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クリミア戦争を支援した民間人たち ナイチンゲールを筆頭に

概要

クリミア戦争では、看護領域で活躍したフローレンス・ナイチンゲールが有名であるが、このような活躍をした民間人は、他にもいた。

『クリミア戦争』下巻では同時代のアメリカの作家ナサニエル・ホーソーンの『英国雑記』からの一文を紹介し、続けてクリミア戦争で活躍した中流階級の台頭について触れている。

「(ホーソーンは)その『英国雑記』の中で、英国貴族政治の土台を掘り崩す過程は、1854年の1年間に「普通なら50年を要するほどの距離を進んだ」と書いている。
 貴族階級出身の戦争指導部が犯した過誤は、一方で中流階級が自信を強める契機になった。中流階級は貴族の世襲的特権に反対し、専門的能力、精励恪勤、実力主義、自主自立などの原則を旗印に結集していたが、クリミア戦争はまさに彼らの専門家としての独創性が軍事指導部の過誤を救済する事例を数多く生み出したのである。
 フローレンス・ナイチンゲールの看護事業、アレクシス・ソワイエの調理技術、サミュエル・ピートーによるバラクラヴァ鉄道建設、ジョーゼフ・パクストン[水晶宮の設計者]による兵営建設などはその好例だった」

新装版『クリミア戦争』下巻P.276

同書では彼らに加えて活躍した人物として、前線に近い場所で看護や料理の提供を行なったメアリー・シーコールについても触れている。

本テキストでは、このうち、ソワイエ、ピートー、パクストン、そしてシーコールについて取り上げる。

なお、彼らが解決する問題点は以下に取り上げているので、先にこちらをお読みいただくことをオススメする。

天才料理人アレクシス・ブノワ・ソワイエ

英国陸軍の悲惨な料理環境は、英国で活躍したフランス人シェフ、アレクシス・ブノワ・ソワイエが、1855年3月から参画することで一気に進んだ。

ソワイエは『タイムズ』で料理環境を改善する人材を募集した記事を見るとすぐに応募し、あっという間にその役目を得た。陸軍大臣パンミュア卿を筆頭に軍関係者に知人が多く、人を動かす仕事の進め方に通じており、すぐに要人に顔を繋ぎ、迅速に問題点を明確にして解決していった。

ソワイエは現実主義者で、最小限に工兵の力を引き出してキッチン環境を整備したり、スープの基本的な調理方法や味付けを変えたり、使われるようになった石炭が煙を出して邪魔になるのを見て仕入れを変更させたり効率化したりした。

お茶を入れる便利な「スクタリ・ティーポット」も普及させた。これはフィルタを用いたティーポットだった。それまでお茶を入れる場合、肉やスープを茹でるのに使った銅鍋で湯を沸かし、布に包んだお茶を入れていた。この方法では茶の出が悪く、燃費も悪く、料理をしていると使えなかった。

料理の味付けを変える場合も、軍医たち関係者に食べ比べしてもらうことを欠かさなかった。キッチンを改善した際も、関係者に結果報告として整備されたキッチンを見てもらうなど、巻き込み方も巧みだった。

レシピも複雑な変更はなく、それまで調理に従事した人々でも行える範囲の工夫にとどめた。ソワイエは料理人個人としてだけではなく、指導者としても卓越していた。

ソワイエの影響範囲は現地の各病院にも及び、訪問した病院の問題点を素早く解決し、スクタリで成果を残すとクリミアの戦場へ赴き、当地の病院と、駐屯地の調理環境の改善も行なった。

特筆すべきはその構想力にあった。ロンドンにいる時点で、戦場で調理できるレシピを開発して試食させたり、戦場での調理を改善する燃料効率も良いストーブ(ソワイエストーブと呼ばれる)を短い時間で設計して試作品を作らせた上で関係者に見せて製造許可を得たりと、準備も万全だった。ソワイエはこのストーブに、「前線で使っても火が目立たないようにする機構」を備え付ける配慮までしていた。

このストーブは軍の移動に合わせて持ち運びでき、その後も英国軍で使われ続けることとなる、大人数向けの料理を簡単に行えるものだった。

あわせて、陸軍が「兵士個人に食糧を支給し、燃料を自分で確保した上で自分で調理させる」方法を改め、ソワイエの料理指導を受けた兵士たちによる「集中的な給食」方式を導入させた。さらに、このストーブを用いた料理方法を現場の兵士にも伝授した。

現地でも野菜不足を知ると複数の野菜を用いた乾燥野菜を仕入れさせたり、そのままでもスープに溶かしても食べやすい乾燥ビスケットを開発・普及させたりと、「料理版ナイチンゲール」と言える活躍をした。

病院内での食事配膳も改善し、中にはナイチンゲールと議論して提案を受け入れたものもあった。

なお、ソワイエが現地で陸軍軍人から受け入れられたのは、彼の様々な活動によるものとなる。

第一に、陸軍大臣や現地の総司令官ラグラン卿を始め、多くの上流階級の軍人たちは、ソワイエがロンドンでシェフの職にあったリフォーム・クラブの利用者であり、面識があった。彼が仕えたサザーランド公爵夫人などの有力者たちも、彼の後援者だった。

第二に、ソワイエはアイルランドで飢饉が生じた際に、無料キッチンを解説してスープの提供などを行なったが、この時の彼の様子を現地アイルランドで見ていた軍人たちも、クリミア戦争には従軍していた。そうした軍人たちもソワイエに自然と話しかけてきて、良好な関係が築けた。

ナイチンゲールも、強引なイメージがあるかもしれないが、きちんと筋を通して仕事をし、有力者との関係性も強かった(首相パーマストン卿も近隣在住で交友関係があった)。この点、実務家だったふたりの仕事の進め方は極めて似ており、相性も良かったのだろう。

鉄道王サミュエル・モートン・ピートー

『黒博物館』に登場しない「活躍した民間人」の1人目は、補給機能を大幅に改善した鉄道建設をした英国の鉄道王サミュエル・モートン・ピートーである。

陸軍は当初の悲惨な状況から補給を改善していったが、補給港パラグラヴァに届いた物資を迅速に前線セヴァストポリの駐屯地へ送ったのはピートーが施設した鉄道だった。

ナイチンゲールと同様に、戦争を報じる『タイムズ』の記事を読んだピートーは、英軍の苦境が現地の輸送にあると考え、1854年11月には時のアバディーン政権へ鉄道建設を提案した。

そして政府から補助金を引き出し、資材と労働者を確保し、1855年1月末から建設工事を開始し、3月末までに10キロメートルに及ぶ鉄道を開通させた。これにより要塞攻撃に必須の大砲輸送も容易になり、作戦面での多大な貢献もあった。

鉄道が傷病兵移送の時間短縮・負担軽減に大きな貢献を果たしたことを、『タイムズ』の従軍記者ラッセルは記している。

かつてはラバの引く輿や馬に乗せられた兵士は、不安定な状況で時間をかけて運ばれた。鉄道の開通によって30分以下で苦痛も少なく運ばれるようになったと(『鉄道と戦争の世界史』)。

水晶宮の建築家ジョセフ・パクストン 

同じように建築で協力した民間人が、万国博覧会で水晶宮をデザイン・建築したジョセフ・パクストンだった。家事使用人研究領域では、デヴォンシャー公爵家のガーデナーとしての方が名高い彼は、陸軍のために、民間人労働者からなる建築部隊(実質、工兵)を組織した。

1855年4月にパクストンは陸軍大臣パンミュア卿へ書簡を送り、塹壕や土塁を構築する文民の労働者からなる集団の派遣を提案した。鉄道建築を行った労働者たちの話を知っており、同様の労働条件を確保しようとした。労働者の範囲は建築から石工やレンガ工、鍛冶屋など建築にまつわる資材を製造・メンテナンスする職人も含まれた。

パンミュアの承認を経て、1000名以上の現地派遣された部隊は夏には鉄道に近い場所で道路建築を始め、泥だらけの場所を排水し、敷設する石を切り出し、石畳の道路を作り始めた。

大量の労働者たちは飲酒ほか風紀の点で軍に問題を引き起こす問題もあったが、彼らの仕事の範囲は多岐に渡り、兵舎の増築や港の整備、鉄道の運営・メンテナンス、騎兵のための馬場作り、病院・井戸の建設なども行った。彼らが建てた木造兵舎は、二度目の冬を迎える兵士の命を守った。

※民間工兵の歴史は以下のサイトに掲載のDick Sullivan『Navvyman』(1983)に詳しい。Chapter 15がクリミア戦争での活動を伝える内容である。

母と呼ばれたメアリー・シーコール

最後の一人が看護領域に関わるメアリー・シーコールだった。シーコールはジャマイカ出身で父がスコットラン人の軍人、母がジャマイカ人で下宿と民間医療をし、本人も民間療法、薬草知識、看護、そして英国軍医との交流で医学知識を身につけていた。ローマ・カトリックでもあった。ジャマイカで知り合った連隊がクリミアにいると知ると看護師として志願したが、ナイチンゲールの友人であり、また戦時大臣シドニー・ハーバートの妻で窓口になっていたエリザベス・ハーバートに断られた。

そこで自費でクリミアに向かい、亡夫の近親でパラグラヴァで海運業をしていたトーマス・デイと合流し、港と駐屯地の中間地点カディコイの近郊で、雑貨屋・食堂・ホテル「シーコールとデイ」を開業した。

クリミア戦争当初、英国軍は劣悪な補給状態のまま上陸し、1854年11月には嵐に見舞われて装備品を失うなど、苦境にあった。補給能力の欠如で、補給物資も届かない有様だった。

しかし、こうした状況も、民間の事業者が英国の補給拠点や基地近くでの物資販売に参入することで解消へ向かっていった。1855年の春頃には貿易業者や酒保商人たちが店を展開し、値段は高額ながらもあらゆる商品を買える状況にもなっていたという。

1855年春、カディコイ村では多数の貿易業者や酒保商人が屋台や売店を開いていた。法外に高い値段を支払さえすれば、ありとあらゆる商品を買うことができた。瓶詰の肉類や漬物はもとより、瓶入りのビールやギリシアのラキ酒、焙煎済みのコーヒー豆、缶入りのアルバート・ビスケット、チョコレード、葉巻、洗顔用品、紙、ペン、インクなどが売られていた。さらに、オッペンハイムとフォートナム・アンド・メイソンの両者がカディコイに開設した直売店では、最高級のシャンパンが売られていた。その他、馬具屋、靴屋、仕立屋、パン屋、宿屋などが相次いで進出していた。

新装版『クリミア戦争』P.117

ここに、メアリー・シーコールもいた。

シーコールの店は食事や酒を提供し、士官クラブのようになった。また医薬品を備え、シーコールは戦場に近い場所での治療や看護を行ない、時には塹壕で手当てもした。慰問で酒や食品も提供することもあった。1855年7月にはラッセルが『タイムズ』で活躍を報じると、本国でも知られる存在となった。

親しみやすい人柄と活躍で現地の軍人たちから慕われた。「私の息子」と呼びかけていたようで、現地で世話になったソワイエも「母」と呼んだ。帰国後はビジネスの経済的失敗もあったが、『タイムズ』などが支援を呼びかけた。1867年に英国への奉仕が王室に評価され、女王は基金創設を承認して報いた。

大規模な影響ではないが、シーコールの存在は戦場の兵士たちを励まし、力づけ、ナイチンゲールや軍が行った医療の隙間を埋める形で人々を助けた。

終わりに

ソワイエについては面白すぎる人物のため、別の機会に取り上げたい。彼の活躍は無双ともいえるものである。

私はこの領域の専門家ではないので感想程度となるが、ナイチンゲールもソワイエもピートーもパクストンも、戦争へ協力するきっかけは、新聞による現地の報道や、助けを必要とする呼びかけにある。この時代の戦争報道については『黒博物館 館報』の方に書いたので詳細を省くが、こうした求めに応じる人々が一定数いたことは、この時代の特徴かもしれない。

ここで取り上げた人物は、代表的な事例に過ぎない。ナイチンゲールは看護師団の代表であって、彼女に率いられた看護師団の参加者たちは自発的に参加していた。そのメンバーに加わった一部の修道女たちはナイチンゲールよりも早く行動して先にマルセイユに渡っていたし、シーコールのような人物もいた。

なお、クリミア戦争の看護領域におけるシーコールとナイチンゲールの現代での評価をめぐる話もあり、以下に記述があるのでご参考まで。

またパクストンについては14年前に紹介したテキストを書いていたのを思い出したので、こちらも。

最近、君塚直隆先生がパクストンが仕えたデヴォンシャー公爵家について、解説するテキストを公開されている。


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