大阪都心の社寺めぐり-地域のお宝さがし-11南御堂復興計画①

所在地:大阪市中央久太郎町4-1-11

南御堂(以下別院)は、昭和20年3月13日深夜から翌日未明にかけての大空襲によって香部屋と大谷仏教会館(注1)のみが焼け残りました。戦後における別院の復興経緯をみると、

①戦後すぐの第1期復興計画、
②境内地が国から譲渡された時期の第2期復興計画、
③復興費用の捻出

のため、境内地の処分が決まった後の第3期復興計画のように、いくつかの画期に分けられます。ここでは、各期の復興計画案を紹介します(注2)。

注1)大谷仏教会館については10回目を参照。 2)詳細は、拙稿『真宗大谷派難波別院における戦後の復興過程について-施設計画を中心に-』(大阪人間科学大学紀要14号、2015年3月)参照。

■第1期復興計画
昭和21年2月、復興委員会が結成され、焼け残った香部屋の前面に木造瓦葺入母屋[いりもや]屋根向拝[こうはい]付の仮本堂を新築する方針が示され、池田谷建築事務所(注3)に設計が依頼されます。同事務所が作成した平面図は、内陣と外陣を区画し、内陣の両脇に余間が配され、中央部須弥壇の後部に廊下と出入口が設けられるなど、真宗寺院の平面形態となっていますが、費用の面から折り合いがつかなかったようです。昭和23年11月の桑名萬組の図面(図1)も、伝統的な意匠です。

図1(a)

図1(b)

これらから、第1期復興計画では、焼失前の伽藍の復興を目指していたことが窺われます。なお、同年11月5日に敷地の南半分に児童遊園地が開園し、本堂などの建設予定地は北半分になっています。

【用語解説】入母屋[いりもや]屋根:寄棟[よせむね]屋根と切妻[きりづま]屋根を合わせた屋根。向拝[こうはい]:礼拝のために設けられた、社殿などの正面から突き出た部分。「ごはい」ともいう。

注3)建築家池田谷久吉が主宰した建築事務所。作品は、池田谷自邸(昭和2年頃、登録文化財)、観心寺恩賜講堂(昭和5年、重要文化財)、成田山不動尊(明王院、昭和9年)、弥栄神社(昭和9年)、金光教玉水教会(昭和10年、登録文化財)、岸和田城(昭和29年)などのように、伝統的な寺社建築などに優れた作品が多い。池田谷久吉の設計活動については、拙稿「建築家池田谷久吉旧蔵資料の分析的研究」(「大阪人間科学大学紀要第7号」2008年3月)参照。

■第2期復興計画
1)大阪大学案
昭和25年3月、境内地(約4,096坪)が国からの譲渡を受けて南御堂の所有となります。以後、施設の維持管理などは別院の業務となりますが、それは復興計画にも見られます。昭和27年10月、復興建物の収容人員と付属建物に関する特別委員会が設けられ、12月に、

①本堂の収容人員は1,500人程度、
②敷地の北側において東向きに建立すること

などが申し合わされ、翌年5月の特別委員会において、将来の建設にあたっての関連は白紙とする条件で大阪大学の鷲尾健三・足立孝に設計が依頼されました(図2、配置・平面図は北を上にして示す。以下同じ)。

(1)配置・平面
本堂は北側の敷地に東面を正面とし、北東部に鐘楼が配され、南側の児童遊園地との境界部分に道路を配して明確に区分されています。
平面は、1階南部に小集会場、南西部に霊堂、中央部に事務室など、北西部に談話室・食堂などが配され、2階に大集会場・外陣・内陣などを設けた重層形式です。施設の維持管理費を捻出するため、集会場(大小)や講堂、地下の貸駐車場を含む収益部分が計画されたと考えられます(図2(a)~(b))。

図2(a)

図2(b)

(2)立面
 立面は、正面左側の集会場棟に大きなアーチ、右側の事務室などに小さなアーチ状の屋根が架けられた体育館のような印象で、鐘楼の相輪を除けば宗教建築の様相は希薄です(図2(c))。

図2(c)

2)木村得三郎案
昭和29年3月、責任役員・総代会が開催され、木村得三郎(注4)に設計が依頼されます。8月に示された木村の設計案(A・B)見てみましょう。

注4)明治23年(1890)仙台生まれ。大正3年(1914)東京美術学校卒業後大林組に入社。主な作品は、大阪松竹座(大正12年)、東京劇場(昭和5年)、京都の弥生会館(同11年)など。劇場建築の名手として知られる。

(1)A案
1)配置・平面
A案の本堂は南側の敷地とし、東側道路中央部の参詣者の入口は正面の主階段に通じ、その左右に池が配され、正面性が強調されています(図3(a))。

図3(a)

平面は、地階・1階の大集会場の上部に寺院の会堂(内陣・外陣)などを配し、2階の会堂へは正面の階段、地階大集会場へは1階玄関「大ヒロマ」の両脇の階段を利用する計画ですが、正面に会堂と大集会場の出入口が設けられているため、両者を同時に使用する際に混雑することが懸念されます(図3(b)~(c))。

図3(b)

図3(c)

2)立面
立面は、正面中央部を張り出し、櫛形ペディメントを設けて列柱を配し、両側壁面端部の頂上に装飾を施した小塔を設けるなど、様式建築を想起させる意匠です(図3(d))。

図3(d)

(2)B案
1)配置・平面
B案の本堂は南側の敷地とし、東側道路中央部の入口は正面は参詣者の玄関に通じ、東南部に劇場への人と車の動線をまとめ、さらに本館正面の南側に池を設けることで、本館正面にはより大きなオープンスペースが確保されています(図4(a))。

図4(a)

平面は、東側の正面を会堂、南側を大集会場への入口として動線を明確に分離し、会堂・大集会場ともに入口正面に舞台や内陣を設けた奥行きの深い長方形平面としています。さらに、両者を直交させて重ねることで南面の正面性も形成されています(図4(b)~(c))。

図4(b)

図(c)

2)立面
立面は、1階をピロティとし、2階部分は周囲を石で縁取り、中央部を垂直方向に3分割し、両側壁面は、空洞ブロック状のものを破れ目地で積み上げた軽快なモダニズムの意匠で、劇場のような印象をうけます。

図4(d)

木村からの説明では、A案は復興事務局の構想図をまとめたもの、B案は各復興委員の構想を推察したもので、両案ともアイデアを示す程度の図面であるとのことで、別院側はB案を基本とし、間取りは使用しやすいように工夫することになりました。このことから、復興事務局では木村への依頼時にすでに施設の具体的な構想をもっていたことが分かります。

様式建築的なA案、モダニズムのB案、いずれも劇場建築の名手として知られた木村の鋭い意匠感覚が窺えます。両案とも実施には至りませんでしたが、いずれかの案が実現していたら御堂筋の景観は大きく変わっていたことでしょう。

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