建築家葛野壮一郎の仕事②-地域のお宝さがし-49

■大阪府営繕課での仕事■
 葛野の仕事は、「葛野建築事務所」(以下、経歴)に、「重なる関係工事」として、[在職中](3件)と[事務所開設以来](15件)の仕事が記載されています(注1)。このうち、[在職中]すなわち、大阪府営繕課で担当した仕事を記載順に並べたものが表1です(注2)。ここでは、葛野の大阪府営繕課の仕事をみてみましょう。

画像1

注1)『近代建築画譜』(以下、『画譜』、1936年)巻末所収。なお、「経歴」には未記載であるが
『画譜』(p476)の「朝日神明社」も加えると19件となる。ただし、この件数は、『画譜』が刊行された昭和11年(1936)9月以前の仕事数である。
注2)仕事欄の建築物名は、「経歴」の記載に同じ。

■旧大阪府庁舎増築■
 旧大阪府庁舎(以下、旧庁舎)は、キンドルスの設計によって、明治7年(1874)11月、大阪市西区江之子島に竣工しました(注3)。構造は、煉瓦造2階建てで、正面中央部の大きな三角形のペディメントを4本のコリント式オーダーで支え、その背後に背の高いドームを配し、両翼の、コーナーストーン(隅石)が施された壁面の頂部に、中央部より小さめのペディメントが設けられています。(図1、注4)。
 この旧庁舎は、キンドルスに設計が依頼されたが、設計料が高いので図面を写しとり、設計をキャンセルして、堂島の大工が工事をしたと、葛野の論文「旧府庁舎の建築」が伝えています(注5)。興味深い話題ですが、この件についてはスルーします。

図1

図1 旧大阪府庁舎外観

図2

図2 旧大阪府庁舎増築後の外観

 同論文によると、大久保知事の発案で、大正3・4年度に旧庁舎の増築が行われました。増築は木造で行われ、両翼部分の拡張した壁面を三等分し、その中央部の小さなペディメントを2本のオーダーで支えています(図2、注6)。
 この増築について、葛野は、「大切な両翼をこはして了つて増築やら修築のために、折角の旧観がいたく損ぜられて居る」ことを遺憾に感じ、「しかもそれが自分在職中にやつた仕事で有るから、・・・・誠に残念でならない」としていますが(注5)、増築後の両翼の壁面の分割などは、中央部と違和感はないし、全体に軽快さが醸し出され、帝国劇場(明治44年2月竣工、48回目参照)とともに、様式建築に対する葛野の技量が窺われます。
 図2に、「大阪府立工業奨励館」の看板が見えますが、これは、旧庁舎が大正15年に東区大手前に移転したため、改装を施して、昭和4年4月に工業奨励館と改称して開館したためです(注7)。

注3) 『画譜』(p22)。
注4)『近代大阪の建築』(p53、ぎょうせい、1984年)より転載。構造は、『画譜』(p22)では「煉瓦及石造」、『「旧大阪府庁舎」略史』(p1)では煉瓦造としている。
注5)『建築と社会』昭和6年5月号。
注6)『画譜』(p22)より転載。様式は「ルネサンス式?」とある。ウィキペディア「大阪府知事一覧」によると、知事の大久保利武は大久保利通の3男で、知事在任期間は、大正元年12月30日~大正6年12月17日である。
注7)『西區史第一巻』(p433、1979年再版)

●大阪府奉職時期●
 ところで、「旧府庁舎の建築」に掲載された第1図のキャプションに、「建増は明治四十三年葛野氏府営繕課長時代」とありますが、当時、葛野は東京で帝国劇場の建築に係わっていました。また、大久保知事の就任が大正元年12月であり、旧庁舎の増築が知事の発案によることから、「明治43年」は誤植と考えられます。さらに、葛野が大正2年に神奈川県に勤務し、県庁工事(大正年9月竣工)の監督をしていることを考慮すると、葛野の大阪府の勤務は、早くても大正2年度末頃で、営繕課長として大正3年度からの府庁の増築を担当したものと推察されます(注8)。
注8)大正3年11月に「大阪府技師」として在職が確認される。『建築学会会員住所姓名録』(p15)、大正3年11月25日発行

■大阪府立貿易館■
 当館は、明治23年11月、大阪府立商品陳列所として北区堂島浜通2丁目に開所されました。商品陳列所とは、地域社会と関わり産業発展を目指す施設で、当館は、わが国で最初の近代的な商品陳列所として、活発な活動を行いました(注9)。ところが、明治42年の「北の大火」で焼失し、復興計画もありませんでした。そこで、大正2年に大久保知事による陳列所新築案が可決され、大阪府営繕課の設計(営繕課長葛野壮一郎)によって、大正5年1月、新大阪府立商品陳列所(以下、二代目陳列所)が、東区本町橋詰町の大阪府立博物場跡地に竣工しました(図3、注10)。

図3

図3 二代目大阪府立商品陳列所外観

 ところで、二代目陳列所の設計者は、原爆ドームを設計したチェコの建築家ヤン・レッチェル(レツル)との指摘があり(注11)、設計者が混乱しています。葛野については、『画譜』で明記されていますし、レツルは、大正4年に事務所を閉鎖していますので(注12)、この指摘には無理がありそうです。
 二代目陳列所は、敷地・建物ともに初代陳列所を大きく上回る規模であったようです(注9)。構造は、煉瓦造2階建て、正面中央部の大きなペディメントを、柱頭を渦巻形にした4本のイオニア式オーダーで支え、その背後にドームを配し、両壁面の窓間は、柱頭を簡単な形にしたトスカナ式オーダーのピラスター(付け柱)とし、両翼部の壁面には2本のトスカナ式オーダーを備えた、左右対称の端正な立面構成としています。この両翼部の意匠は、旧庁舎の増築部に通ずるものです。
 二代目陳列所は、大阪府の産業行政機関整備・強化のため、昭和5年1月に「大阪府立貿易館」と改称されます(注13)。また『続東区史』によると、昭和12年に国際見本市会館が貿易館の敷地に建設されることになり、同年4月、貿易館じゃ隣接の産業会館内に移転します(図4、注14)。

図4

図4 『続東区史』掲載の貿易館

図5

図5 大阪府立産業会館

 しかし、貿易館は、「隣接の産業会館内に移転」しているので、図4は、「産業会館」ではないのかと思い、調べると大阪府立産業会館(図5、注15)がありました。
 両図を見比べると、同じ建物であることが分かります。つまり、貿易館が移転してきたため、産業会館が貿易館に改称されたと考えられます。
外観は装飾を施さず、隅角部の大きな曲面とガラス窓の構成、庇やバルコニーにより水平線を強調した軽快な意匠で、モダニズムの香りすら感じられます。
 二代目陳列所と移転した貿易館は、昭和20年の大阪大空襲で罹災したようですが、昭和21年1月に、「大阪府立貿易館」として復活しています(注16)。

注9)三宅拓也「近代日本の技術革新を支えたミュージアム」
注10)『八十年の歩み』(大阪府立貿易館、1970年)。図3は『画譜』(p290)より転載。竣工年は、『続東区史第一巻』(p266)では、大正6年11月としている。
注11)前掲注10) 『八十年の歩み』、「大阪府立貿易館の変遷」(『大阪アーカイブス』18号、1996年3月)、公益財団法人大阪産業局HP。
注12)菊楽忍「ヤン・レツル再考」(『広島市公文書館紀要』25号、2012年)、前掲10) 『画譜』では、関係者として「営繕課長葛野壮一郎」が記されている。さらに、葛野は『画譜』の編集顧問を勤めていることからも、根拠の無い記載はしないと考えられる。
注13)前掲11)大阪産業局HP
注14)『続東区史第一巻』(p266)より転載。同書には、紀元2600年(昭和15年)の記念事業として府・市・商工会議所などの間で、国際見本市会館建設の議が決定されたとあるが、実施されなかった。ウィキペディア「大阪国際見本市会場」によると、わが国最初の国際見本市は、昭和29年4月に大阪で開かれた「日本国際見本市」である。
注15)前掲注4)『近代大阪の建築』(p239)より転載。「年代昭和10年、住所東区備後町松屋町通、設計者大阪府営繕課」とある。
注16) 前掲11)大阪産業局HPに、4階の手摺りに「大阪府立貿易館」と記された、産業会館の写真が掲載されている。

■大阪府立医科大学病院■
 当学は、大阪府立医学校が大正4年に大阪府立医科大学に昇格したもので(注17)、その付属病院として、大阪府営繕課の設計により、大正8年2月起工、大正9年3月(1期)、大阪市北区堂島浜に竣工しました(図6、注18)。
 堂島川に沿った長大な建築群ですが、右側のアーチを施した車寄せが設けられた病棟が1期と推察されます。葛野が大正8年に建築事務所を開設することから、1期が営繕課長としての最後の仕事と考えられます。なお、大阪府立医科大学が、昭和6年に医学部と理学部で構成された大阪帝国大学になったことから、同病院も「大阪帝国大学医学部付属病院」と改められました。

図6

図6 大阪府立医科大学病院

注17)天野郁夫「大学令と大正昭和期の医師養成」(『日本医史学雑誌』第57巻第2号、2011年)
注18)『画譜』(p241)より転載。施工は1~4期に分けて行われている。

■閑話休題■
 大阪府営繕課長葛野壮一郎の仕事をみると、旧庁舎(増築)と貿易館(二代目商品陳列所)はルネサンス式、医科大学病院の平滑な壁面、柱・梁型による無装飾な立面構成は、モダニズム(近代主義)に通じる意匠です。後者が、大阪府営繕課の意匠の傾向になったとすると、葛野が営繕課に与えた影響は大きいと思われます。
葛野は、建築事務所開設後も、様式建築や近代主義などの意匠を自在に操り、多彩な意匠の建築作品を残しました。
 旧庁舎(図1)は西区江之子島の木津川に面して建てられました。現在は、碑と工業奨励館付属工業会館(現大阪府立江之子島文化芸術創造センター、注19)が残されています(図7)。当館は、昭和13年大阪府営繕課の設計により竣工しました。大阪府立産業会館(図5)の意匠と似ていることから、当時の大阪府営繕課における意匠の傾向をみることができます。
 現在は防潮堤がありますが(図8)、商品陳列所(図3)も医大病院(図6)も川に面しており、水運が都市大阪の主要な交通手段であったことが分かります。

図7

図7 付属工業会館外観

図8

図8 木津川からの工業会館

注19)「enocoと江之子島の歴史」

次回は、建築事務所開設後の葛野の仕事をみていきます。

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