見出し画像

「ていねいな暮らし」は喫煙を許すか

「ていねいな暮らし」という言葉には気をつける必要があるだろう。そこには「愚行権」を許さない何かがある。たとえば「ていねいな暮らし」の中には、お酒を飲みすぎてしまうことも、喫煙することも、ストイックな運動も、マクドナルドも、漫画喫茶に入り浸って漫画を読み続けることも、クラブで踊ることも含まれなさそうだ。

私たちには雑に生きる権利がある。もちろんだ。もちろん、そのはずだ。しかし、たとえば喫煙という習慣に関して、副流煙のリスクを引き受けている人同士あるいは1人で吸うことすらも受け入れられないような空気がある。

「ていねいな暮らし」は確かに健康によく、センスがよく、落ち着いていて、自律神経も整い、1つ1つの生活シーンを楽しむという意味で素敵だ。そのように生きる権利はもちろんある。そう、それは権利でしかない。義務ではない。

だから、私たちはていねいに暮らすことを楽しんでもいいし、雑に暮らすことを楽しんでもいい。

しかし、「ていねいな暮らし」がSNS、YouTube、雑誌、本、テレビなどで紹介されていくにつれて記号化しはじめ、「みんなが求めるもの」になっていく。それはインスタグラムにあげる流行りの店のプリンの写真のように、消費の対象となっていく。

「ていねいな暮らし」はそもそも、生活の中に必要最低限以上に手間をかけたり心を配ることで優雅な時間を楽しむ、というようなライフスタイルを表現する言葉であるように思う。しかし、メディアの消費対象になるにつれて、それは一時期の「ヴィーガン」のようにファッショナブルなものとなる。

「ていねいな暮らし」のエートスは忘れられ、部分的に「コーヒーは豆から挽くこと」「朝6時までに起きること」「肌に優しい素材の服を着ること」「お酒は適度に」「生活リズムを淡々と守ること」など、それ自体を1つのルールのように考えてしまい、義務的に守ることが目的となっていく。

そのとき欲しているのは丁寧な暮らしではなく「ていねいな暮らし」だ。プリンを味わう時間ではなく「プリンの写真」だ。そして、「プリンの写真」はいいねに換算できる限り「マカロン」でも「チームラボ」でも「ディズニーランド」でも良い。何かに代替可能なら、それ自体を楽しんでいることにはならない。

自分が何を欲してそうしているか、折に触れて思い出すと良い。そうしないと仮に「華やかな暮らし」や「渋い暮らし」、「ワイルドな暮らし」や「心地よい暮らし」といった新たな言葉=流行が出てきたときに、みながそれを良いと思っているからという理由でのみ、自分もそれを目指すだろう。

「ていねいな暮らし」に限って特に注意すべきは冒頭述べたように、愚行権が認められない空気感がある点と考える。「丁寧」という言葉は、注意深く気を配るというような意味だ。言葉の意味を素直にとれば、丁寧な暮らしは、自分の生活にくまなく神経を働かせ心地よいものにする暮らしということになる。しかし、ずっと神経を働かせるのは大変だ。自分なりに「雑さ」をほどよく織り交ぜる方が楽だろう。

個人的には煙草を吸う時間が一日の中にあることと「ていねいな暮らし」は共存しうるのかに興味がある。人間は自分の健康のため「だけに」生きているわけではない。レトルトを食べてもいいし、酒を飲みすぎちゃってもいいし、激しい音楽を聴いちゃってもいい。何かに熱中して徹夜をすることだってある。ルーティンをぶっ壊して突然海に行ったりもしていい。

「ていねいな暮らし」というのは、それが記号化したときに限り、上記の行為を許さなくなってしまうのではないか。

人間や自然には雑味がある。コントロールできない不純なものが、だからこそ輝く何かがある。

それらとの心地よい共存のことを、「ていねいな暮らし」と呼ぶのだと願う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?