南大阪教会-地域のお宝さがし-47

所在地:〒545-0021 大阪市阿倍野区阪南町1-30-5

■南大阪教会■ 
 鉄筋コンクリート造の塔と木造の礼拝堂で構成された南大阪教会は、村野藤吾の設計で昭和3年(1928)に竣工しました(注1)。当時村野は、渡邊建築事務所に勤務していたため、村野個人として設計し、翌年独立後の第1作として位置づけられています(注2)。

●塔●
 入口の奥に礼拝堂、右手に塔が配されています。塔の南面の意匠が(図1)、「オーギュスト・ペレのル・ランシーの教会堂の影響を窺うことができる」といわれています(注3)。

図1

図1南大阪教会塔南面の意匠

図2

図2塔東面のブロークンペディメント

図3

図3塔東面見上げ

 このことは、見学の資料にも記されていましたし、それ以前にも聞いたことがあったので、興味深く思っていました。ところが、塔の東面の入口上部に、ブロークンペディメント(注4、図2・3)が施されており、近代と近世が同居していると驚きました。これについて、ペレー風の開口のデザインと、「玄関のマナリズム風の浅いペジメントとが、全く異和感なくとけあっているのは、これが折衷とは全く違った次元での創作であるからにほかならない」との指摘に(注5)、全く同感でした。

図4

図4入口奥の礼拝堂外観

図5

図5礼拝堂内部

図6

図6祭壇上部トップライト

図7

図7後部トップライト

注1)『特別展村野藤吾』図録(大阪歴史博物館、2014年)ほか。ただし、 「村野藤吾作品年譜」には「一九三一」年とある(『現代日本建築家全集2村野藤吾』三一書房、1977年、p20)。
注2)前掲1)『特別展村野藤吾』図録、p88
注3)『村野藤吾建築案内』(TOTO出版、2009年、p18)
注4)ペディメントは、開口部の上部に設けられる小さな三角形の屋根。ブロークン・ペディメントは、三角形の底辺が切り離されたブロークン・ペディメントと、斜辺が切り離されたオープン・ペディメントをあわせて、ブロークン・ペディメントという場合が多い。ウィキペディア「ペディメント」による。
注5) 福田晴虔「南大阪教会作品解説」(前掲1)『現代日本建築家全集2村野藤吾』所収、p117)。なお、マナリズムは、ルネサンス建築以降、バロック建築以前の様式。マナリズムが消極的な反古典性に対し、バロックは、感覚に訴え、2階の高さにおよぶ大オーダーやブロークンペディメントなどを用いて劇的な効果を達成する、積極的な古典性と評される(『建築史』市ヶ谷出版、1998年、p185)。

■ル・ランシーのノートルダム■
●設計者ペレー●
 ペレーは、オーギュストとギュスターブの兄弟で、ともに鉄筋コンクリート造に取り組んだ建築家として高い評価を得ています。ル・ランシーのノートルダム(以下、ノートルダム、1923年=大正12)以前に、フランクリン街アパートを1903年(明治36)に完成させますが、装飾が無い軽快な外観は(図8)、当時の人には脆弱と思われ(注6)、当初は受け入れられなかったようです。

図8

図8フランクリン街のアパート外観

 もっとも、壁面や1階入口天井周辺に植物文様が施されていますが(図9)、当時の人々にとって、この程度では装飾の範疇には入らなかったのでしょう。わが国では、同年に日本銀行大阪支店(図10)が完成しています。まだまだ様式建築が作られていたころです。

図9

図9 1階天井周辺の装飾

図10

図10日本銀行大阪支店外観

●ノートルダム●
 40余年前にこの教会を訪れましたが、正面の高い塔、内部は身廊・側廊による伝統的な平面、シェルの天井を支えるコンクリートの円柱、色ガラスをはめたコンクリートブロックで構成される壁面と明るい空間、背面(アプス)のコンクリートブロックによる意匠がとても印象的でした(図11~16)。

図11

図11ノートルダム外観正面

図12

図12ノートルダム塔見上げ

図13

図13ノートルダム内部祭壇・壁面

図14

図14壁面ステンドグラス

図15

図15祭壇より

図16

図16背面

図17

図17南大阪教会スケッチ

 ノートルダムが完成した大正12年、村野は渡邊事務所に在職していますので、雑誌などでこの作品を知っていたと推測されます。それは、「自分でこれはいいなと思ったものを全部切り取ってたくさんたまっている」と話されていることからも窺われます(注8)。
 では、実物を見ていたかというと、これは難しい。村野は、日本興業銀行設計のため大正11年に渡米していますが(注9)、その時は、アメリカの銀行などの視察が主目的であったようです。さらに、独立後の昭和5年早春から、3回目の世界視察にいきます(注10)。この時は、ノートルダムを実見していますので(注11)、南大阪教会完成後に、実物を見たことになります。そうすると、2回目の洋行は、何時・どこへ行ったのか、気になりますが、この洋行を思わせる話しは、対談集などでも見当たりません。

注6)『新訂建築学大系6近代建築史』(彰国社、1970年、p103)
注7)前掲1)『特別展村野藤吾』図録、p89より転載。
注8)『建築をつくる者の心』(1996年、p115)
注9)前掲1)『特別展村野藤吾』図録、p5、「村野藤吾建築事務所経歴」(『近代建築画譜』所収)。
注10)前掲注1)『村野藤吾建築案内』(p32)、ただし、前掲9)「村野藤吾建築事務所経歴」には、「大正11年及昭和5年の二回」とある。
注11)佐々木宏『近代建築の目撃者』(新建築社、1977年、p249)

■閑話休題■
 昭和55年、村野藤吾先生(当時89歳)を講師とする「なにわ塾」が開かれました。建築の神様の「ご尊顔を拝したい」というミーハー気分で出した論文が採用され、お話を聞くことができました。その記録を読み返し、「様式も近代建築もない。そういうことを意識したことはありません。」、「全部インターナショナルでなければいかん、そんな馬鹿なことはない。」、「・・もっと自由にね、窮屈に考えないで、・・」、「玄関を小さくして奥へ行く程大きくなる。」(注13)などの言葉に接すると、一つの形にはまらない、自由な空間を追求されていたことが分かる気がします。
 その翌年、改築された南大阪教会が竣工しました。御年90歳。そのみずみずしい感性に驚くばかりです。

注12)前掲8)『建築をつくる者の心』。引用順に、p12、p95、p153、p134。

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