勉強と表現、存在の癖の周りで起こること

まず、勉強とは、獲得ではないと考えてください。
勉強とは、喪失することです。
これまでのやり方でバカなことができる自分を喪失する。

「勉強の哲学」千葉雅也

つまり勉強とは生成変化なのか。同じ形の器たる自分が情報を蓄積していくのでなく、勉強する前と後で異なる自分になる、ということなのか。

だから、変化する前の自分では呼吸するかように扱えたインターフェースが、変化後はどうも馴染まなくなる。

世界への手慣れたインタフェースの喪失、が勉強。

僕は日々本を読んで何かを学び、得て、溜め込んでいる気になっているが、確かにそれで記憶量は増え有機的なつながりを見せているような気にもなるが、しかし一体何に比べて増えたのだ?
勉強する前の自分?それはすでに別の存在だろう。他人と比べるものでない。昨日の自分と比べるものでもない。

私の知識は増えているのか?増えているなら何か物量が増える。しかし生命は動的平衡である。得たものは破壊され食ったものは排泄される。得た知識も忘却される。
知識とは微粒子そのものでなく関係性の癖なのだとしたら量は増えない。
勉強したら私のネットワークのあり方が変わるだけ。そこを楽しむ。

勉強したら変わってしまう。変わり続ける。一旦仮固定したいのなら、勉強すなわち読むことをやめるべき時もあるのかもしれない。今はひたすら読みたいけど。変化は疲れる。でも自然な変化は疲れないはずだ。ならば自然な勉強は心地よいはずだ。作為的な目的のある読書でなくただ波に乗るだけの読み方。

自然な勉強は自然な表現と対になると予想される。むしろ自然な表現が先に来るのではないか?動的平衡で考えれば破壊は先だ。
自然な出し口があるから、自然に入ってくる。詰まってると入れられない。勉強が微粒子の関係性の癖の変化だとしたら、表現はその癖で力を出すこと。癖を誰かに届けること。

すると表現とはやはりいつだって不完全なものであると分かる。それは癖なのだから。しかし、その癖を出す、つまりは人前に晒すことが健全なのだ。人に届けられる形に収める、切り取ることが健やかなのだ。
なぜ微粒子の関係性の癖を力に変換することが必要か?微粒子が己の必要性を認識するためだ。

あるいは、その癖がどう生きるのかを確認するためだ。フィードバックを得るためだ。この癖は人に善い影響を与えられるのか?悪い影響を与えるのか?影響を与えるには何かが過剰か過小か。それらの認識は外に出して初めて分かる。
この癖は誰かにとって必要だろうか?
これを知るために表現する。

癖を誰かに届けられるか確認していれば勉強も自然になるだろう。どのように自分の微粒子の関係性を変容させようか足場となる情報があるからだ。表現した時のものである。表現して誰かに見せ反応を見る。いつか見せるでなく形に切り取って都度見せる。これが次の自然な勉強につながる。つくって見せよ。

まだ未熟だから出さない、はもったいない。一般公開しなくてもお金をもらわなくてもいい。身内に1人だけでもインターネット上の誰かでもいい。
反応を得ることを目的とする。
影響を与えられる何かを今の自分の癖(自分なら32歳の年末時点)を出す。
あなたという存在の癖を誰かの変化のために使う。

これが楽しく生きる。遊ぶということではないか。

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