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クリミア戦争に行くまでのナイチンゲール 家族との長い戦い

はじめに

本テキストは、藤田和日郎先生の『黒博物館 ゴーストアンドレディ』で描かれる物語の主人公、世界的に有名なフロレンス・ナイチンゲールがクリミア戦争に行くまでのテキストです。

『黒博物館 ゴーストアンドレディ』のフロレンス・ナイチンゲールは、看護師の仕事に関わることについて家族の強い反対を受け、死を願うほどでした。公式で出ている情報では、本作品を舞台化する劇団四季のサイトの「STORY」で次のように言及されています。

時は19世紀。舞台はイギリス。
ドルーリー・レーン劇場に現れたのは、有名なシアターゴースト グレイ。芝居をこよなく愛し、裏切りにあって命を落とした元決闘代理人。

そんなグレイのもとを一人の令嬢が訪ね、殺してほしいと懇願する。それは看護の道に強い使命感を抱くも、家族による職業への蔑みと反対にあって生きる意味を見失いかけていたフロー。最初は拒んだグレイだが、絶望の底まで落ちたら殺すという条件で彼女の願いを引き受ける。(後略)

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ナイチンゲールに関する本を読むと、「死を願う」ぐらいに家族から追い詰められていたことが伝わってくるため、『黒博物館 ゴーストアンドレディ』の家族関係の描写に繋がった背景について、本テキストでは見ていきます。

なお、以下に書くテキストは、2023/06/22発売予定の『黒博物館 館報 ヴィクトリア朝・闇のアーカイヴ』のために書いたものから、長すぎる・細かすぎるとして掲載しなかったものを再編集して公開しています。

幼少期と召命

史実のフロレンス・ナイチンゲールは1820年に、父ウィリアム・エドワード、母フランシスの間に生まれた。両親のイタリア滞在中にフィレンツェで生まれたため、生地にちなんで「フロレンス」の名前がつけられた。姉フランセス・パーセノープはナポリで生まれ、母フランセスとナポリのギリシア植民地時代の地名「パーセノープ」からそう名付けられた。姉は「パース」または「ポップ」、妹は「フロー」と呼ばれた(以降、フローと記す)。

父は旧家の生まれで、裕福な叔父から鉱山を含む莫大な財産を相続した。母の父(祖父)も政治家で奴隷解放運動に協力するなど、当時の上流階級に生まれ育っていた。


ナイチンゲール一家の拠点は、夏に過ごすダービーシャー州にある屋敷リー・ハーストと、それ以外の季節を過ごすハンプシャー州にある屋敷エンブリー・パークだった。社交の季節にはロンドンで過ごした。

幼い頃からフローとパースは当時の女性が受けた平均的教育よりも高度な教育を父親より受け、政治や各国史、ギリシア語、ラテン語から論文、さらには数学などの授業まで受けていた。

貧しい人々へ関わろうとする気持ちは、母がきっかけとなっていた。それぞれの屋敷にいる間、母は周囲に住む貧しい人々へ慈善活動を行い、病人を見舞っていた。夫婦で村の学校に援助も行い、フローはこうした当時の地主たちが行っていた社会活動に関わり、使命感を持った。

そして、1837年2月7日、神の声を聞く。この声を聞き、それから三ヶ月は宗教的情熱に駆られて、貧しい人々の間で働いたという。

家族との戦いの前

『黒博物館 ゴーストアンドレディ』のフローは、自らの活動を阻害する両親との間の戦いに絶望し、死を願うようになるのも相当な理由がある。フローが看護の仕事をしたいと願って親に伝えたのは1845年で、そこから実際に実現する1853年までの8年間は、まさにフローと家族との長い戦いが続いたからだった。

史実のナイチンゲールは「啓示」を受けた1837年から約半年後となる九月から、両親と共にヨーロッパ旅行へと出かけた。この時、フローは17歳、姉パースは18歳で、ロンドンでの社交のデビューを迎える最終仕上げの旅とも言えた。旅行は屋敷エンブリー・パークの大改修に合わせたもので、1839年4月まで続いた。

この旅で一家はフランスやスイス、イタリアなどを周遊した。フローはヨーロッパの政治情勢を間近に見たり、現地の上流階級の社交界に加わったり、フローが大好きだった歌劇を鑑賞したりと華やかな生活を送った。

1838年からはパリに腰を落ち着け、そこでフローは現地の病院や看護婦の団体にも興味を持った。1839年に英国へ帰国して数週間を社交の季節を迎えたロンドンで過ごし、姉妹で女王にも謁見を行い、いわゆる社交界にデビューするでビュッタントを迎えた。この頃から既にフローは家族・親族から頼りになる存在となっており、親戚の家事を助けたり、病人の看護をしたり、クリスマスの演劇を主導したりと、手際の良さも発揮している。

社交界でもフローは父から受けた高い教育と自らの広い範囲での知的好奇心から、屋敷を訪れる大人たちとの会話でも機知を発揮していた。当時、そうした能力は上流階級の家庭生活へ向かうことが望まれ、フローは「家庭の義務」を果たしていたが、強い関心はそこになく、時々、屋敷を抜け出して近隣の人々の病気を見舞うために時間を使っていたという。

なお、フローの家族の交遊範囲には、後の首相パーマストン卿や社会改革に取り組むアシュリー卿(後のシャフツベリー卿)がいるなど、上流階級の有力者との交流機会にも恵まれる環境にあり、こうした点も後にフローが活動を広げる上で、大きく役立つことになる(この辺りの上流階級とのコネクションの強さは、作中に登場する料理人アレクシス・ブノワ・ソワイエと重なる)。

家族からの看護への強い反対(1844-45年)

フローの看護への関心は1844年には芽生えており、当時の訪問者に「看護の方法を学び、その仕事に身を捧げることは、とんでもないことか?」と聞いていた。

そして1845年には病になった祖母の看護と、同じく病になったかつての乳母の看護と看取りに携わり、村の看護に時間を使うことは認められた。

この経験を踏まえ、フローは病院で看護師となる実地訓練を受ける気持ちが強くなった。家で看護をするのが女性の役割と思われた時代に、医療知識のなさが死を招くこともあったのを目の当たりにしていたからだった。

この頃には病院を見学したり、実際の看護婦に会ったりと実態を知る機会を持った。さらには「教育のある女性が(キリスト教修道女としての)誓約を立てずに加入できる看護師の団体の設立」を計画した。

しかし、特に母親の強い反対を受けて、その計画を一時的諦めた。

フローの関心は「看護の仕事に就く」だけではなく、「看護師の団体の設立」という組織・職業化に向けられていた。

しかし、家族の反対にも理由があった。当時の女性看護師の社会的地位は低く、男性医師と一緒の職場で性的な関係もあるとされ、その点を母は強く反対した。また、当時は専門職としての職業的地位も成立せず、医師の手伝いや患者の回復を手伝うというより、掃除や雑用としての役割が軸だった。規律がないともされ、飲酒の習慣があったり、入院患者に十分な食事を与えなかったり、物を盗んだりする看護師もいた。

より重要なことは、当時の上流階級(中流階級も)の女性たちはお金を稼ぐ労働をするべき立場と見做されておらず、就業を妨げる頑強な社会的価値観が存在した。ジェントルマンが「労働しない」ことを価値としたことと同じで、社会的地位がある人たち(娘の場合は父が、結婚している場合は夫)が、その「庇護化」にある女性を就業させるのは社会的ステータスを下げることにもなった。

上流階級の女性たちは「職業」に就けず、社交に生きるか、適齢期で結婚して家庭生活を使用人を管理して支えるか、社会活動としての慈善を行うかなどに限られていた。フローは、優雅な日常生活に身を置く自分を許せなかったが、社交界に生き、当時の一般的価値観を持つフローの母にも姉にも、その階級を離れていこうとするフローが理解できなかった。

家族からすれば「看護」に邁進したいとするフローが理解しがたく、父も母も関わりを禁じようとした。母はこのとき、娘を監督し、毎日、家事をやらせた。家事使用人で家政を行うメイドを統括するハウスキーパーが行うような「食品保管庫や食器、リネン」を管理する仕事だった。

理解し難いフローの加えて、フローの在り方は母と姉から執拗な攻撃を受け、現代的観点では精神的虐待とも言える境遇に陥った。

母も姉もフローを支配しようとする強い欲求があり、フローの考えを罵り、否定し、「矯正」しようと強く束縛した。母は娘の結婚を強く望み、数学への強い関心を示したときには何の役に立つのかとフローの行動を否定し、彼女宛の手紙を検閲したこともあった。

姉はフローが自分の意に沿わないと激しく精神の均衡を欠いた状態に陥り、そのためにフローは姉に尽くす看護を何度となく強いられた。

抑圧と出会いと学び(1846-1850年)

家族の反対を浴び続けるフローは虚脱状態に陥ることもあったが、そんな彼女を支えたのは、周囲の友人・知人たちだった。労働者保護を行うアシュリー卿は貧民救済や衛生に関する政府活動や病院関係の報告書を読むように助言した。プロシアの駐英大使だったブンゼン男爵夫妻もベルリンの病院の情報を伝えた。その中には看護を学べるプロシアの「カイザースヴェルト」の情報もあった。

1846年には、後にクリミア戦争にも同行してくれるブレースブリッジ夫妻と友人になっていた。特にセリナ・ブレースブリッジはこの時のフローの良き理解者となり、命綱にもなっていた。1847年冬にローマ旅行へ行く時もフローを連れていくため、家族の説得をしてくれた。

この旅行で、フローは自由を味わい、看護への情熱をより強め、人生を変える友人とも出会う。

観光名所を周遊しながらも、フローはローマにある教会トリニタ・デ・モンティの教会附属修道院の女学校や孤児院・学校を訪問した。訪問のきっかけは出会った孤児の救済のためで、フローが気にかけた孤児を引き取ったのがこの修道院だった。

学校は子どもの自発性を重んじ、発言を積極的に行わせ、教師の質も高かった。ここでは学校規則や献身・規律を学んだ。特に尼僧長との出会いは強く、キリスト教徒としての学びを受けた。抵抗せず受け入れ、かつ自らを清めて高める瞑想修行を通じて、フローは自分を取り戻した。

ローマでは、フローを病院運営に導き、クリミア戦争への従軍も実現したハーバート夫妻とも縁を結ぶ。ハーバート夫妻も慈善活動をしており、フローは帰国後に保養所を一緒に運営することも考えた。それまでに培った公衆衛生や病院経営の知識が、フローを病院に関する専門家にしていった。またハーバート夫妻は上流階級の最上流に属し、その交流は母を満足させた。

看護を学ぶ機会

1848年には、姉の療養ドイツ旅行の予定があった。そこで、ブンゼン男爵夫妻から教わった、現地のプロテスタント系ディアコニッセ(修道院に所属する看護修道女)を育成する学校と看護を実践する病院、感化院、保育園、孤児院などからなる「カイザースヴェルト」への訪問を計画した。

しかし、この計画は政情不安で頓挫する。1848年はヨーロッパ中で革命の嵐が吹き荒れた年だった。

落ち込んだ彼女はその慰めを、近隣の村の病人看護に没頭したものの、病や汚れを嫌う父を怒らせた。父は「村の学校で働いたらどうか」と言い、フローは従ったが、うまくいかずに無力感を強めた。

1849年にはリチャード・ミルンズのプロポーズを退けたことで、母の感情は著しく損なわれ、娘の幸せを願う気持ちは、勝手な生き方を許さない方向へ突き進んだ。これに姉も加わり、フローは詰られ続けた。反論せずに沈黙したことも、それを助長したという。

この状況を救ったのが、再び、セレナ・プレースブリッジだった。夫妻はエジプトとギリシアへ旅行するのにフローを同行させる説得をして、認めさせた。帰路は夫妻の邸宅があるアテネへ滞在し、そこでアメリカ人宣教師で学校と孤児院を経営するヒル夫妻とも知り合う。しかし、この旅行中のフローは精神的になままで、セレナはフローのため、独断で帰路にカイザースヴェルトを訪問する機会を作った。

2週間の滞在でフローは復活し、帰国後に『ライン川沿いのカイザースヴェルトの施設』(The institution of Kaiserswerth on the Rhine, for the practical training of deaconesses, under the direction of the Rev. Pastor Fliedner, embracing the support and care of a hospital, infant and industrial schools, and a female penitentiary, 1851)と題した本を匿名出版した。

カイザースヴェルトに行ったことは母の機嫌を大きく損ね、抑圧は再び続いた。ただ、フローには、自分の行動が家族から反発を招き、彼ら家族の醜い側面を引き出しているとの罪悪感もあった。

『黒博物館 ゴーストアンドレディ』作中で、家族から受ける無理解と罵りの言葉と「生霊」の攻撃は、実際にフローが受けた長い期間での様々な仕打ちを正確に可視化したとも言える。

姉パースによる束縛

迎えた1850年の日記には、「私の前には文筆、結婚、病院の婦長という道があった」と書くに至る。文筆も結婚も彼女は選ばず、看護に進もうとした彼女を妨げた最大の障壁は、姉のパースだった。

妹のフローが社交界の名士たちに、その機知や振る舞いや知識から、高い評価を受ける一方、姉パースは妹に比べて目立たなかった。パースはそんなフローを崇めつつ、妹を自分の一部と考え、繋ぎ止めるために看護の仕事に反対した。そして妹への執着は、精神の均衡を失わせ、健康も害したという。

これが父と母を怒らせた。フローが家族に対して非情だと責め、姉への献身を要求した。フローは姉に尽くさざるを得ず、不本意な状況に陥った。妹を側に置いて姉は回復したが、今度は妹が不幸な状況に陥った。フローは姉を責めるよりも、姉をそうした状況に追い込んだ自分を責めた。

自立へ向けて(1851-1852年)

様々な出来事を経て、フローは家族からの共感や援助を期待することを諦め、自らが行動することを決意した。1851年、フローは再びカイザースヴェルトへの訪問を果たす。姉の療養のため、母とドイツへ同行し、その道中で立ち寄る計画だった。この訪問について、母は譲歩した。病院への関心は世の中で高まっていた上、フローの味方も多かった。しかし、周囲に口外しないように求めた。

二度目のカイザースヴェルト訪問では3ヶ月ほど滞在して、寝食を共にした。フローは仕事を手伝い、施設の病院では手術にも立ち会い、孤児たちの世話もした。主宰者のフリードナー牧師も、フローを褒め称えた。

しかしフローは後も含めて、カイザースヴェルトで「看護の訓練を受けた」とは言わなかった。衛生観念・看護技術では十分ではなかったためだった。それでも、信仰心あふれる道徳的規律や人々への奉仕の姿勢を高く評価した。

帰国後、フローは英国内の病院で経験を積む機会を模索したものの、麻疹になってしまった。この時、姉パースだけではなく、父ウィリアムも病を患い、フローが側にいることを求めていた。そして父は療養に娘を伴う中でようやく味方となり、母とも距離を置くようになった。

執拗な母と姉の干渉を受ける中、フローは自由になる時を待った。周囲も見かねて、フローの理解者だったメイ叔母とセリナ・ブレースブリッジが説得に当たった。社会的地位が高い人々もフローの味方だった。

母は抵抗し、姉も著しく不安定な精神状態に陥ったが、最終的にフローは自分の道を選んだ。

自立・病院運営の道へ(1853-1854年)

再び学びの機会を創る

1853年にフローは、カトリックに改宗した聖職者の知人マニングのつてで、今度はフランスのカトリックで看護修道女を育成した原点と言える愛徳修道会に属するパリの施設「神の摂理の家」で研修を積む機会を得た。

ここには孤児院、託児所、そして総合病院、小児科病院まであった。研修前に、フローはパリの病院や診療所や宗教団体が経営する施設も周り、情報も集めていた。しかし、いざ入会するタイミングで親族が亡くなって一時帰国したが、その後、パリに戻って研修を受けた。

病院実務の機会

この時期、フローは初めて就業機会を得る。

ハーリー・ストリートにある家庭教師向けの病院施設から、管理者として雇用する提案があり、面接を通過し、それが決まった。着任は病院が移転して新しい施設を建築後してからとなった。

この知らせはパースを錯乱状態に追い込んだが、父はフローを引き離す必要からも独立して生活するための年500ポンドの支払いを決め、家を出ることを認めた。既にフローは30歳を超えていた。

パリに滞在しながら、フローは病院施設への意見を出した。それが『黒博物館 ゴーストアンドレディ』作中で見られた「リフトの設置」や「病室からの呼び出しベル」、「四六時中お湯が使えること」などだった。研修中に麻疹にかかったフローは療養を余儀なくされたが、1853年8月12日から、病院施設の管理者となる。

着任したものの、指示は何もなされていなかった。それは病院運営では支払い・契約・財産管理などを行う男性委員会と、運営に関わる女性委員会があり、反目もあった。財政も放漫だった。

この混乱した状況をフローは一つずつ改善した。パリから送った数々の提案を実行させ、看護婦が疲れにくい環境を整えた。また、患者たちを清潔な環境で看護できるようにリネンやカーテンを刷新したり、洗濯の機会を増やすなど状況に整えた。病院会計も掌握し、備品不足を補ったり、購入していたジャムを自作してコストを削減したり、石炭に混ぜ物がないか品質チェックをしたりした。人事面でも、薬屋に頼んでいた処方を院内で行える人材を雇用し、大幅な節約を果たした。

母はフローを許していなかったが、リネン・カーテンの刷新には、母を巻き込んで、端材を縫い合わせるのを手伝ったり、患者のための花や野菜や果物など、屋敷で得られる品々を贈ったりした。

クリミア戦争で求められた病院管理のスキルは、ここでも培われている。

規則も作り、医師たちの許可を得なければ看護師をその職務につけないことや、治療や看護も医師の承認を必要とする規則を作った。病人が苦情を直接訴えられるようにもした。病院運営の理事や委員にはフローの友人も多く、影響力を行使した。決議を委員会で通す際には関係者に根回ししたり、現場の医師たちからの発案という形で委員会に意見を通すなど手腕を振るった。

「病院での看護」を本格的に行ったのも、ここだった。フローは看護にも病院環境の整備にも献身し、手術にも立ち会った。自ら率先して動き、現場の看護師、医師、そして患者からの信頼も勝ち得た。病院を出た後の患者個人個人のために、支援を求める手紙を書いたり、経済的援助をしたり、患者の手紙の代筆をしたりもした。

こうした忙しい中でもフローは活動を広げていた。各地の病院を周って病院看護師の勤務条件を調べたり、ハーバート夫妻に求められて彼らが知る個別の病院経営の改善についての改善提案を行ったりした。1854年8月にはロンドンでのコレラの流行を聞き、病院での手当に従事した。

ただ、この病院での仕事は限定的で、元々願った「看護師を育成する事業」に至っていなかった。そこで動いたのが、フローの病院にいた医師ボーマンだった。フローは彼の麻酔手術の助手をしたこともあった。

フローによる病院改革を目の当たりにしたボーマンは、フローの能力がもっと発揮されるべきだとして、自らが要職にあったキングズ・カレッジ病院で、彼女を総婦長や看護師育成をして欲しいとフローに提案した。

そこにクリミア戦争での英国陸軍の悲惨な医療状況を伝える報道が伝わり、事態が一変する。

クリミア戦争への従軍(1854年)

クリミア戦争自体は1853年にトルコとロシアの間で始まり、英国は1854年3月の宣戦布告で参戦した。本格的な戦闘はクリミア半島へ移行し、9月20日のアルマの戦いからだった。

この勝利を経て、セヴァストポリ要塞の包囲戦が始まったが、10月9日に『タイムズ』は戦場での看護体制の不備を伝え、続く12日にフローの従軍を促す記事を報じ、さらに13日には編集長も社説を書き、世論を沸騰させた。

最初の記事は軍医不足と、負傷者を看護する看護師不在、医療品の欠乏、そして放置されたまま死んでいく傷病兵の窮状を訴えるものだった。

続く記事では同じように医療不足を伝えることに加え、同盟を組むフランス軍の医療環境は優れており、軍医も多く、修道女たちが従軍し、看護師として活動していることを伝えた(従軍前の状況は以下に記す)。

一連の報道からロバート・ピール(スコットランド・ヤードを立ち上げた政治家の息子で同名)は『タイムズ』へ寄稿し、続く形で多くの寄付金が集まった。これが「タイムズ基金」として運用され、後にフローの味方となる。

報道から惨状を知ったフローも、行動を始める。幸いにも友人のシドニー・ハーバートは当時、軍の後方支援に関わる戦時大臣に就いており、国として看護師団の派遣要請を行える立場にあった。

フローは従軍計画を書いた手紙をハーバートへ送り、その手紙を受け取る前にハーバートもフローが思い当たり、看護師の人選と現地での統率を引き受けてくれるかとの手紙を書いていた。クリミア戦争への従軍は、このようにフローの重ねてきた実績と、それを見てきた友人が大臣だったことによって、即決した。

この時には家族の誰もフローの看護活動に反対しなかった。姉のパースも「この時のためにフローが準備を重ねてきた」と知人への手紙に書き記すほどに、フローのための舞台が整っていた。

こうして、フローはクリミア戦争へと従軍する。

主要資料

ナイチンゲールの宗教的側面や、彼女がこの時に創作を行っていた話などについては、本テキストでは言及していません。

以下、公式伝記と主要な伝記、そして最新研究などの参考文献です。公式伝記では家族との確執や、家族のマイナス評価とされる部分は割愛されています。


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