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安全に行きましょう(落書きショートショート)

 ふらり、ふらりと小さな自転車が道を行く。黃、赤、緑のフレームで構成されたカラフルなそれには、やはり小さな男児が乗っていた。歩いたほうが早いんじゃないか、と言いたくなるほどゆっくりと道路を進んでいく。
 先の自販機の前に、スーツ姿の男が立っていた。小銭を入れてコーヒーのボタンを押し、しゃがみこむ。その瞬間、男の尻に男児の自転車が突っ込んだ。
「痛ってえ!」という男の声と、ガシャンと倒れる自転車の音が重なる。男は尻を押さえて振り向いた。倒れていた自転車も操縦者も、想像よりずっと小さかった。
「あぶないじゃないか」
 男は若干の怒りを声に込めつつも自転車を起こした。スタンドを蹴って自立させ、男児へ視線をやる。ぺたりと座り込んだままうつむいていた。男はやはり苛立ちながら男児の腕を掴んだ。立たせようと思ったのだ。しかし掴んだ二の腕に違和感を覚えて手を離した。男はしゃがみこんで男児の顔を覗き込む。明らかに顔が赤い。そっと額へ手を当てた。子ども体温と呼ぶにはあまりにも熱い。ぼんやりしている男児の目を、男はしっかりと見た。
「ずっと外に居たのか? 調子が悪いのだろう。いつからだ?」
「家に居たけど、さっき出てきた。昨日の夜から変な感じ」
 男児はズズ、と鼻を啜った。どうやら熱中症では無さそうだ、と男は安堵した。
「学校は? 親は?」
「仕事行った。風邪だから学校は行っちゃだめって。でもご飯無くて、お腹すいたから」
 男はため息をついた。「適当な親だな」
「ちがうよ。このまえ僕がラーメンこっそり食べちゃったから。お母さんはちゃんと数えて買ってあるよ」
 男児はよろよろと立ち上がって、自転車のスタンドをける。そのまままたがろうとする男児を見ながら、男は迷った。子供の面倒など妻に任せっきりだった。しかしこのまま見過ごすのもどうなのだろう。
 ふらつきながら進む自転車を男は追いかけた。
「自転車は危ないからやめなさい。私が押していくから」

◇◆◇◆◇

信号を二つ過ぎた先のドラッグストアの駐輪場へ自転車をとめた。先に店へ入った男児を追いかける。入り口すぐのパンを見ていた。
「薬はあるのか」
「家にあるよ」
「……金は?」
「ちゃんともってきた」
 心配そうに後ろから着いてくる男に男児は笑った。
「お買い物くらいできるよ。慣れてるから」
「そうか」
 それでも男は心配そうにしていた。
「おじさん、お仕事はいいの?」
「大丈夫だ」
「そっか」
「このくらいの歳になると、割と融通がきく」
「そうなんだ」
 お母さんも早くそうなればいいなあ、とレジに並びながら男児はつぶやいた。

◇◆◇◆◇

 狭いアパートの隅に敷かれた布団に、パンを食べ終えた男児が横になった。
「薬も飲め」
 男は小さな箱とコップを持って、布団の脇にしゃがみこんだ。男児はゆっくりと上体を起こした。
「ありがとう。おじさん」
 受け取った薬を飲んで男児はまた横になる。
 男児が寝息を立て始めたのを確認して、男は立ち上がった。職業柄、すでに目星はついている。キッチンの戸棚を開けて、その奥を覗く。そこにある茶封筒を取って中身を確認した。一万円札が五枚、入っていた。そのうちの一枚を抜き出して、男はしばし見つめた。
「だめだ。顔を見られている」
 男児はもとより、男児と一緒にいるところを、何人にも目撃されているのだ。男は金を戻した。奥の部屋へ戻って男児の顔を一瞥する。二十年以上も会ってない息子の顔が脳裏に浮かんだ。

◇◆◇◆◇

 男児が目を覚ますと、部屋の向こうから食事の匂いが漂っていた。昼よりも随分と調子がいい。男児はさっさと起きてキッチンへと向かった。そこにはいつの間にか帰宅した母が料理をしていた。
「ただいま。大丈夫だった?」
「うん」
 おじさんが助けてくれたから、と男児は笑う。母は首をかしげた。
 そのころ男は町を去る準備をしていた。

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