見出し画像

ナイチンゲールを苦しめたクリミア戦争の人事問題 上司・部下・同僚の観点で


はじめに

このテキストでは、主にクリミア戦争に従軍したナイチンゲールが直面した人事問題(彼女の人事権の及ぶ範囲について)を考察する。

現代的な要素でシンプルに整理すれば、次のように言えるかもしれない。

  • 上司の問題

    • 事前情報・相談なき仕事の押し付け

    • 急に短納期の仕事を振る

    • 人事権が曖昧な状況を作る

  • 部下の問題

    • 本人が採用していない部下の統率

    • 宗教上の問題による対立の構図

    • 厳しすぎるマイクロマネジメントと反発

    • 誹謗中傷

  • 職場の同僚との関係

    • 異なる指揮系統・職種(軍医たち)との軋轢

    • 人事権を巡る闘争

    • 一緒に仕事をして壊れる友情

このような人事上の問題は、ナイチンゲールが率いた看護師団という足元のものから、当時の宗教事情という形がないもの、そしてクリミア戦争の医療責任者たる軍医長官ジョン・ホールの間のものまで様々な範囲に及んだ。

最大の壁となったホールとの戦いの様子を、独自の解釈で鮮やかに描いた作品が『黒博物館 ゴーストアンドレディ』となる。

人事問題を巡る前提

軍医の反発

人事を巡る問題の前提として、ナイチンゲールは当初、現場にいる軍医たちから歓迎されなかった。

第一に英国陸軍には女性看護師を受け入れる習慣がなく、邪魔に思ったこと。これはナイチンゲール個人が邪魔だったからではなく、単純に女性看護師を軍医の現場に受け入れる習慣・概念がまったくなかったからだった。軍医に限らず、現場にいる軍人たちの中にも、ナイチンゲールを揶揄する表現を行う者たちもいた。

第二に、ナイチンゲールたちが派遣されてきたこと自体、軍医が現場を適切にコントロールできていないことを示すものとなるからだった。特に軍医のリーダーたちは「すべて間に合っています」と主張し、様々な問題から目を背けていたか、認識できていなかった。

ナイチンゲールは実績を築き上げて、こうした周囲の「壁」を一つ一つ壊していった。それは強引さによって壊したのではなく、相手のメンツを潰さないように配慮し、慎重に行動した上で、外堀を埋めたり、関係者を味方につけたり、軍が彼女を頼らざるを得ない環境を作り上げたりすることで実現した(これも『黒博物館 ゴーストアンドレディ』に詳しい。詳細はまた別の機会に)。

看護師団の人選「規律の重視」

とはいえ、ナイチンゲールが克服した困難は、外部の問題だけではなかった。彼女がクリミア戦争で苦慮したことの一つには、彼女の責任範囲の不明確さと、彼女が望まなかった増員派遣による現場マネジメントの混乱があった。宿敵となるホールとの対決の根幹も、この人事権の範囲にあった。

元々、ナイチンゲールは、自分と少数による迅速な派遣を提案していた。これに、彼女を派遣した戦時大臣シドニー・ハーバートはもう少し規模の大きな派遣を行うプランに切り替えさせた。この時、ナイチンゲールは人選に際して、烏合の衆とならないように水準を設けて注意を払い、監督できる範囲の人員として38人を選んだ(面接は彼女が行わず、友人でハーバートの妻エリザベスと、セリーナ・ブレイスブリッジが行う)。

派遣される看護師団の人数は少なく思えるが、誰もが従軍経験を持たない女性であり、また現地に女性を受け入れる体制がないことを踏まえると、堅実な選択とみえる。

能力に加えてナイチンゲールが採用時に特に気をつけたのは、規律の問題だった。当時の看護師の職業的地位は低く、専門性も求められず、酒を飲んだり、物を盗んだりするとの見方もあった。

その上、軍の内部で働くことで男性との関わりが生まれるため(ヴィクトリア朝は特に表向きの男女の距離の近しさに厳しかった)、女性看護師が軍人男性たちとの間に不適切な関係を結ばないよう、現地では複数行動を求めるなどの指示も出していた。物資・食品の管理もナイチンゲールは細心の注意を払い、浪費を戒めた。規律の重視で評判を守る、それが優先事項だった。

看護師団の人選「宗教バランスの重視」

看護師人選の際、ナイチンゲールは看護師たちの大部分を占める看護修道女が所属する組織の宗教バランスにも配慮し、カトリック、英国国教会などの修道院から看護修道女と、各地の病院からの看護師で人員を編成した。

この時、一部の修道院からは看護修道女たちを監督する施設長の同行も要請されたが、自らの監督権を絶対条件としたナイチンゲールとの間に妥協が成立せず、参加を見合わせた修道院もあった。特に非国教会系プロテスタントの不参加は後に非難を浴びた(修道院看護と人選は以下を参照のこと)。

こうした準備をした上でも、現場では問題が起こったので、それらをこれから見ていく。

以下、代表的な事例について、

「上司たる戦時大臣(+戦地総司令官ラグラン卿)が作り上げた問題」、
「部下たる看護師たちから生じた問題」、
そして直接の部下ではないものの現地の軍医責任者「ホールとの対立」、
この三軸から、ナイチンゲールが直面した問題を整理する。

【上司】問題だらけの看護団・第二陣の派遣決定

クリミア戦争に従軍したナイチンゲールは看護団を率い、現場での活動を始めていた12月に突如、上司と言える派遣責任者の戦時大臣シドニー・ハーバートから、ナイチンゲールの友人メアリー・スタンリーが引率する「看護団の第二陣を派遣したこと」を知らされる。

ハーバートは当初から、ナイチンゲールの責任者としての人事権を約束し、少数精鋭で臨むことも同意していたが、「もっと看護師を派遣すべき」との国民の声が高まり、なおかつ看護師として従軍を志願する人々も増加したため、派遣せざるを得ない状況になっていた。

また、ナイチンゲールが到着した11月には大きな戦いや嵐によって、英国陸軍では負傷者も増加していた。こうして増加した負傷者は、ナイチンゲールが管轄するスクタリの病院では収容しきれず、12月には彼女が拠点にした兵舎病院で病床が必要となり、急遽、改修工事をナイチンゲールが主導することになった(後述)。

「自分の規律に従う少数精鋭のプロフェッショナルによって最大の成果を出そうとするナイチンゲール」と、「短時間でのナイチンゲールの成功を見たことと、世論の高まり、志願者増加、そして負傷者増加報道によって増員が不可欠」とも考えた本国のハーバートとの間に溝が生じた。

この点、ナイチンゲールは上司ハーバートの決断の被害者と言える(俯瞰してみると、ハーバートは善人であるが、個人的に有能とは思えない)。

  • 相談のない意思決定で前提が崩される

  • 急に結果を知らされ、覆す余地がない

  • その派遣団の動きが、多忙な時期のナイチンゲールの仕事を増やす。

  • 派遣団の構成がトラブルを数多く内包する

こうして派遣されてきた第二陣が有能であれば問題なかったが、その到着はナイチンゲールの足を様々に引っ張ることになる。

最悪のタイミングと準備不足

第一にナイチンゲールが第二陣派遣を知らされたのは、第二陣が到着する前日の12月14日とされており、追加された第二陣46人の看護師たちを収容する宿舎や物資の確保が現地では整わず、また増員のための予算もなかった。

この時、ナイチンゲールは前述した負傷者増加と、それに伴う突然の要請による病院の収容人員増に対応する病院改修にも関わっていた。女性看護師派遣を好まなかった軍医たちも、これ以上女性看護師は現場に受け入れないとして、ナイチンゲールに拒否の姿勢を示した。

管理・質的の問題

第二に、現場人員増加による管理の難しさと、質的懸念が生じた。

ナイチンゲールは看護団の選定に際して、彼女が管轄できる人員の数に絞って選別した。それ以上の人員管理は難しいと判断してのことだった。そして人員を選ぶ際には質を重視した(それでも質が高いわけではなかった)。

このバランスの両方を、第二次看護団はめちゃくちゃにした。

志願者の中には、第一陣の人選で排除した「プロフェッショナルではないと考える人材」が多く含まれていたのである。飲酒や浪費の習慣を持つ者、適切な看護訓練を受けていない者、そして実務経験も覚悟もない、ナイチンゲールと同じ社会上層にある「レディ」のボランティアたち。

内訳は、レディ9人、尼僧15人、看護師22人の46人だった。看護師も医療サポートを行えるレベルのものは少なく、さらに20人は「補助聖職者」(宗教を優先する修道女の立場)のつもりで来たという。

その上、派遣団として対等なはずな「レディ」たる人々は、階級が違う同行した仲間たる看護師に、自分たちの世話をさせようとして反発を招くなど、意識の面でもバラバラだった。

宗教バランスの崩れ

最も大きな問題は、当時のカトリックとの宗教問題が持ち込まれたことだった。ナイチンゲールは看護の仕事から宗教の固有性を排除し、看護の職業性を重視する立場で、前述のように様々な宗派から看護師を募ることでバランスを取ろうとした。

実際には非協力にも合い、必ずしもバランスは完璧ではなかったが、少なくとも彼女の監督に同意する人々として、英国国教会系と、カトリック(ロンドン拠点)の修道女たちが集まった。

しかし、第二陣には、英国の支配を受けていたアイルランドから派遣されたカトリック修道女たちが15名もいた。修道女のリーダーたるブリッジマン尼僧長を筆頭にした彼女たちは、ブリッジマンだけが上長だった。

第二陣引率者の問題

第二陣の引率者は、ナイチンゲールの友人だったメアリー・スタンリーだった。しかし、彼女も問題を抱えていた。

何よりも、スタンリーには看護実務経験も人事経験も不足した。第二陣は1,500ポンドという所持金を持っていたが、英国からスクタリへの移動中に無計画に散財し、現地での活動予算を到着前に使い果たした。スタンリーは気前が良く、しかし無計画で、ナイチンゲールのような能力が欠如していた。

加えて、スタンリーの派遣には、当時、英国国教会の高位聖職者の立場からカトリックへ改宗して社会を騒然とさせたマニングの意向があった。

マニングはスタンリーや、シドニーの妻で派遣団の面接や後方支援をしていたエリザベス・ハーバートにも影響力を及ぼし、クリミア戦争でカトリック修道女に光を当て、活躍することを願った(エリザベス・ハーバートは後に、カトリックに改宗する)。

ナイチンゲールは自らの環境を壊す友人スタンリーの行動に怒りを示したが、スタンリーからすれば歓迎しようとしないナイチンゲールの態度は理解できず、両者の友情を壊すのに十分だった。

このスタンリーとの対立は、後に拡大することになる。

このスタンリーが率いてきた派遣団の到着が与えた影響の大きさを、ナイチンゲールの伝記作家セシル・ウーダム=スミスは、次のように評価する。

しかし、メアリー・スタンリー一行の到着により、(ナイチンゲール)女史はその使命に手痛い打撃を被り、その後、彼女がその打撃から完全に立ち直ることは、ついになかった。12月15日、新しい看護婦の一団が到着するまでは、彼女の仕事は完全成功への軌道に乗っていた。しかしこの一件以降は、彼女は何度か個人的勝利を収めることはあったが、その権限は任務がほとんど完了する間際まで確立されなかったのである。彼女の指示は何度も無視され、その指揮権には意義が唱えられ、この事業そのものの目的も、分派間のいがみ合いの中でぼやけてしまった。

『フロレンス・ナイチンゲールの生涯 1』p.255

こうした多くの問題を抱えた第二陣をナイチンゲールは受け入れて、緻密なパズルを嵌め込むように準備した。

当時のスクタリの軍医責任者ダンカン・メンジーズとの調整も行い、スクタリの病院での人員を初期の38名から50名に増員し、第一陣と一部を入れ替えて帰国させたり、残りの第二陣はスクタリの兵舎病院近くの大病院(こちらが最初に準備していた病院)や、スクタリ近くのクーラリにある病院へ派遣したりしたのである。

【部下】宗教面のトラブル

第二陣受け入れに際して、その調整の中で大きな比重を占め、その後のナイチンゲールの足を引っ張り続けたのは宗教面のトラブルだった。何度か述べてきたこの問題を、ここで整理する。

看護人員の構成比率の問題視

看護師団は、その構成員の多くが看護修道女だった。この時代、まだ職業としての看護師は後の時代のように確立しておらず、担い手の多くは宗教と切り離せない修道女だった。

このため、英国国教会、非国教会系プロテスタント、カトリックなどが混在する英国では、修道女の派遣は多くの宗派を巻き込んだ。

人員の宗教バランスが問題になるとわかっていたナイチンゲールは、当初から配慮したが、結局、派遣に協力してくれたのは国教会とカトリック系の修道院で、前述のようにプロテスタントは参加を見合わせていた。

しかし、世の中はそのような事情にお構いなしだった。

ナイチンゲールがスクタリへ向かっている航海の途上、新聞『デイリー・ニューズ』に、「看護団は国教会とカトリックのメンバーが主流である」という批判の投書があった。

『黒博物館 館報 ヴィクトリア朝・闇のアーカイヴ』をお読みいただきたいが、この時代、新聞メディアは世論を動かす存在となり、クリミア戦争の報道は時の政権を揺るがす影響力を持った。家庭にはそうした新聞が配達され、また整備された郵便制度で投書も盛んだった。

国民は、本国にあって戦争に間接的にも参加した。新聞は投書を取り上げ、政府や著名人の攻撃材料に用いた。攻撃される側へ事実確認をすることなしに。政府に派遣されたナイチンゲールも攻撃対象となり、彼女が英国国教会なのか、その宗派を問う議論さえ続いた。

こうした中、第二次派遣団のメンバーの多くがカトリック修道女だったことは配慮に欠けるものでもあったが、それは派遣団の中核にあったシドニー・ハーバートが、妻エリザベスへのカトリック聖職者マニングの影響力や意向を見抜けなかったことにもよるだろう。その上、第二陣の統率者メアリー・スタンリーは、カトリック改宗の気持ちを固めていた。

看護ではなく聖職への従事を望む爆弾発言

カトリックの意向を強く受けていた第二陣のスタンリーは、スクタリに到着した際、現地での受け入れを求め、ナイチンゲールたちとの面談をした。その中で彼女が行った要求は、ナイチンゲールにすれば晴天の霹靂だった。

スタンリーは、看護師団のうちプロテスタントを従軍牧師付きに、カトリックを司祭付きにして、「女性伝道者」として働かせるという計画を伝えたのだった。それは、看護師団を兵員を看護するために派遣した軍の意向に反するという、非現実的なものだった。

実務家たるナイチンゲールは看護団の目的が果たされないとして追い返すことを検討した。しかし、帰国させれば、第一に宗教問題になり、第二に人種問題にもなる(ブリッジマン尼僧長たちはアイルランド人だった)ため、受け入れる方向で調整せざるを得なかった。しかも、予算を使い果たしたスタンリーのため、自腹から現地での活動費用を貸し付ける羽目にもなった。

全員を受け入れるにはそもそも部屋に余裕がなく、それらを準備するにしては連絡も遅かった。このため、人員を受け入れるために、何人かを帰国させる手筈が必要だった。

ナイチンゲールは実務と宗教のバランスを考慮した人員の調整を続けた。様々な宗教関係者の間に板挟みとなり、膨大な業務を抱えながら、ブリッジマン尼僧長とスタンリーとの交渉を行った。

決まったのは、次のようなことだった。

  • アイルランドの修道女たちをスクタリの兵舎病院に受け入れる

  • 一方、看護経験がない第一陣のノーウッドの修道女を帰国させる

  • 残りの団員はしばらく別の地に滞在してもらい、開始予定の新しい病院勤務をしてもらう

  • ただし、宗教的慰問にナイチンゲールは関与しない

取り決めの結果、帰国することになったノーウッドの修道女は反発し、同情した従軍のカトリック司祭ミカエル・カフェはナイチンゲールに面会し、怒りながらその行動を批判した。

さらに、立場が決まったはずのアイルランド修道女の統率者ブリッジマン尼僧長は、修道女への自分の監督権を主張し、かつ、自分たちの属するイエズス会の司祭をつけて欲しいと要求し、現地にいたカフェ司祭を拒否した。

この時の状況について、ナイチンゲールは「毎日、呪われた人生を送っている」と記している。

宗教問題の頻発

こうした環境で宗教を巡る問題と対立は絶えず、トラブルが頻発した。

  • 病院内で不穏当な宗教書を回覧した看護師がいたことへの批判

  • ロンドン拠点のカトリック(バーモンジー修道院)尼僧長とナイチンゲールの親交への批判

  • 不穏当な宗教上のジョークを飛ばしたということへの批判

  • ブリッジマン派閥は同じカトリックのバーモンジー修道院メンバーを拒絶

  • プロテスタント従軍牧師が、同じ宗派の看護師の宗教上の立場を批判し、陸軍大臣に手紙を書いて解任要求

  • 福音主義に傾倒した牧師の説教が、修道女に悪影響を及ぼしたと批判

  • アイルランド修道女が兵士の臨終の際に改宗させたとして追放

  • 長老派教会が会派からの看護師派遣を要求。しかし到着後に兵士と外出して泥酔、送還することに(以上、『フロレンス・ナイチンゲールの生涯 上pp.264-265)。

こうした話は英国政府にも伝わり、ナイチンゲールによる看護事業の成功も危ぶまれるなどの懸念が示され、また兵士たちを改宗させようとする試みが頻発したことから、後に陸軍大臣から看護師・修道女が改宗することを阻止する指令を出したが、内容が曖昧だったため、事態は悪化したという。

カトリック修道女とナイチンゲールの方針の違い

第二陣の看護師派遣で、現場に最も大きな軋轢を生じさせたのは、ブリッジマン尼僧長と彼女が率いるアイルランドの「慈悲の聖母童貞会」修道院から派遣された人員たちだった。

近年は、アイルランドの修道女たち観点での歴史研究も進み、ブリッジマン尼僧長をはじめ、彼女たち看護修道女はアイルランドで看護やコレラへの対応なども行い、ナイチンゲールより長い看護経験を持ったとされれる。

そんな彼女たちが当初配属されたのは看護の仕事ではなく、リネン仕分けやスープの配膳など「シスター」としての仕事だった。これも、彼女たちの不満を招いたともいう。

その後、現場での直接の看護を望むブリッジマン尼僧長や、現地の修道女たちの保護者として同行していたカトリック神父との間で、ナイチンゲールとの交渉が行われた。

この結果、メアリー・スタンリーとブリッジマン尼僧長がそれぞれ関わる病院に関して、ナイチンゲールは監督権を主張しないこととなった(後、スタンリーは経験・能力不足で状況を打開できず、3ヶ月で帰国した)。

こうした宗教問題、特にカトリックのシスターたちを巡るの難しさの背景には、当時の英国でのカトリックへの警戒心の高まりも影響した。そのことはこちらを参照いただきたい。


【上司】急な病院工事と人事管轄外の病院の登場

急な病院増床工事の主導

ナイチンゲールの関わった仕事には、「なぜ看護師がここまで」というものも多い。その中で最も大きなものは、病院の増床となるだろう。ナイチンゲールが派遣された1854年12月に、兵舎病院で新たに多数の傷病兵を受け入れるようにと総司令官ラグラン卿から通達があった。

そこで不足した病床を補うため、焼け落ちたまま修理していない病棟を改修することでの収容案が検討された。問題は建築のための上位者の承認と予算確保だったが、責任を持って行おうとする軍人はいなかった。

こうした無責任さの空白を埋める意志を持ったのが、ナイチンゲールだった。ナイチンゲールはマクリガー上級軍医の協力を得て、コンスタンティノープルに駐在する英国大使ストラトフォード卿夫人メヘタベルに助けを求めた。大使は現地での出費の承認権限を持ち、夫人は仲介役を任されており、工事担当のゴードン主任に指示を出した。

この時、現地で雇われたトルコ人125名が賃金引き上げを求めてストを行い、ナイチンゲールはストラトフォード卿に助けを求めたが無視された。婦人も手を引いた。

ナイチンゲールは自費で200名を雇って工事を終えさせ、12月19日に収容を開始する。後にストラトフォード卿は自分は関わりがないと工事の支払いを拒否したため、工事費もナイチンゲールが負担した(陸軍はナイチンゲールの出費を承認し、全額返済する)。

本来あるべきプロセスとして「現地の担当将校→ロンドンの陸軍医務局長→現地総司令部→兵站部→大蔵省」となっていたが、このプロセスでは時間がかかり、ラグランからの急な要望に間に合わなかった。

なお、負傷兵の受け入れをマクレガー博士と行ったナイチンゲールは、ハーバートへの報告時に「新しい病棟のためのナイフ、フォーク、スプーン、缶詰、タオルその他は、私が用意しました」と記している(『ナイチンゲール その生涯と思想1』)ほど、当時の軍の補給は機能していなかった。

この病院増床工事の渦中にやってきた第二陣のタイミングの悪さが、おわかりいただけるだろう。

人事管轄外の病院 クーラリの病院

前述したスタンリーとブリッジマンの処遇をめぐり、ナイチンゲールの人事権を混乱させる事態が生じた。

第二陣到着の1854年12月から1ヶ月以上が過ぎた1855年1月末に、スクタリ近くのクーラリに開設される病院の責任者にスタンリーがなり、それにブリッジマン尼僧長とその修道女たちも同行することになったからだった。彼女たちはナイチンゲールの管轄を外れた。

このクーラリの病院の後援者は、スタンリーが親交を深めた駐コンスタンティノープル大使ストラフトフォード夫人だった。ただ、この夫人と大使は、本来、スクタリの病院全体の財政支援を行う立場にありながらも実務面への関心が低く、十分な支援をしていなかった。たとえば前述の兵舎改築でも、大使夫妻は非協力的で、実務能力も支援する意欲もなかった。

人事管轄外の病院 前線パラクラヴァの病院

加えて、兵舎増築を要請した総司令官ラグラン卿から、またしても別の要請がある。前線があるクリミア半島の補給地バラクラヴァでの病院利用も進むこととなり、総司令官ラグラン卿から11名の看護師の派遣要請がナイチンゲールに行われたのだった。

この病院施設の状況は望ましくないと報告されていたため、ナイチンゲールは派遣に躊躇した。しかし、後述する第二陣の看護師エリザベス・デイビスなどナイチンゲールの厳しい管理を逃れようとする離反者や前線勤務志願者がいたことも踏まえ、セロン派(プリシラ・セロンが監督する慈善修道会の)から参加した尼僧長が統率する一行として、派遣することとなる。

スクタリから遠いこの地について、ナイチンゲールの細やかな管理は及ばず、後に対立を深める軍医長官ホールのいわば直轄地で、関わりを持つこととなる。

【部下】様々な理由による部下たちの離反

問題は足元から様々に起こった。ナイチンゲールが現地の看護師全員から支持されていたわけではなく、看護師の離脱もあった。

規律の問題

第一陣のスタッフの中に優秀な人材もいたが、不適切な人材もいた。たとえば到着した途端に泥酔して本国へ送還された看護師がいた。第二陣の合流後には、勝手に病院を抜け出して泥酔して戻ってきた看護師たち(前述の長老派)や、兵士たちの間から結婚相手を見つけて、ナイチンゲールに結婚を宣言した看護師たちもいたという。

こうした行動は本人の資質の話となるが、別の問題に、ナイチンゲールが重視した「軍医との間の規律」が、人によって納得しにくいものだった。

ナイチンゲールは医療現場の規律として、軍医の求めがなければ動かないとして、患者より看護師よりも医師の優先する立場を示した。これは周囲を軍医に囲まれて反発を受ける中で、あるいは医師と仕事をしてきたナイチンゲールにとっては自然な決断だったが、目の前の患者のために動きたい看護師にとって、納得できないこともあった。

そのひとり、看護修道女エリザベス・ウィーラーは、ナイチンゲールに何度も、衰弱する患者たちのための食料の増加を要請した。少なくとも、彼女の目には彼らへの食事は不足して見えた。

しかし、ナイチンゲールはこの時も規律通りに進め、医師の判断を尊重した。こうした振る舞いに強い不満を持ったウィラーは、病棟の医師の冷酷さ・無能さを家族に伝える手紙を書いた。

この手紙を親戚のひとりが『タイムズ』に投書してしまい、政府を攻撃する材料として利用された。この出来事はナイチンゲールの立場を不利にしかねないもので、病院調査委員会で、ナイチンゲールもウィーラーも証言を行っった。ウィーラーの告発は誇張があって真実ではないとされ、ウィーラーは解雇された。

厳密な監督への反発

ナイチンゲールは監督者として、様々な面で厳密だった。女性看護職を職業として確立していくという責任感を持つナイチンゲールにとって、このクリミア戦争で看護師が活躍すること、そして問題を起こさないことは必須の条件だった。

この点について、ナイチンゲールは厳しい規則を作り、運用したが、反発もあった。伝記にはシドニー・ハーバートへ送った現地の規則と、その前文を紹介している。以下はその全文である。

「すでに述べたように、東方の陸軍病院に赴任した看護婦たちが、辛い仕事を当てがわれ、予期していなかった厳しい規則に従わなければならないということで、不平を漏らす例が折に触れて見られた。それゆえ陸軍病院における看護婦の装備、服装、義務、地位に関する規定および規則を、明確に述べておくが望ましいと考えられる」

『ナイティンゲール その生涯と思想1』

そして規則には、次のようなものがあった。

  • 服装に関する規定

  • 飲酒量に関する規定

  • 外出制限:寮母の付き添い、または三人の看護婦が連れ立って歩く必(または前もって許可を得る必要)

英国ナショナルアーカイヴには、当時の規定の一部として、服装に項目が公開されている。

服装 I

■制服の類など衣装は、初年度は以下が政府から支給される:
フード付きマント1着
デリー・ラッパー(ガウンの一種)1着
インドゴムのゴローシューズ1足[靴の上に履いて足を濡らさないようにするオーバーシューズ]。
チェックエプロン6枚
カラー6枚
キャップ4個
ベストキャップ2個
バッジ2個
白いストロー・ボンネット1個
ダークストローボンネット1個
プリントガウン3着
リンジー・ウールジーのガウン(リネンまたはコットンとウールから作られた粗い生地)2着
ケープまたは薄手のショール1枚
ウールのジャケット1着
袖2組
アルパカガウン1着。[ウールと綿織物で作られた黒いドレス]。
フランネルの上着1着

上記の物品は一度に支給されるのではなく、その年の季節に応じて、適切なタイミング[必要]と思われる方法で支給される。これらの物品を入れる箱も各看護師に支給される。各看護師は、その箱に入るだけの下着を持っていくことができる。

■看護師は、以下の物品を良い状態で備えることが期待される。
黒っぽい生地または綿のガウン1着、
フランネルのペチコート2枚[暖かく厚手の綿織物]。
上のペチコート2枚、
ステー2組、[衣服の下で体を整えるために鯨の骨で固めた下着]。
シフト6枚、[ゆったりとしたストレートコットンのドレスまたはスリップ]。
ストッキング6足
ナイトシフト(ナイトドレス)2着
ポケットチーフ4枚
ナイトキャップ3個
ブーツまたは靴3足

その他必要なもの
ブラシとくし1本
小歯の櫛1本
歯ブラシ1本
傘1本

また、航海に必要なものをすべて入れたカーペットバッグも支給される。1年間勤務した後は、6ヶ月ごとに2シリング相当の規定の衣服が支給される。

看護師はこれ以上の衣服の贈与を期待してはならない。

他の項目の原文を確認できていないが、上記服装だけでこの細かさならば、仕事・生活・行動のすべての範囲での分量を思うと、厳しい学校の校則のようでもある。こうした細かさは使用人への規則(※)のようでもあり、やや家父長的支配を感じさせるが、それだけの現実があったからとも言える。

こうしたルールを細部まで徹底的に書き記すナイチンゲールの能力は、後の様々な病院運営の提言書や、看護学校運営のルールにも反映されている。

※著者は家事使用人研究者であり、以下のような19世紀に出版された家事使用人(メイド)に向けた、マナー・行動規範集の翻訳なども行っている。こうした「振る舞うべき行動を決めた本」は「業務のためのマニュアル本」ではあるが、メイドになる若い少女に向けて書いてあるため、学校校則のようでもある。

ただ、こうした本は、中流階級の女性たちに対して刊行された「コンダクトブック」(これも振る舞いの書)というものもあり、18世紀半ば以降に出版数を増した。あのメアリー・シェリーの母親メアリー・ウルストンクラフトも、こうした本の出版をおこなっている。そのような「人の行動を規定する」文化の中に、ナイチンゲールも位置付けられるかもしれない。


浪費する看護師とのトラブル

ナイチンゲールの厳格な管理は物資にも及び、現場の看護師たちの恣意的な運用を特に戒めていた。これは物資の管理上では非常に正しい判断である。しかし、そうした管理意識を無縁の現場の人間たちは、これに反発した。

問題を起こしたのは、第二陣でやってきたエリザベス・デイビスだった。『黒博物館 ゴーストアンドレディ』で、訪問してきたナイチンゲールに対して「あなた様も結構ですが 成ろうことなら 女王様に来ていただきとうございました」と述べたのは彼女であり、実話である。

高齢の看護婦だった彼女はナイチンゲールの様々な命令に背き、さらにはナイチンゲールが慰問品(後述)を自分のためだけに享受して、看護師たちにはひどい食事を与えていると誹謗した。

その後、前述したように前線バラクラヴァの病院運営から派遣要請をされると、デイビスはナイチンゲールの監督を逃れたい看護師たちを率いて、軍医長官ホールと主任調達官デヴィッド・フィッツジェラルドの下についた。

ナイチンゲールは看護師に、特別な取り決めがある場合を除いて、将校の世話や料理をすることを禁じたが(あくまでも看護が主務)、デイビスは好みの若い将校たちに御馳走を振る舞い、放漫に資材を浪費した。デイビスの物資要求は、ホールの署名なしに叶えられた(『ナイティンゲール その生涯と思想1』)。

ナイチンゲールが管理した物資には、英国本国各地から様々に送られてくる慰問品も含まれた(慰問品にはヴィクトリア女王からの品々もあった)。彼女は正確に慰問品の記録を行い、医師からの請求のみがあった場合に支給するとしていた。

ナイチンゲールはこうした慰問品を受け取ると送り主に礼状を書き、分配も公平になるように配慮して、その扱いには苦慮していたが、デイビスたちは記録もろくに取らず、大盤振る舞いしていた。

こうしたデイビスの専横は、この病院を管理するために同行していたセロン派修道院の尼僧長を疲弊させ、激怒させ、帰国へと導いた。その後任はスタンリーが連れてきたレディのひとり、ミス・ウェアが選ばれたが、彼女もすぐにホールの傘下に加わった。

慰問品を巡る本国での誹謗中傷

ナイチンゲールは大切な慰問品の管理を、クリミアに赴いた際には友人で保護者といえるセリナ・ブレースブリッジに管理を任せた。セリナの帰国後はミス・ソルスベリーを雇用し、管理を任せた。

しかし、このソルスベリーの起用は最悪の結果をもたらした。彼女はナイチンゲールの看護の仕事を誹謗し、また慰問品を無駄遣いしていると本国に手紙を書いた上、本人が慰問品を横領した(その使用人たちも)。

ソルスベリーは慰問品の喪失を看護師たちのせいにしたが、看護師からの告発を受けた結果、彼女の着服が判明した。スキャンダルを避けたかったナイチンゲールは、後方スクタリの軍司令官ストークス将軍との協議で、ソルスベリーを本国へ送還することで決着させた。

ところが、ソルスベリーは本国で、自分は不当な扱いを受けたと言い出した。慰問品の使用をナイチンゲールが禁じたために倉庫で腐っていたとか、私的に利用したとか、自分が慰問品を奪ったのはそれを多くの人に渡すためだったと述べ、そんな自分が警察に捕まっていないのは自分が無実だからと主張した。

この事件を拡大したのは、クーラリ病院の運営に失敗して帰国していたメアリー・スタンリーだった。スタンリーは善意から、事実確認もしないままにこの中傷者ソルスベリーを支援し、訴状を書き上げて陸軍省に提出した。

陸軍での調査は、陸軍内の改革派・反改革派の抗争に利用され、反改革派の有力者が担当することとなった。問題は調査から一歩進んで事件として処理され、現地のナイチンゲールに正当性を立証するように要求がなされた。

この結果、ナイチンゲールは慰問品のトラブルにも巻き込まれ、仕事が増え、さらに疲弊した。それを助けにクリミアに来てくれたのが、メイ叔母だった。叔母は慰問品管理者として優秀な事務員も連れてきていた。

この「多くの人から託された大切な慰問品の管理」を巡って、ナイチンゲールは帰国後にも報告を行う羽目になった。そうした「人の善意から集められたものの管理・運用」に関わることに懲りたナイチンゲールは、彼女の名を冠して集められた「ナイチンゲール基金」による看護学校運営にも、当初消極的だったという。

人事問題解決のためのクリミア訪問と病気

ナイチンゲールは三度、戦場となるクリミアの地へ訪問している。これは英国陸軍が後方のスクタリに展開していた病院に加え、補給基地がある前線のパラグラヴァで次々と開いた病院の状況確認と監督のためだった。

初訪問と病気

一度目は5月10日に補給地パラグラヴァへ到着した。ソワイエと秘書の「黒人の紳士」、少年兵だったロバート・ロビンソン、チャールズ・プレースブリッジ、ベテラン看護師ロバーツなどが同行した。目的は、病院視察に加え、傷病兵の見舞いや主要人物に会うことだった。

現地に到着するとナイチンゲールに会いたい人々が数多く訪問してきた。この日、ナイチンゲールたち一行は最前線に近い砲台の一つを訪れている。翌日に訪問したバラクラヴァの病院は「女王に来て欲しかった」と告げた高齢のエリザベス・デイビスの管轄にあったが、適切な運営がなされず、ひどい有様だった。

もうひとつの城郭病院には、ナイチンゲールが信頼したショー・スチュワートが統率した。従軍中に書いた遺書で後任に指名した人物であるが、ナイチンゲール管理下のスチュワートは軍医から嫌がらせを受けていた。ホールは請求書の手渡しを求めたり伝言で詰問したり、調達官が物資補給を遅らせたりしていたのだった。傘下のデイビスに対しての待遇と、正反対である。

現地でナイチンゲールは病床を見舞うなどもしたが、数日後、昏倒して病に倒れる。同行していたソワイエはこの時の兵たちが示した大きな悲しみを書き残している。

ナイチンゲールは2週間以上生死の境をさまよい、譫妄状態になりながらも、絶えず、物を書き続けた。そして熱がピークに達した時、髪を切った。そして回復に向かった時に、総司令官ラグラン卿が病床に訪問してきた。

意識を取り戻した後も衰えていたため、スクタリの首席従軍牧師サビンの邸宅(帰国で不在に)で療養する手筈となった。スクタリからはセリナ・ブレースブリッジが迎えに来た。

この帰還を巡り、ナイチンゲールは「奇妙な事件」を記した。ナイチンゲールを現地で診療したのは衛生委員サザランド医師と、ハードレイ医師だったが、ハードレイはホールの親友という立場だった。

このハードレイとホールが、スクタリへ帰還する彼女のために選んだ船が、「スクタリへ寄港しない英国行き」だった。「本国に強制送還しようと策謀した」とナイチンゲールは書き残している。

「まったく真実のところ、ホール博士とハードレイ博士とは、本国へ向かう便船のリストを取り寄せ、その中からスクタリへは寄港しないという、まさにその理由からジューラ号を選び、本国へ強制送還すべく、私のそれに載せたのです。しかし、ブレーズブリッジ氏とウォード卿とは、私の生命の危険を承知のうえで、私を本国送還から救出すべく、下船させてくれたのでした」

『フロレンス・ナイチンゲールの生涯 上』p.306

ナイチンゲールはウォード卿のヨットで、スクタリへ渡ることになった。

スクタリに上陸してからサビン邸まで、ナイチンゲールを乗せた担架を12名の衛兵たちが2組となって交代で運び、栄誉を分かち合い、その後に大勢の人が黙々と従い、涙を流していたという。

そこでナイチンゲールは療養し、2〜3週間を回復に費やした。この地には、セリナとサザランド博士が付き添った。

【同僚】ジョン・ホールとの対立の深刻化

ブリッジマンの独立と人事権を広げていくホール

ジョン・ホールとナイチンゲールの接点は、ブリッジマン尼僧長を筆頭とするアイルランドのカトリック修道院の修道女たちが、クーラリの病院を離れるときに、深刻化した。

1855年9月、セヴァストポリの要塞が陥落して負傷者は減っており、クーラリの病院の閉鎖も決まった。閉鎖の背景には、クーラリの病院でのブリッジマン尼僧長の浪費があった。エリザベス・デイビスのように、ブリッジマンは特別支給品として葡萄酒や病院食、衣類などを、医師の許可なく勝手に振る舞っていた。陸軍大臣パンミュア卿はこの病院の閉鎖を、ナイチンゲールに依頼していた。

ナイチンゲールは自らの物資管理方式をこのクーラリの病院に導入させたが、修道女たちはこれに反発して、病院を離れた。ブリッジマンたちが向かったのは、ホールの監督下にある前線のパラグラヴァの病院だった。

ナイチンゲールに、この件の事前相談はなかった。ナイチンゲールがそのことをホールに問うと、「ナイチンゲールに看護師増員を依頼したが返事がなかったのでブリッジマンに頼んだ」と釈明した。

その上、ブリッジマンはスクタリの病院にいたアイルランドの修道女たち4名に、バラクラヴァへ来るように命じた。ナイチンゲールは尼僧長の命令に反対し、ストラトフォード大使に訴えたが、大使は意見に賛意を示しつつ、スクタリの後方司令官ストークス将軍に押し付けた。

最終的に、ナイチンゲールはブリッジマン尼僧長との間の争いを避けた。その背景には、新規補充された兵員のほとんどがアイルランド人のカトリック教徒で、宗教的救済を求める不満の声もあり、修道女の増員を許容した。ただ、宗教バランスを取るため、ナイチンゲールと協調するカトリックのバーモンジー修道院のメンバーも送ろうとした(『フロレンス・ナイチンゲールの生涯 上』p.315)。


こうした経緯を踏まえ、ナイチンゲールは、スクタリの病院業務が落ち着いた後、9月16日に、二度目の前線パラグラヴァ訪問を行った。この訪問の8日前の9月8日に、セヴァストポリは陥落している。

この訪問では、敵対する軍医長官ホールや主任調達官フィッツジェラルドとも付き合い、業務もある程度うまくいき、フィッツジェラルドも「ブリッジマンたちシスターの浪費癖がこの地に持ち込まれないように願う」とナイチンゲールに話すなど、関係は決して悪いものではなかった。

恩人チャールズ・ブレースブリッジが悪化させた軍医との関係

ところが、ここでまたしても英国での出来事と、その報道が、ナイチンゲールの努力を壊した。

事件を起こしたのは、帰国したチャールズ・ブレースブリッジだった。クリミアでの体験を語る講演で、彼はナイチンゲールが公にしないでと頼んでいたことを話したり、陸軍当局、軍医に対しての強い批判を行ったりした。ナイチンゲールが数日で病院を再建したとの誇張や、現場の調達官も軍医も無能だとする批判、そして医療過誤も指摘した。しかし、この医療過誤は噂に過ぎず、現場にとっては誹謗中傷となった。

『タイムズ』で取り上げられたこの記事は、陸軍関係者からしてみれば、ナイチンゲールによる煽動に他ならなかった。

ここで一気に軍との関係が悪化し、ナイチンゲールは絶望を味わった。再び、病にもなるほど落ち込んだ。

病から復帰した後、軍医や役人たちは仕事を拒んだり、待たせたりと、冷たい態度を示すようになった。

コレラがスクタリで流行したために、対応のためクリミア訪問は11月末で終わったが、軍医たちの敵意は続き、ナイチンゲールに和解したかに見えたフィッツジェラルドも、敵対行動に勤しんだ。

ナイチンゲールが看護師人事で不当な更迭をしたり、看護師は無能で浪費癖があり道徳的に乱れていたりと、事実に基づかない誹謗中傷と、その権限を前線に広げるべきではないという趣旨の秘密報告書をまとめ、ホールが各所へ送付し、本人も後に知ることになる。

この頃、メアリー・スタンリーが、ナイチンゲールの慰問品着服のデマを英国本国で広げていた時期でもあった。

人事問題の根幹 管轄範囲の曖昧さと指示の不徹底

当初、ナイチンゲールのスクタリと、ホールがいるバラクラヴァでは深刻な摩擦はなかった。ホールはナイチンゲールを邪魔に思い、病院責任者となった部下のローソンなどを通じて圧力をかけ、妨害したのは確かではあったが、深刻な対立で反歌あった。

しかし、相対的に病院の比重がスクタリから、前線のバラクラヴァへ移っていくと、接点が増えることとなった。総司令官ラグラン卿など、ホールより上位の軍上層部によって、バラクラヴァの病院には、ナイチンゲールの部下たる看護師団も派遣されるようになっていた。

ナイチンゲールとホールの対立の根幹には、人事の管轄範囲の曖昧さがあった。ナイチンゲールはクリミア戦争の看護師団の全権を掌握するように任命されたが、その管轄範囲は公式には「トルコ領内」で、ロシア支配下の「クリミア半島」にある前線バラクラヴァでの権限は曖昧だった。

この点を衝き、ホールは「クリミア半島はナイチンゲールの管轄外」と主張した。ナイチンゲールも、陸軍省やハーバートに手紙を送り、相談のない人事への苦情を伝えた。

この対立には、陸軍総司令官の交代が影響しているとの考え方もできる。総司令官ラグラン卿はナイチンゲールがクリミアの地で倒れた際に見舞いに来てくれたが、彼女がスクタリに戻って療養していた6月末に亡くなった。

後任のジェームズ・シンプソン将軍は、2月に幕僚長として着任した。ラグラン卿の急死に際して、ナイチンゲールの権限を示した公式辞令も引き継がれていなかった。

シンプソン将軍は、2月の幕僚長としての着任時、陸軍大臣パンミュア卿からの命令で、陸軍の惨状を引き起こした現地の高官、特に主計総監エアリー将軍と軍務局長エスコート将軍などの調査を命じられた。しかし、「何も問題がない」と報告するような人物だった。

ラグラン卿が現地の病院に兵士を見舞いに行き、ナイチンゲールの看護に支援を求めるなど現場に強い関心を持つ人物だったのに対して、新総司令官は病院に興味を持たなかった。

かつその後、シンプソンは11月には辞任し、その後、軽騎兵師団を率いたウィリアム・コドリントンが総司令官を引き継いだ。

こうした環境は、ホールにとっては有利だった。

後に陸軍大臣がナイチンゲールのクリミアでの人事権を認めた通知を出した際、総司令官コドリントンは「(ホールの)部下たちへナイチンゲールの権限を認める指示」を徹底するようにホールへ手紙で指示を出した。

この時、ホールは「現在に至るまで、私は本国の当局から、彼女の正確な権限と権威を規定する公式の指示を受けたことがないことを付け加えておく必要があります」と返信した。

これは虚言に思えるかもしれない。実際、ホールは何度も嘘を重ねている。ただ、当時の英国陸軍の状況やラグラン卿からの引き継ぎ状況を見るに、本当に公式の指示文書が、正確にジョン・ホール宛に出されていない可能性があっても不思議ではない。

【同僚】ホールとの最終決戦

三度目のクリミア訪問と嫌がらせ

ナイチンゲールがクリミアに渡った3度目となるのは1856年3月24日だった。『黒博物館 ゴーストアンドレディ』では、ホールがナイチンゲールを招いて暗殺を試みるエピソードのもとになっている。

ホールが当時ナイチンゲールに送った手紙によれば、ナイチンゲールにクリミアに来るように要請したのは、陸軍輸送連隊(輜重部隊)病院の担当医官テイラー医師で、2つの病院へ10名の看護師と2名の食事を用意する料理人を希望していた。

しかし、この隊の隊員は急に集められて規律も低く、現地ではコレラも流行していた。ナイチンゲールは派遣を迷った末に受け入れたが、主任調達官フィッツジェラルドはその派遣に伴う費用負担を拒み、ナイチンゲールが自腹で負担することとなった。

ナイチンゲールが残した記録では、現地で看護師たちへの食料配給がないまま10日間を過ごし、自費で食糧を用意して、看護師たちを寒さと飢えから守っており、配給をしなかった調達官への皮肉を書いている。

ナイチンゲールの人事上の勝利と、最後の嫌がらせ

権限を巡る問題は、現地で陸軍大臣パンミュア卿が結論を下した。大臣の命で1855年10月〜1856年2月に現地調査をしていた調査官レフロイの報告が評価されたという。

パンミュア卿はナイチンゲールの「クリミアでの権限」を認める至急文書を送り、1856年3月16日に届いた。内容はホールを譴責するものだった。ホールとナイチンゲールとの対決は、ナイチンゲールの勝利に終わった。

この対決にはレフロイの現地報告に加え、総司令官コドリントンの報告も影響したと考えられる。コドリントンはパラグラヴァの病院で消費される酒量の多さに強い懸念を持ち、12月末に不満を伝えていた。こうした浪費は、デイビスやブリッジマンに代表される野放図な浪費と、それを許容するホールやフィッツジェラルドが看過し、助長したものだった。

ブリッジマン尼僧長はナイチンゲールに辞任を伝え、帰国を選んだ。

それでもなお、ホールとフィッツジェラルドはナイチンゲールへの嫌がらせを続けた。ブリッジマン尼僧長からナイチンゲールが引き継ぐはずの看護師宿舎に鍵をかけ、雪の中に数時間待たせたのだ。

ブリッジマンが管理していた病院は不潔そのものという状況で、患者の置かれた状況もひどい有様だった。そこでナイチンゲールは状況を改善した。

改善した後に現地視察に来たホールは、ここで自己正当化を図る。

「以前の整然とした秩序を回復するように命じ、フィッツジェラルドの驚嘆すべき管理体制を妨げないように命じた」とする手紙を書いたのだ。

これはブリッジマンが管理した病院のひどさについての責任問題を逃れるためのものだった。

これがナイチンゲールとホールとのクリミアの地での最後の直接対決となった。この戦いの決着は、本国に持ち越される。

終わりに

まとめ

以上が、ナイチンゲールが直面してきた主な人事上の問題である。

この状況で様々な仕事ができたことには驚かざるを得ない。敵に囲まれ、足を引っ張られ、有能な上司・同僚などに恵まれず、その上、味方だったブレースブリッジの講演に怒った軍医たちが離反していったのは、最後のダメ押しだったことだろう。

ただ、そうした中でもナイチンゲールの身近には彼女を支える同志たちがいたし、何よりも彼女は、負傷したり病になったりした兵士たちへの献身を最後まで貫き、軸をぶらさなかった。

そんな超人的なナイチンゲールではあったが、カトリック修道女との戦いに相当疲弊したことが感じられる文章を残している。クリミア戦争後の1858年に記した『女性による陸軍病院の看護』という、女性看護師を実務に就業させるための提言の中で、こう記しているのである。

「私はさまざまに熟考を重ね実際に経験を積んだうえで、つぎのような確信を持つに至ったと正直に言わざるを得ない。つまり、彼女たち(修道女)を導入することは、ある面ではあったとしても、他の面でははるかに上回る害を及ぼすに違いないこと。(中略)そして彼女たちが参加することは、特にローマン・カトリックの修道女が参加することは、弱体化と分裂と不幸をもたらす種になるであろうということである

『ナイチンゲール著作集 1巻』p.42

元々、ナイチンゲールは「宗派を問わない看護活動」にフォーカスする立場であり、そうした看護を実践できる学校教育の場を作ろうとしており、その考えの正しさを再確認したことだろう。

クリミア戦争従軍時に看護従事者を集める際、看護修道女へ依存せざるを得なかったが、本人が望まなかったブリッジマン尼僧長などの派遣を押し付けられたことは、最後まで足を引っ張り続けた。本来であれば「免職」させただろうが、宗教問題・人種問題への懸念という当時の事情が、それをさせなかったのも人事の難しさとなる。

これも、1850年代という、カトリックが英国内での活動を大々的に活発化させて英国内に不安が生じた流れの中の特殊な出来事であることは、見落とせない要素である。

ナイチンゲールがこうした制約を外されていた場合、どんな結果を出していたのかには、興味がある。

メディアによる個人攻撃の系譜

もう一つ、これは個人的に気になったのが、「個人の見解の表明」(手紙や講演での発言)が、新聞を通じて広まり、個人攻撃へと繋がった点である。上記に挙げただけでも、ナイチンゲールは4回、攻撃を受けている。

  • スクタリに向かう途中、宗教バランスについて(投書→新聞):誤認

  • 食糧を十分に与えていないとの批判(手紙→親戚が投書→新聞):誤認

  • 慰問品横領の誹謗中傷(讒言→支援者登場で問題化→新聞):誤認

  • ブレースブリッジ講演(デマ→新聞→軍医激怒):本人意図せず

ナイチンゲール自身が看護領域の唯一の表に立つ責任者であり、また上流階級とも親交を持つ社交界トップレベルの社会的地位にある点では、当時、攻撃を受けた「政府側の人間」「権力者の横暴」となる立ち位置にいたかもしれないことは否定できない。

そうしたことを踏まえつつも、なぜ、こうした「投書→新聞による攻撃」が成立したのか。

それは、このクリミア戦争が、「家庭に戦争報道が、タイムラグ少なく報じられるようになった最初の戦争」だからだと考えられる。

1850年代、戦場には従軍記者が派遣され、カメラによる撮影もあった。加えてモールス信号や海底ケーブルを含む通信網の拡大で、本国と戦場は身近になり、より多くの情報が家庭に届くようになっていた。さらに、新聞は印紙税の撤廃で紙面を拡大し、郵便制度も前払いの切手制度などで拡大し、これらの新聞・手紙などが広がる鉄道で高速に輸送された。

戦争の進め方や戦地での待遇に不満を持つ兵士たちは、取材に応じたり、家族へ伝えたりした。それが直接の言葉や手紙を通じて、新聞メディアに渡り、拡散した。

英雄としてナイチンゲールを讃えて国民世論を喚起したのは新聞や国民であり、また彼女を誹謗中傷したのも新聞や国民である。このメディアの怖さをナイチンゲールは感じたかもしれない。

ある種、現代社会のTwitterでの何気ないつぶやき(あるいはどこかの講演での失言)を、メディアが事実確認を行わずに拡散・炎上させることに重なる環境が、既にクリミア戦争の頃には整っていたともいえる。

現代との比較で言えば、『タイムズ』に集まった寄付金はクラウドファンディング、戦地に送られた慰問品はAmazonのほしい物リストの原型と言えるかもしれない。

こういう観点で、現代テクノロジーとクリミア戦争時の環境を比較したメディア論を読んでみたいところである。

主要参考文献


いただいたサポートは、英国メイド研究や、そのイメージを広げる創作の支援情報の発信、同一領域の方への依頼などに使っていきます。