地の間の道路を早々に石で舗装工事して、荷馬車による輸送体制を構築した。港も大型倉庫が立ち、商業施設も立ち並び、大量の物資が持ち込まれた。

○軍の後方支援能力の欠如

 英国軍には後方支援の概念が十分ではなかった。つまづきはじめは、配送能力の不足だった。ヴァルナからクリミア半島のパラグラヴァへ軍を移動する際、船が足りなかった。そのため、3万人の兵員の輸送が優先し、彼らが持参した後方用の物資である天幕や炊事用具、食料品、医薬品、担架、寝具、貨物用の家畜などが取り残されたま、戦闘を行うことになった。

 その後も、兵士たちが暮らす生活環境となる英軍のテントは脆弱で防水性も弱く、夏用で、厳しい冬を想定していなかった。また水捌けの悪い劣悪な環境で寝起きを強いられた。冬季用の衣服も不足した。食糧支給は材料の現物支給で、調理も燃料確保も自分で行うため、劇的に効率が悪かった。

 協働するフランスは専属の補給部隊・料理供給・衣類洗濯などの支援網を備えた。テントは暖房設備を備えて木材で補強した。料理も材料を兵士へ直接供給せず、共同で組織的に料理を行い、一定水準の食糧供給を行なった。体を温めるスープはフランス軍で好まれた。

 非効率な補給に拍車をかけたのが、補給機構の問題だった。ラグラン総司令官は何度も何度も本国へ数多くの必要物資の要請を行っていたが、本国で書類が放置されたり、供給能力がなかったり、半年遅れてようやく届いたり、荷を積んだまま何往復をしたり、適切に陸揚げできずに生鮮食品が腐ったりという始末だった。

○低い軍指揮官の能力・経験不足

 英国はフランスよりも大規模な近代戦争の経験が乏しかった。その上、司令官クラスの軍人の多くは高齢でかつ専門教育を受けた軍人ではなかった。彼らの幕僚となる上層部側近たちも縁故者が連なった。

 兵士も徴兵制ではなく志願制で、労働者階級がほとんどだった。ただ、かつて陸軍を率いた英雄ウェリントン公爵が当時の兵員が酒を飲む金欲しさに入隊した「人間のくずども」と評したのに対して、1850年代までにはそうした人員は少なくなり、新しく入隊した兵士に短期訓練を行う仕組みが整っていた。

 将校たちの意識は大きく変わらなかった。労働者階級を低く見る偏見は続き、部下の兵士たちが置かれた境遇への関心は低かった。兵士たちの苦境を帰国後に知った軍人がいるほどだった。

 その象徴が、上官による兵員への鞭での体罰や、将校たちがかけ離れた生活をしていたことだった。物資は豊富にあった、本国より贅沢な暮らしをしていると述べた者たちや、シェフや連れてきたり、ゲストをディナーで歓待したり、プライベートヨットを停泊させ自分の宿舎にした高官さえいた。
 兵士の軽視は、医療体制の不備にも現れた。

○有事に弱い軍組織と指揮系統の混乱

 最も大きな問題として、組織が戦争に向いていなかった。当時の陸軍行政は、軍事費抑制と、常備軍を不法な存在とする考え方から、軍備縮小の方針で長く運営されていた。また権力集中を防ぐため、多数の官庁による分割した業務がなされた。

 しかし、全体を最適化して調整をするポジションがなかった。内閣の陸軍大臣ニューカッスル公爵に軍人への人事権・命令権は無く、開戦後も専属庁舎もなく部下も不在だった。戦時担当大臣シドニー・ハーバートも、歩兵・騎兵に関する議会予算提出を行う役割に過ぎなかった。

 本国だけでは無く、現場の指揮系統も問題があった。クリミア派遣の陸軍総司令官ラグランは、陸軍総司令官府の外にいる歩兵・騎兵にのみ人事権を有し、同じ陸軍の砲兵・工兵、調達、兵站、そして軍医に対しての任免権を持たなかった。

 陸軍本体の組織は、陸軍総司令官府があり、陸軍総司令官を長として、その下に軍務局長、補給局長、書記局長の三局長と各部局があった。政変の影響を受けないように、議会に責任を負わない独立した立場にあり、人事もこの中で完結していた。1815年からは陸軍長官の陸軍庁、砲兵・工兵の軍需監督庁が加わった。当時の統帥権は名目上、王室直下にあるものとされていた(この辺の整理・統合を試みるのが、戦争中の政権交代で首相となったパーマストン卿と、その内閣で軍務大臣となったパンミュア卿)。

 ナポレオン戦争後に陸軍は縮小へ向かい、独自の陸上輸送手段を持たなかった。開戦時の本国の兵站部門の担当官は2〜3名、軍医局も12人、調達局も四名に過ぎなかった。当時の軍医局予算は年1200ポンドとされた。これは独立時にナイチンゲールが父から貰った年金の2.4倍しかない。スクタリの主任調達官は部下2名と雑用の少年3名、兵站部長は3名の部下のみで、それぞれの組織予算もわずかだった。

 本国同様、戦場で軍の指揮から補給までのすべてを統括する現場責任者が存在せず、組織間の連携も悪かった。戦時ではなく、平時の意識で運用したともされる。

 開戦時、政府の陸軍大臣と戦時担当大臣、軍には省・部・局で陸軍省、陸軍総司令府、現地総司令官、調達局、軍医局、兵站部、輸送部、医務局、これに物資調達など予算を握る大蔵省が関わっていた。

 混乱した状況を内部調査した際、陸軍大臣ニューカッスルは「病院に指示は出さない。医務局に一任した」と述べ、医務局長は「総司令官、陸軍大臣、戦時大臣、軍務局長、軍務局の5人の主人がいる」「(医務局)が先駆けて動くのは越権行為」だと自らの様子見を正当化した。

○医療環境の相違

 戦場での医療環境で英国は遅れを取った。フランスは戦場の近くに病院を建設した。戦場に衛生兵がおり、病院へ送る前に応急処置を行った。一方、英国は衛生兵不在で医療資材も不足していた。クリミア上陸当初は船が足りず、最初の拠点ヴァルナに残したためだった。

 初期は現地に病院も立てず、負傷者を戦場から遠くにあるスクタリの病院へ船で移送した。負傷兵は十分な手当もないまま、船の不足で乗員過多で詰め込まれ、軍医や看護も不足して面倒を見られないまま、数日かけて船に乗せられてスクタリの病院へ運ばれた。当然、死ぬ者もいた。

 加えて、フランスにもロシアにも、看護技術を身につけた修道女(シスター)を中心とした看護師たちがいた。『タイムズ』がフランスの看護師たちの存在を伝え、なぜ英国にはいないのかと問題提起したことが、ナイチンゲール派遣のきっかけとなる。

 戦争をする能力がないまま、戦争を始めたことが、悲劇であり、こうした状況の改善にナイチンゲールはフォーカスしていくことになる。それは、看護の領域を超えたものだった。

思い出した小ネタ

ラグラン総司令官を扱った資料本に、クリミア戦争に従軍した前線の陸軍兵士に支給されたのは、英国なのに紅茶ではなく、コーヒーだったという指揮官の証言があります。しかも、生の豆のままで。

戦争初期の後方支援能力を示すエピソードです。

「この悲惨な状況の中で、あざ笑うかのように緑の生のコーヒーの実が配給された。コーヒーを煎るものも、挽くものも、火も砂糖もない。馬が大麦を食べるようにそれを食べるというのでなければ、男たちがそれをどう使うのか。今やったように、泥の中に投げ捨ててしまう以外にないだろう。
 私の部下たちは、なんと忍耐強いことか、なんと立派な振る舞いをしていることか。足首まで泥に浸かり、肌まで濡らして塹壕に降りていく。このように、イギリス兵は最も賞賛されるべき存在である。
 これこそが規律であり、ここに彼の栄光がある」

『The DESTRUCTION of LORD RAGLAN A TRAGEDY OF THE CRIMEAN WAR』から翻訳

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