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若気の至りで済ませて欲しかった(小説)

 佐々木とは過去に面識があります。はい、私が過去に働いていた介護施設の職員でした。彼と出会ったのは私が十七のときです。
 私は中学を卒業してすぐ、遠い親戚が経営している介護施設「あゆみ」で働いていました。親からはひどい扱いを受けていまして、見かねた所長が「うちで面倒を見る」と私を引き取ったんです。ええ、所長というのがその親戚です。
 親には私の給料から数万円を毎月送っていたそうです。そのおかげで親は何の口出しもしてこなかったそうです。では所長のもとで幸せに生活していたか、と言われたらそうでもありません。私は給料の殆どを受け取ることができませんでした。「ガキに金持たせるとろくなことしない」というのが所長の考えでした。アパートの家賃や光熱費は所長管理の元給料から引かれ、食費だけをもらっていました。食事も仕事の日は給料天引きで施設利用者と同じものを食べていましたから、手渡される食費もほんの少しだったんですよ。同い年くらいの子はみんな高校へ行って、スマホを持って、友だちと遊んでいるんです。私にはお金も無ければ友達もいませんでした。
 いえ、すみません。私の当時の境遇については、今はいいんです。佐々木の話でしたね。
 佐々木は私が十七のとき、この「あゆみ」に職員として働くことになりました。確か当時三十六歳くらいだったはずです。見た目は穏やかそうなのに、どこか芯のある目をしていました。
 彼が働き出したときの指導係に、なぜか私があてがわれました。所長が言ったんです。だから一ヶ月くらい、彼は私と同じシフトで、ひたすら私について働きました。私は張り切って彼に仕事を教えましたよ。やっと身近に現れた若い男の人だったからです。普通十七歳から見たら三十六歳なんておっさんでしょう? でも当時の私の感覚では、彼は若い人だったんです。私の交流範囲は介護施設の職員と利用者だけでしたから。上が百ちょい、下が四十後半、ってところでしたかね。
 もちろん休憩も同じ時間に取ってましたから、そこで沢山話もしました。私はすぐ彼になつきました。
 高校にも行かず働いている私を不憫に思ったのか、彼は勉強を教えてくれました。これが結構上手だったんですよ。それもまた私がなつく要因の一つとなりました。
 一ヶ月が立って、彼も戦力としてシフトに組み込まれた頃には、もう職場以外でも会うようになってました。
 ええ、はい。付き合っていました。そこ、ぼかしてもしょうがないですよね。というよりぼかしたら彼が大変なことになりますよね。ちゃんと付き合ってましたよ。そこに関しては、文句も無ければ攻める気もありません。
 当時は分からなかったんですけど、たぶん彼は教師か、塾の講師でもしてたんだと思います。前の仕事は最後まで教えてくれなかったんですけど。あの教え方は素人じゃ無かったんでしょうね。介護施設はけっこうな田舎にあったんですけど、別に彼は地元というわけでもなかったんですよね。まあ、そこもどうでもいいですよ。出会う前の話は、私には関係ないですから。

 楽しかったんですよ、本当に。気づけば自分のアパートになんか帰らなくなってましたから。好きな人がいて、勉強を教えてもらって。私が早番で彼が遅番の日なんかは夕食作って待ってたりして。たまにプレゼントなんか買ってくれるんですよ。援交じゃないですよ。雑貨屋の千円ちょいのネックレスとか、三千円くらいのワンピースとか、そんなんです。彼もお金がなかったんですよ。なんでお金がないのかはやっぱり教えてくれませんでしたけど。
 だけど彼、自分で送っておきながら、喜ぶ私を見てちょっと悲しそうな顔をするんです。最初は私を不憫に思ってるのかな、って考えてたんです。こんな安物でバカみたいに喜ぶくらい不自由してるんだな、って。でも違ったみたいです。たぶんですけどね。彼からもらったネックレスは、仕事が終わった後はずっと着けてました。でも短いネックレスって自分じゃあんまり見えないんですよね。だからいつかは指輪を買ってもらいたいな、なんて思ってました。

 そんなかんじでしばらく楽しく過ごしていました。私にとって初めての恋人でしたから、それはもう舞い上がっていました。だけど長くは続きませんでした。出会って四ヶ月くらいですかね。ある日、私は仕事を終えて自分の家にいったん帰ったんですよ。早番だったからまだ外は明るかったんです。いい加減寒くなってきたので、コートを取りに行ったんです。他にもすこし冬服を彼の家に持っていこうと、珍しく長く家に居たんです。彼は遅番だったから、ゆっくりでもまあいいか、なんてのんびりしてたんです。荷物を持ってアパートを出たら、所長が立ってたんですよ。めちゃくちゃ怖い顔をしていました。もとから寡黙な堅物って感じで怖いんですけど、いつもの何割増しも無愛想なオーラが出ていて、見た瞬間思わず後ずさりました。
「どこいくんだ」
 って、低い声で尋ねてくるんです。仕事でミスしたときよりも何倍も恐ろしい声でした。私が返事をできずに黙っていると、所長はこちらに詰め寄ってきました。そして私の首元に手を伸ばしてきます。私は胸ぐらをつかまれると思って、反射的にぐっと首を引っ込めたんです。
 所長が掴んだのはネックレスでした。
 所長はネックレスをそのまま引きちぎりました。首の後ろが擦れてすこし痛みました。所長はネックレスを握ったまま、私を問いただしてくるんです。
「これはなんだ。その服はなんだ。お前にそんな金は与えてない」
 私はなにも言えませんでした。所長は鬼の形相をしていました。所長は私に男ができたことを確信していたみたいです。
「誰だ」
 そのとき私は初めて所長に暴力を振るわれました。ひたすら説明を引き出すために暴力と尋問を繰り返す所長を見ながら、私は「なんでバレんたんだろう」とぼんやり考えていました。所長は私に男ができたことを革新していたみたいです。
 別に平気でしたよ。虐げられるのには慣れてましたから。心のスイッチを切ればいいんですよ。そうすれば罵られても殴られてもあんまり辛くないんです。
 所長はあたりが暗くなるまで私に詰め寄っていましたが、私は意地でも口を割りませんでした。最終的には所長が根負けしましたね。明日も来るからな、って言って帰っていきました。
 所長の足音が完全に聞こえなくなるのを待って、私は立ち上がりました。靴のまま蹴られましたから、彼にもらったワンピースがあちこち汚れていました。目で見える範囲を払いながら、じんわりと涙が湧き上がってくるのが分かりました。心のスイッチを切ればいい、って言ったじゃないですか。だからその間は大丈夫なんです。だけどずっと切りっぱなし、というわけにはいかないから、安全になったらスイッチを入れるんです。そうするとやっぱりじわじわと辛さが押し寄せてくるんですよね。
 私はそのまま家の中に戻ってひたすら泣きました。電気も付けず真っ暗な部屋にすすり泣く音だけが響いてたんです。

 そうして泣き止んだ頃にはもう夜中でした。私は服を詰めたかばんも持たずアパートを出ました。彼のところへ行ったんです。わりと田舎ですから、道中すれ違う人もいません。道もほとんど明かりがありませんが、自然と怖くありませんでした。
 彼のアパートにももちろん明かりは灯っていませんでしたが、私はためらいなくインターホンを押しました。何度も押して、ドアも叩きました。
 そのうちゆっくりとドアが開いて、彼顔をのぞかせました。ずっと真っ暗なところを歩いていたので、私は部屋からの光に思わず目を細めながら不安げな彼を見ました。頭はボサボサで、寝間着代わりのスウェットを着ていました。眠っていたのでしょう。私は道中、ずっと考えていたことを口にしました。
「結婚して」
「……は?」
「所長にバレた」
 喋ったことで切れた口の端がピキリと痛み、私は手を当てました。殴られて腫れた頬の熱が、冷たい手で中和されていきます。彼の顔は歪んでいきました。私にはそれが不思議でなりません。
「結婚するなら多分もう怒られないから」
「いや、切れるだろ。あのおっさん」
 こんなに冷たい彼の声を、私は初めて聞きました。まるで今までと別人です。鏡は見ていませんが、自分がひどい姿をしていることは分かっていました。いつもの彼なら慌てながらすぐに心配してくれるはずなのに、予想外の反応に頭の奥がすっと冷えていくような感覚に襲われました。
「じゃあ一緒に逃げよ」
「無理だ」
「相手が誰なのかはまだバレてない」
「なら」と言いながら彼の顔が喜んだのを、私は見逃しませんでした。その瞬間、冷えたはずの頭の奥が、かっと熱くなりました。私は近所の迷惑も考えず、大声で叫びます。
「結婚してくれないならバラすから!」
 パシン、と腫れた頬に痛みが走りました。
「なめたこと言ってんなよ」
 低い声で呟く彼は、先程の所長にそっくりでした。私の心は反射的にスイッチが切れました。
「お前も俺を騙すんだな」
「……なにが?」
「携帯出せよ」
 私はポケットに手を入れました。所長に持たされたガラケーはきちんとそこに入っていました。取り出して、彼に差し出します。自分の手が震えているのに、まるで他人事のような感覚で私は見ていました。
 彼は私から折りたたみ式のケータイを受け取って開きました。そして真顔でそれを反対方向に折りました。
「俺はお前を救ってあげられるほど大層な人間じゃない。俺がお前にしてやれるのは、おもちゃみたいな値段のプレゼントと、後はテレビや本をスキに使わせてやるくらいだ。お前はそれで満足だと思ってたし、その程度でお前が幸せに感じてると思ったから、今まで一緒に居たんだ」
 彼は私を見ていません。ただ、二つに別れたケータイを見つめていました。
「お前らはいつもそうだ。こっちは与えられる範囲で幸せにしてやろうとしてるのに、無限に与えてもらえると思ってる。そんで断ったら裏切られた、とか言うんだよ。裏切ってんのはそっちだ」
 お前ら、って誰だろう。私はぼんやりと考えました。数ヶ月の間に彼から聞いた話を、頭の中で探りましたが、答えは出ませんでした。
「証拠も無しに言いがかりつけるなよ」
 壊れたケータイを私に手渡して、その手で彼が私の肩を強く押しました。後ずさった私にろくに視線もよこさず、彼はさっさと玄関のドアを閉めました。

 それ以来、彼とは仕事中も必要最低限の会話しかしませんでした。とはいえその二ヶ月後には、彼も仕事をやめてどこかへ言ってしまいました。八年も前の話です。

 だから、三ヶ月前、彼から手紙が来たときは本当にびっくりしたんです。私だって別れて一年とすこしで所長の元を離れたんです。大変でしたよ、やめるときは。今はその話はいいんです。問題は彼ですよ。
 どうして私の今の住所を知っているのか、全く見当がつかないんです。
 はい、これがその手紙です。内容もちょっと怖くて。
 ああ、ストーカー。やっぱりそういう扱いになるんですか。今のところ姿は見ていませんが、私も結婚して引っ越してきたばかりですから、いろいろ不安なんですよ。はい、妊娠三ヶ月目なんです。
 これはあくまで私の推測なんですけど、多分彼は以前にも未成年の子に手を出してると思うんですよね。それで問題になって、教職か講師あたりの仕事を辞める羽目になったんじゃないかなあ、って思うんです。彼は子供をバカにしてるけど、彼と付き合えるのなんて子供だけなんですよ。大人は彼に見向きもしないんです。だけどね、彼ももう四十半ばでしょう? きっと子供も相手にしてくれなくなって、それで私に連絡してきたんだと思います。自分が振ったからああなったのであって、私が彼を嫌いになったわけじゃない、って思ってるんでしょう。
 ちょっと可哀想だな、って思います。あの時から彼はきっと全く成長してないんでしょう。でもまあ、私と付き合ってたときは幸せだったのかな、じゃなきゃ連絡してきませんよね。
 児童買春の時効は五年なんですか。いや、最近の彼は知りませんよ。本当に会ってないんです。
 こちらに危害を加えられるのは困りますが、恨んではいないんです。だから穏便に済むようにお願いしようと思っていたんですが……。でもまあ、いっそ捕まったほうが彼のためかもしれませんね。
 まあその、今回は相談したという実績を作るために来たようなものですので。その割にはべらべら喋っちゃってすみません。
 とりあえず今日はこんなところで、お願いしますね、刑事さん。

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