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データで見るクリミア戦争と、統計学者としてのナイチンゲール

 クリミア戦争のロシアと連合軍の双方での死者合計は75万人と推計され、ロシア軍は50万人、フランスが10万人前後、英国は2万人、トルコは約12万でした(『クリミア戦争』)。

 英国の死者数が少なかったのは他国より派遣数が少なかったことによる。また、戦争初期に英国より優れている医療環境とされたフランスは派遣兵員の増加により、死者数が増大した。

 ナイチンゲールは英国陸軍の医療現場に立ち、多くの死者を見送ってきたが、このテキストではその規模と、数字に強かった彼女がどのように把握していたのか、そしてなぜそのような分析が可能だったのかを整理する。

 なお、統計学者としてのナイチンゲールについては、その名も『統計学者としてのナイチンゲール』という最高の専門書が出ているので、より詳しく知りたい方はそちらを是非。本テキストの主要参考文献です。

※先に以下をお読みいただくことをオススメします。



英国陸軍兵士最大の死因=悪い衛生環境

 2万人に及ぶ英国陸軍兵士の死因について、ナイチンゲールは戦後に分析を行い、月単位での死者数の推移などグラフ化した。このグラフが有名な「Rose Diagram」(日本語では「鶏頭図」「コウモリの翼」などと呼ばれるものとして伝わる)で、円の外側から「青:伝染病(予防できる・鎮圧できる)」、「赤:負傷」「黒:そのほか」となっており、死者の推移と要因が一目瞭然となる。

Diagram of the causes of mortality in the army in the East 
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Nightingale-mortality.jpg

 このようなグラフの使い方は、データをわかりやすく伝える可視化の手法として、今の時代にあっても注目を浴びている。

 ナイチンゲールがベースに用いたデータは戦後に陸軍がまとめたもので、記録された死者は約1.8万人、死因のトップは伝染病で約80%(1.47万人)、負傷による死者は約10%、そのほかが約10%だった。

 80%の患者が敵兵の攻撃による直接的負傷による死ではなく、駐屯地での罹患や負傷後の院内感染による「伝染病」で死んだことは、「入院」が人を殺した側面がある。

死者数のピーク=ナイチンゲールの派遣当初

 ナイチンゲールが作成したグラフを見ると、死者が増大し始めるのは宣戦布告した1853年3月を経て、4月からとなっている。そして「BULGARIA」(ブルガリア)と書かれた7月から、特に「伝染病」(青)の死者数が増大していることがわかる。

ナイチンゲール作成の図から:1854年4月〜9月まで

 「ブルガリア」は、クリミア戦争で英仏両軍が拠点を構えたヴァルナの地を示すもので、7月からこれらが広がり、8月にかけて死者数が増大しているのがわかる。このヴァルナの地ではまだ、英国はロシアと戦闘をしていない。

以下は戦争の時系列となる。

 そして戦場がヴァルナからクリミア半島へ移り、それから毎月伝染病で数百名が死に、11月の嵐とインカーマンの戦いの激戦を経て死者も増大した。

 12月から翌年3月までのわずか4ヶ月で、全体死者数約1.8万人の半分を占める9,100人が死んだ。ナイチンゲールが着任した時期は、まさにこの最も過酷な状況にあった(※)。この4ヶ月の負傷による死者301名に対して、伝染病での死者は7,811人だった。

※この12月に、ナイチンゲールは自らが担当するスクタリの兵舎病院(オスマントルコの兵舎を病院に転用)での負傷兵受け入れを、前線のラグラン総司令官から要請されている。しかし、兵舎病院の病床は不足しており、急遽、火災の後に修復せずに放置されていた兵舎区画の修復工事を主導し、予算確保、人員確保、受け入れ時の供給品提供までを行い、間に合わせている(これもまた詳細エピソードがあり。後日)。

死者数の減少

 1855年3月に衛生委員会が着任してあっという間に改善を行うと、伝染病による死者数は減少した。当時の衛生改革や医療水準では、コレラの原因は明確になっておらず、細菌による感染の知識もなかった。清潔にすることが解決策とされていた。

ナイチンゲール作成の図から:1854年4月〜1855年3月(衛生委員会着任)まで


 そして、6月からセヴァストポリが陥落する9月にかけて負傷による死者数が前年に匹敵するほど増加しても、伝染病による死者数は大きく伸びずに推移した。要塞攻防戦で大量の死者が生じたが、陥落以降は大規模な戦闘はないまま陣を構えて推移し、比較的近い場所に陣地に引き上げていたロシア軍との間に交戦はなかった。むしろ、兵員同士の交流もあった。そして外交交渉が進み、翌年の1856年3月に終戦となる。

ナイチンゲール作成の図から:1855年4月(衛生委員会着任翌月)〜1856年3月(終戦)まで
要塞陥落後の9月以降は減少トレンド。

 なお、セヴァストポリ陥落後も、感染症は無くならなかった。陥落後に亡くなった一人が、『黒博物館』「ゴーストアンドレディ」に登場してナイチンゲールを助けたマグリガー医師となる。

 陸軍兵の補充に苦労した英国陸軍はドイツ人傭兵部隊を戦地へ派遣し、この兵員たちをスクタリの兵舎病院の倉庫に収容させた。この倉庫は衛生環境が極めて悪く、衛生委員会が利用を禁じたものだったが、セヴァストポリ陥落以降、軍は反対を押し切って、収容を進めた。その結果、コレラが発生して病院に拡大し、対応した一人であるマグリガー医師が「最初の犠牲者となった」(『フロレンス・ナイチンゲールの生涯1』)。

死亡率推移

 ナイチンゲールが用いた生データと、折れ線グラフでの推移。

『統計学者としてのナイチンゲール』の表から
上記表を折れ線グラフにしたもの

データの時代たる19世紀、ナイチンゲールと統計

ナイチンゲールと統計

 数字から状況を把握し、改善策を提案する手法をナイチンゲールは駆使した。病院別の入院患者数と死亡率や、輸送時の死亡数、あるいは陸軍兵舎に住む軍人と平均的な国民の死亡率の差(※)などから、ナイチンゲールは環境による死亡率を下げることにフォーカスし、その改善の活動に乗り出した。上記エピソードはそのごく一部である。

 上記のグラフを含むクリミア戦争の医療・補給の諸問題を明確にし、改善するための提案を含んだ報告書をナイチンゲールは周囲の協力を得て作成している。それが、1858年に作成された『Notes on matters affecting the health, efficiency, and hospital administration of the British Arm』、『英国陸軍の保険、能率および病院管理に関する諸問題についての覚え書』となる。

 小部数だけナイチンゲールが自費出版して王族・政治家・軍関係者ほかに配布したその資料は、幸いにも現在はネットで公開されている。

 この報告書の中身は後日一部を紹介するが、1,000ページにも及ぶ内容で、クリミア戦争で兵士たちを殺す環境を作り上げた「陸軍」の責任を徹底的に検証・追求する、凄まじきい執念を感じるものとなっている(一部に、陸軍病院で女性看護師を配属させた場合の役割・ルール・労働条件などを含めた提案書を含む)。 

 個人的に、ナイチンゲールの著作でこの一冊が最高傑作だと考えるし、それこそ「後方支援」について、戦争時の失敗を分析する「ポストモーテム」(事後検証)として最高の資料の一つだと考える(軍事史的にどのように評価されているかは興味がある)。

 ナイチンゲールの残した膨大な資料をまとめた研究者リン・マクドナルドは、クリミア戦争後に様々な衛生改革に取り組んだナイチンゲールの方法論を次のように整理・列挙する。その方法論は、現代でも十分に通じる要素から構成されている。

・可能なかぎり最良質な情報を手に入れること。
・政府が公表した報告書や統計類をできるかぎりすべて利用すること。
・それぞれの領域の専門書を読み込み、さらにその領域の専門家たちに面接取材すること。
・手に入る情報が不十分なばあいは、自分の手で情報を収集すること。
・そのために調査票を作成すること。
・調査票作成に関して、調査の専門家に相談して意見を求めること。
・本調査の前に予備調査を行うこと。
・研究調査の結果は、草稿または校正刷の段階で専門家の精査を受けたあとに、公表や印刷を行うこと。

リン・マクドナルド『実像のナイチンゲール』

 この中でナイチンゲールが武器とした一つが、統計となる。数字がない場合は、自ら調査票を設計し、データ収集を推進した。

 社会改革を行おうとしたナイチンゲールの基礎にあったのが、統計・数字への理解だった。そうしたナイチンゲールに大きな影響を与えたとされるのが、ベルギーの統計学者ランバート・アドルフォ・ケトレと、戸籍本署統計部部長ウィリアム・ファーとなる(下記は『統計学者としてのナイチンゲール』に依拠)。

 若い頃からナイチンゲールは父の教えで数学に興味を持ち、有名な数学者ジェームス・ジョセフ・シルヴェスターから個人教授を受けた。これは当時の女性が受けた教育としては極めて特殊で、父ウィリアムの先見的な教育が後の活躍を生んだとも言える。

 統計学者ケトレとの出会いは彼の著書『社会物理学』で、人間を計測してそこに法則性を見出そうとするものだった。数理統計学を医学統計に応用することも試みて、季節と死亡率の関係性を見出そうとする分析も行った。ケトレは1853年開催の第一回国際統計会議を開催し、統計の活用についての科学と実務の観点の接合を提案した。

 ナイチンゲールはクリミア戦争以降、様々な社会問題に関わる際に、特にデータの収集にこだわり、必要な分析を行えるように調査票の設計の提案をした。調査し、分析し、そこから対策を練るのが活動の根幹になった。

 1857年に英国統計学会初の女性会員となり、1860年の第4回国際統計会議に参加し、ファーと共に行った民間病院での統計調査の結果に基づいて「病院での統計を標準化する様式」の提案を行い、1863年の第5回会議でも外科手術の統計様式のひな型についての論文を提出した。救貧院の医療改革にも、インドの医療改革にも、常に彼女は調査票の提案を行なった。

※平時の陸軍兵員と一般市民の死亡率では、前者の方が高く、それを改善することで年1200人程度の命を救えるとの試算がなされている。以下はそうした死亡率の比較(黒が一般市民、赤が兵員。同一年齢帯での経年での比較)。棒グラフを含む資料は、前述の報告書から抜粋してグラフを多く掲載した『Mortality of the British army : at home and abroad, and during the Russian war, as compared with the mortality of the civil population in England』(1858年)。これもPDFがダウンロードできる。


統計局ウィリアム・ファーとナイチンゲール

 ナイチンゲールは、前述したように、クリミア戦争の振り返りと、英国陸軍兵士が置かれる状況を改善する提案書『英国陸軍の健康能率および病院管理に影響を及ぼしている事項についての覚え書』を準備した。この時、報告書作成に加わったのが、戸籍本署統計部部長のウィリアム・ファーだった。

 ファーは公共衛生を主導したエドウィン・チャドウィックの支持者で、その口添えで戸籍本署に着任した。着任早々、戸籍に登録する死因を分析するため、病気の種類を27種類あげ、医者に記入するように求めていた。その後、教区、年齢、職業も追加し、病死分析の基礎を作った。ロンドンで大規模なコレラが発生したときも、分析を行っていた。

 ナイチンゲールがクリミア戦争での記録上で正確な死者数を知り、病院の衛生環境が最大の死因だと分析し、統計を用いた数字を資料に徹底活用していくようになるのは、ファーと協働したことが大きいとされる。

 1861年の国勢調査の際、ナイチンゲールはファーに対して、「疾病者」「虚弱者」の調査と、住居の状況把握を加えるように要望した。前者はアイルランドで、後者はアイルランドとフランスで実績があった。この提案は政治家に受け入れられずに実らなかったが、正確な調査は彼女の根幹にあり続けた。

 余談ながら、ウィリアム・ファーの娘は、ヴィクトリア朝に登場した魔術結社「黄金の夜明け団」のメンバーとなったフローレンス・ファーである。以下の「西洋魔術博物館」の人名録ページによれば、その名の由来はナイチンゲールらしいとのこと。

「クリミア戦争時、ナイチンゲールは衛生問題の重要性を認識していたのか」という疑問説 ファーによるナイチンゲールへの影響

 『ナイチンゲール 神話と真実』の著者ヒュー・スモール(※)は、クリミア戦争後のナイチンゲールの手紙や記録などから、ナイチンゲールはクリミア戦争従軍期間中、そして戦後のある時点まで、「病院の衛生環境が死者を作り出した最大の要因」と認識しておらず、ファーの論証によって意見を変えたと、残された書簡のやりとりなどから指摘する。

 前段として、陸軍の補給状況を調べたマクニール=タロックの報告書があり、そこでは兵士たちの死亡率が高かった要因は補給物資の不足や、過労、不備がある宿舎と考えられており、ナイチンゲールはその説を受け入れていたとされる。クリミア戦争後に報告書をまとめている途上の1856年11月の手紙によれば、ナイチンゲールは軍の物資補給の改善を強く主張している。

「私の極秘報告書の要点は次のとおり。一、軍が自分たちのことは「自分でする」よう、いかにして教育するか——自分達の家畜を屠殺し、自分達のパンを焼き、小屋を建て、排水設備をつくり、靴をつくり、等々」。全部で十六の要点が上がっているが、そのうち二点だけが衛生問題に触れたものだ。(中略)スクタリでの死亡率減少を、マクニール=タロック委員団と同じころにパンミュアに派遣された民間人からなる衛生委員団の努力の成果であるとはじめて認め、この委員団に対してこれまで以上の敬意を払ってはいるが、いぜんとして彼らの業績を、スクタリでは既にほとんど見られなかったこれらの発生を抑えたことに限定しているに過ぎない。死亡率が減少した最大の原因は、自分の病院における要因よりも、クリミアの野営地における衛生・物資補給委員団の仕事の結果、搬送されてくる患者たちの容態が改善されたためだ、ととれるような言い方をしている。

『ナイチンゲール 神話と真実』p.105

 そして同じ手紙の中で、ナイチンゲールは、ファーの戸籍本署を訪問したことを記載しているが、その手紙のテキストも、「統計が、貧しい食糧配給によって兵士たちが死亡したことが証明するだろう」という考えがあるとも同書は指摘している。

 また、ナイチンゲールが印刷所に送っていたという初期の報告書の草稿では、軍の物資調達批判が主に挙げられ、マクニール=タロックの報告書に準じた内容となっていた。実際、報告書の中身も、上述した衛生問題に加えて、非常に細かい様々な物資の数量の記録や、それらが現場の兵士たちに供給されなかった要因分析に、多くのページを割いている。

 こうした見解が上述した「衛生問題が主要因」とする認識へ変わったのは、統計学者ファーの影響だったと、スモールは指摘する。ファーとの協働の中で「病院によって死亡率に差があること」、そして時系列で見ると「衛生委員会の活動によって劇的に死亡率が下がったこと」が明確になっていき、最終的に「衛生問題が最も大きな要因だった」ことをナイチンゲールは受け入れた(『ナイチンゲール 神話と真実』pp.117-126)。

 このようなナイチンゲールの認識の変化を示す一つの材料として、スモールは、ナイチンゲールが1857年5月11日にマクニールへ書いた手紙の写し(姉パーセノピが保管していた)を示している。その中で、ナイチンゲールは自らの管轄したスクタリの病院の衛生環境が要因だったと書いている。

 スクタリは、もはや仮説の領域ではなく、われわれに多くの確実な知識を与えてくれるだけの重要性のある歴史的な事例なのです。衛生環境を整えたことによって戦争の後半、死亡率が1.8%に低下したというのは本当です。
(略)
 最初の冬にクリミアから搬送されてきた兵士たちの容態はあまりに悪く、どんな状況であったとしても回復しようがなかったのではと言われれば、次の冬に陸上搬送隊が移送してきた兵士たちも全く同じ悪い容態だったのですが、受けれる環境が異なっていたので彼らは快復した、と答えることができます。
(略)
 「胃腸の疾患」による死亡率は、スクタリでは23.6パーセントで、クリミアでは18.3パーセントです。どうしてこのように死亡率が上がるのでしょうか。スクタリでは、この原因だけでクリミアよりほぼ25パーセントも多くの兵を死なせていることがおわかりでしょう。そして病気はおもに建物そのものの中から発生しました。この極めて重要な問題に関して、公務上関心のある人には誰にでも、女王陛下にすでに行ったように、詳細にいたるまですっかりお話しするつもりです」

※ヒュー・スモールは『ナイチンゲール 神話と真実』で、ナイチンゲールが病になり、公の場に姿を見せなくなった理由は「ナイチンゲールがクリミア戦争の報告書作成を通じて、他の病院ではなく、自らの病院で最も多く死者が出たこと」と「病院の衛生に問題があったこと」を知り、「当時の自分の知識でも衛生環境は改善でき、加害の中心人物だったと知ったことへの絶望にあった」としている。戦後の執念を感じさせる衛生改革のモチベーションや、「共犯者・責任者シドニー・ハーバート(ナイチンゲール派遣を決めた戦時担当大臣で友人・政治家)を戦後に駆り立てる微妙な距離感」は、失った命を取り戻そうとする強い後悔の念があったからだと、残された手紙などから主張した。

 ナイチンゲール資料をまとめ上げたリン・マクドナルドは、「衛生問題をクリミア戦争の問題として、報告書にまとめて公の場に明らかにしたのはナイチンゲールであり、そうした「自己の責任を感じて病気になった」スモール説を「誤謬」として否定している(『実像のナイチンゲール』pp.171-172)。

 ただ、リン・マクドナルドは『実像のナイチンゲール』中で、スモールの「ナイチンゲールがクリミア戦争中も、クリミア戦争後しばらくの間も、衛生環境こそが死者を主要因だったと認識していなかった」説については否定していない。

余談

戸籍管理による正確なデータ収集

 ナイチンゲールが生きた時代は、近代国家の運営が進む中で、国民の数を正確に把握する動きが進んでいった。英国でも1801年に国勢調査が始まり、以降、10年ごとの調査が行われた。国民は国力を増す労働力と見做され、産業別職業別、年代別などの人的資本として記録された。後には政策の妥当性を判断する材料として、政治の世界にも用いられた。

 ナイチンゲールが若き日を過ごした1830年代からクリミア戦争の起こる1850年代までの20年間は、ヨーロッパ全域で統計は「熱狂の時代」と呼ばれるほどに流行した。

 英国では1832年に選挙制度改革があり、人口に応じて選挙区の再編が行われた。同じ1832年には最高助言機関の枢密院に含まれた商務庁で統計専門部署が立ち上がり、生産力や商工業の情報収集を職務とした。

 1838年には国が個人の出生・死亡を戸籍管理する法律が可決し、1839年に戸籍本署が生まれた。この組織は英国国教会で管理していた出生、結婚、死亡の記録を、保管するようになった。英国全土は地区・小地区に分割され、戸籍管理官が各地区に派遣された。

犯罪統計と警察行政

 統計は、首都警察機構(ロンドン警視庁)を求める提言の中でも用いられた。データを用いたのは、パトリック・カフーン(1745-1820)となる。

 カフーンは1797年『首都警察論』(第5版)で、ロンドンの人口を100万人と推計し、9人に1人が犯罪または非合法または不道徳な手段で生計を立てている犯罪者と見積もった。また、この犯罪者たちを24分類し、犯罪の規模ごとに整理し、売春婦が1位、不品行で仕事を追われた家事使用人が2位と挙げたりするなど、年間の被害総額200万ポンドの推計のうち、35.5パーセントが小口の盗みだとした(このブロックは『改訂版近代ジャーナリズムの誕生』が主要参考文献)。

 カフーンは犯罪者予備軍が犯罪に至るまでにプロセスがあり、犯罪を予防するための施策を提言した。その内容は、夜警に加えて昼間のパトロール強化や、若い徒弟や使用人が犯罪と接触する機会と見做された「フェア」(祭り)の非合法なものや夜間開催を禁止するなどの規制をかける根拠となった。

 カフーンのデータは、社会を構成する諸階層を可視化した。特に近代英国の社会構成を知る際には、彼がまとめた以下の表の数字がよく用いられている。

 犯罪を統計から分析し、1829年のスコットランド・ヤード創設に強く関わるのが、公衆衛生を主導したエドウィン・チャドウィックだった。チャドウィックは『予防警察論』を執筆し、1811〜27年までの犯罪の種類別件数や、一定期間に区切った時間軸での検挙数、有罪数、死刑判決数、死刑執行数などを比較し、近年のデータの方が過去よりも犯罪発生率や死刑率が増加していることを示した。

 同時に、この増加は「摘発できるようになった」要因が大きいと補足しつつ、数字上は殺人よりも窃盗犯の方が圧倒的に高いこともあることから「窃盗を取り締まるための予防犯罪の重要性」を伝え、予防警察の重要性を訴えた。

 犯罪情報や犯罪者情報のデータベース化は、犯罪者取り締まりを進めた18世紀の先駆者フィールディング兄弟の試みの中にもあり、非常に面白い話題となる。19世紀後半にかけて、犯罪に使われた凶器の収集(「犯罪博物館=黒博物館」)や、犯罪者の指紋登録、写真によるデータ化も行われていく。ただ、今回は主題ではないので、割愛する。

まとめ

 前半ではナイチンゲールが分析・可視化したクリミア戦争の死者数を取り上げつつ、その分析を掲載した報告書を取り上げた。中盤ではその報告書を作る過程で、ナイチンゲールの「病院での死者が多かった要因」の認識が、まさに彼女が携わった統計によって変わっていくことも、示されている。少なくともナイチンゲールは、数字によって自らの判断を変える見識を備えていた。

 後半では、彼女がそのような報告書を書けた背景として、国家によるデータ収集が進んでいった時代であることを簡単に説明し、そのデータは日本でも人気がある「スコットランド・ヤード」創設にも関わっているという余談に触れた。

 なお、私が専門とするメイド研究・家事使用人の領域でも、国勢調査による家事使用人の就業者人口のデータは欠かせない。この統計によって「19世紀末にかけて、女性の労働人口で最大規模になっていったこと」、「女性使用人が男性使用人より圧倒的に多いこと」、「上級使用人数も少ないこと」などを示すことができる。

次回

以下のいずれかを。

「データ収集の鬼たるナイチンゲール」
「クリミア戦争でナイチンゲールが対応した様々な人事問題」
「ナイチンゲールから見たヴィクトリア朝の宗教問題」

主要参考文献


いただいたサポートは、英国メイド研究や、そのイメージを広げる創作の支援情報の発信、同一領域の方への依頼などに使っていきます。