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かき氷が食べたい人(落書きショートショート)

 本屋から出た瞬間、思わず「あっづい」と声が出た。買ったばかりの小説のせいで重たいかばんを肩にかけ直して、嫌々歩き出す。コンクリートジャングルとはよく言ったものだ。ここは危ない。生死に関わる。まだ一〇〇メートルも進んでいないのに、すでに全身から汗が吹き出していた。顔面に直射日光を食らうと体感温度が五割増しになるので、ひたすら俯いて歩いた。信号のない小さな横断歩道を二つ渡り、商店街に出る。駅の姿が見えたところで、一つの張り紙を視界の端に捉えてしまった。白地の紙の下部分に青い波の模様が印刷され、中央には赤文字ででかでかと『氷』の一文字が書かれている。思わず立ち止まって店を見る。いかにも年季が入った、商店街の喫茶店だ。中の様子は見えないが、人通りが少ないのだから、混雑はしていないだろう。そこまで考えたところで自分のうなじに垂れていく汗を感じ、私はドアを開いていた。
「……涼しい」
 店内を見回す。カウンター席に一人、年配の男性が座っているのみだ。「いらっしゃいませ」とカウンターの中から声を掛けてくれたこれまた年配の男性は、掌で店内を差した。私は窓辺にある二人がけの席に座った。机の上には茶色のメニュー表が立て掛けてあり、それとは別にラミネートされたかき氷のメニュー表が差してあった。
 いつのまにかカウンターから出てきて、おしぼりとお冷を置く店員に、「すみません、かき氷を」とメニューも開かずに伝える。
「味は?」
「……イチゴで」
「はい」
 伝票を書き付けているところに、慌てて「練乳も」と付け加える。『練乳プラス八〇円』の文字がメニューに見えたからだ。
「かしこまりました」といって店員は下がっていった。私は窓の外を見る。日差しは濃い夏の色をしていた。視界と体感温度の差が面白くて、しばらく眺めていると、数分前の私のような顔をした人がポツポツと通り過ぎていく。それもまた面白かった。入ってこればいいのに。彼らの視界は『氷』の文字を捉えなかったらしい。
「おまたせしました」
 ガラスの器に入ったかき氷が目の前に置かれる。少しピンクがかった赤いシロップの上から、ねっとりとした乳白色の練乳がかかっている。柄が長いスプーンを手にとって、器のフチに近い部分をサクサクと崩す。スプーン半分ほど掬って口に入れた。一瞬で口の中に広がる冷たさと甘さ。そこからはもう夢中だった。
 いつのまにか先客は帰っていた。かき氷は半分ほどに小さくなっている。器の下の方には溶けた氷が薄ピンク色になって少し溜まりだしてきた。まだ寒くない。余裕で食べ切れる。むしろ問題は食べ終わった後だ。私はまた窓の外を見た。せっかく涼んだのに、また炎天下の野外に出るのはイヤだった。せっかく静かな店なのだ。いっそ夕方まで買った本でも読んでいようか。
 ガヤガヤと四人組が入店してきた。いかにも若い男性たちだ。「まじあっつい!」と騒ぎながら、私から少し離れた席に座る。私はかき氷を掬った手を止めた。いかにも苦手なタイプだ。騒がれるなら本は読めない。さっさと食べきったほうがいいだろうか。
「ご注文は?」
「かき氷!」
「イチゴ」
「レモン」
「ブルーハワイで」
「ちょっとまって、俺まだ味決めてない」
 自分の口元が緩むのを感じながらかき氷を口に運ぶ。左手で茶色のメニュー表を開き、追加の飲み物を吟味する。
 そこにはただかき氷を食べたい人が五人いるだけだった。

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