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イルミネーションはもうすぐ(小説)

(第210回コバルト短編小説新人賞 もう一歩の作品)

 机には化粧品が散乱し、ベッドには服が広がっている。それらを放置して、裕香は小さな洗面台の前で決まらない前髪に苦戦していた。腕時計はもうすぐ十時を指そうとしていた。遅くても十分後には家を出なければ間に合わない。
 今日は結婚相談所で出会った三澄とのデートだ。婚活を初めて二年、最初のお見合いで切ること切られること数知れず、仮交際に発展してもいわゆる「三回目の壁」が超えられなかった。三澄とは今日で五回目のデートだ。別れるのか真剣交際に入るのかは、今日決まると言っても過言ではない。そしてそんな日に限って前髪は根本からひん曲がっていた。
 裕香はため息をついてコテを置いた。代わりに歯ブラシを手に取る。婚活において遅刻はタブーだ。他の支度を優先して、少しでも時間が余ればまた前髪をなおすことにした。
 歯ブラシをくわえたまま部屋に戻る。床に置かれたシンプルなブランドバッグは二年前に買ったものだ。開いて中を確かめる。財布、鍵、ポケットティッシュ、お直し用の化粧品の入ったポーチ。ハンカチとスマホが無い。クローゼットを開けて下の箱からハンカチを取り出した。スマホはどこだろうか。裕香は部屋を見渡した。真っ先にベッドの上の服に手をかけた。まとめて床に落としたがスマホは埋もれていなかった。さらに掛け布団をめくる。バサバサと振ったが出てこない。舌打ちをしたところで聞き慣れた電子音がした。着信音である。普段より音が小さい。裕香は慌てて脱衣所へ戻った。スマホはコテの隣に置かれていた。手帳型ケースを開くと、通話ボタンの上には「母」と表示されていた。裕香は更に苛立ちながら通話ボタンをスライドした。
「もしもし? なに?」
「あ、裕香? お母さんだけど」
 母の声は小さかった。気を使われているような、こちらを伺うような声色だった。これ幸いと裕香は口調を強めた。
「うん、何? 何の用?」
「忙しい? ちょっと大事な話なんだけど」
「うん今日デートだから。もう家出るし」
「そっかあ。帰りは何時頃なの?」
「いや分かんないから。婚活してるの知ってるよね? 土日の朝とか一番忙しいから」
「あっそう、ごめんね」
 婚活とかしたこと無いから、と続ける母に適当な返事をしながら歯ブラシを濯いでうがいをする。前髪を直している時間は無い。夕方にでもこっちからかける、と言って裕香はさっさと電話を切り上げた。
 大事な話など珍しいなと裕香は思ったが、今はそれどころでは無い。部屋へ戻り、バッグにスマホを押し込む。玄関へ向かおうとした足を収納棚の前で一瞬止めた。棚の上に飾られている姉の写真に「いってきます」と笑いかける。キッチンを通り過ぎて、出しっぱなしのパンプスを履いてデートへと向かった。

 三澄とは先月お見合いをしたばかりだ。婚活を始めたばかりの頃と比べて、裕香に申し込んでくる相手は目に見えて条件が悪くなってきていた。その中でも比較的まともだったのが彼だった。三七歳、離婚歴なし、年収四百四十万、タバコなし、親は自営業、本人は小さな会社に勤めている。裕香の希望より年が少し上であり、年収は少し下である。イケメンとは呼べないが、独りよがりな話が少なく、常にこちらを気にかけてくれる人だ。
 お見合いの日、彼は「誕生日おめでとうございます」と言って小さなプレゼントをくれた。向こうのカウンセラーのアドバイスだったのだろう。しかし三十歳の誕生日など微塵も嬉しくない。婚活中の身としてはなおさらである。
 恋愛感情こそ湧かないものの、特別お断りする要素が無く、気づけば五回目のデートとなっていた。向こうからも断られてはいないが、裕香としては手応えを感じていなかった。その証拠に真剣交際の申し出は未だ無い。
 今日のデートは映画だった。二回目の際に話題に上がったドラマの劇場版が公開されたのだ。裕香好みの俳優が主演のため、ドラマ版は毎週楽しく見ていた。三澄の前で主演俳優の見た目をべた褒めするわけにもいかず、無難にシナリオの話でつないだことを覚えている。
 映画のシナリオがつまらなくても主演が彼である以上、裕香は映画を楽しめる自信があった。
 にもかかわらず、見終わった後の裕香の気分はすぐれなかった。

 三澄は迷うことなく裕香をこの店へと連れてきた。事前に調べてくれていたのか、以前来たことがあるのか、裕香には区別がつかなかった。デザートにかなり力を入れていることがメニューを見て分かる。三澄は毎回、女性好みの店を選んでくれる。
 少し遅めの昼食を取るために、二人は映画館の近くのカフェへ来ていた。
 パスタとサラダの載った机を挟んで座っていた。映画を十分に楽しんだらしい。三澄は先程から明るい声で話しかけてくる。一方裕香は相槌を打つばかりだ。いつもより俯きがちでちまちまとカルボナーラを食べている。好物なのにちっとも美味しく感じない。
「……好みに合いませんでしたか?」
 裕香は慌てて顔を上げた。三澄が困ったように首を傾げていた。
「いえ」
 否定するために口を開いたが、その先が出てこない。三澄の話をろくに聞いていなかった。彼が言ったのは映画のことなのか、料理のことなのか、裕香には分からなかった。
 映画の出来は決して悪くなかった。ただ一つだけ、どうしても裕香の嫌いなシーンがあった。ホラーでもグロテスクでも無い。ごく一般的な家庭のシーンだ。こんなものが嫌いなどと口にすれば、変わり者だと思われるだろう。ましてや婚活中である。ネガティブな話は極力避けろ。ネットにも本にも山程書いてある婚活の定石だ。
「別に気に入らなかったなら、それでもいいんです。でもあなたはそれすら教えてくれない」
 裕香は何も言い返せなかった。

 おそらく切られます、と結婚相談所のカウンセラーへメールを送った。十月とはいえこの時間はまだ少し暑い。電車はまだ来ない。行く宛も無いからとさっさと駅のホームへ来たことを裕香は少し後悔した。
 自販機でお茶でも買おうか、と悩んでいると、手に持ったままのスマートフォンが鳴る。画面には向坂さんと表示されていた。カウンセラーである。正直、裕香は電話に出たくない。しかし相手はデートが終わったことを知っている。諦めて裕香は通話ボタンを押した。
「もしもし」
「向坂です。デートお疲れさまです」
「はい」
「裕香さん、ちょっと事務所に来られますか?」
「えっ? 今からですか?」
「はい。ご予定がないならぜひ今から」
 向坂の声がきっぱりと告げた。裕香は行きたくなかった。しかし断る度胸がなかった。
 段々と小さくなる裕香の声など気にもとめない様子で、向坂は淡々と話を進めた。
 通話が切れたことを確認して、裕香はため息を付いた。ただでさえ先程のデートで落ち込んでいるのだ。向坂になど会いたくない、というのが本音だった。裕香は彼女に会うたびに逃げ出したくなるのだ。
 ゆっくりとホームへ電車がやってくる。開いたドアへ足早に進んだ。裕香は中を見回した。誰かの隣しか空いていない。しかたなくドア横の座席の前に立つことにした。
 目の前に座る女性の頭上には、結婚相談所の広告が貼り出されていた。
 運命の人は、誰にだっている。
 きれいな女性の写真の隣にはそんな文章が書かれていた。裕香が入会した結婚相談所とは別の会社である。
 それだけきれいなら見つかるでしょうね、と裕香は写真の女を睨みつけた。別に彼女が本当に結婚相談所の会員だと思っているわけではない。それでも写真の女性と文章は裕香の癇に障った。
 今日に限らず、裕香は最近結婚相談所の広告を目にする機会が嫌に増えた。おそらくは、実際に増えたわけではない。やたらと目にとまるようになっただけだ。
 そして見るたびに「相談所、変えようかな」と頭の中で自身が呟く。
 スマホで相談所の名前を検索するときすらある。そしていつも諦めるのだ。
 一番の問題は入会金である。極端に安いところは怖い。かといって高い金は払えない。今の相談所だって清水の舞台から飛び降りるつもりで戸を叩いたのだ。ロクな技術も持ってない派遣社員だ。ここがダメなら次へ、とは簡単にできないのが現状だった。
 同性のカウンセラーとすら上手く接することができていないのだ。よそへ行ってもたいして変わらないだろう、と自分に言い聞かせるほか無かった。

 このあたりで一番大きな駅から徒歩三分のところにある、ちょっと古びた雑居ビルの三階。裕香の入会している結婚相談所は、ここに事務所を構えていた。古びた階段を上がってガラス窓のついた戸を叩く。すぐに内側から戸が引かれた。向坂だった。
「お疲れさまです」
 扉を押さえた向坂が身を避けて事務所へ入るようジェスチャーをする。裕香は小さく挨拶を返して中へ入った。
 白を基調とした内装は、外の古さを感じさせないくらい小綺麗に整えてある。向坂が天気の雑談を振りながら、応接ブースへ歩いていく。裕香も後に続いた。
 パーテーションで区切られたそこは、小さな茶色のソファが二脚向かい合っており、間にはやはり小さなガラスのローテーブルが置かれている。
 ソファに腰掛けた裕香に、向坂は「ちょっとまっててくださいね」と声をかけて事務所の奥へと歩いていった。
 この応接ブースへ来るのは何度目だろうか、と裕香は考える。多分二年も居る割には来た回数は少ないほうだろう。この相談所は料金設定が高い代わりに、かなり親身に相談に乗ってくれることを売りにしている。入会のために初めて訪れたとき、向坂が「毎週のように来る人もいますよ」と言っていた気がする。
 本当なのか冗談だったのかは定かではないが、しょっちゅう顔を出している人がいるのは事実だろう。前回来た際には、隣のブースからお見合い相手の愚痴を言う女性の声が延々と聞こえてきた。おしゃべりが大好きな人にとっては最高の相談所だろう。やはり選び方を間違えた気がする。
 パーテーションの向こうから、トレーを持った向坂がやってくる。
「おまたせしました」
 ローテーブルに置いて、コーヒーカップのうちの片方を裕香の前に置いた。裕香が更に引き寄せる。向坂は向かいのソファに座った。
「今日は映画デートでしたよね? なにか問題があったのですか?」
 向坂の真っ直ぐな視線に耐えられず、裕香は視線を落とした。カップの中は黒々としていた。逃げるようそっとに持ち上げる。
「……その後の昼食のときに、ちょっとうまく喋れなくて」
「そうでしたか。面白くなかったんですか?」
「苦手なシーンがあったので……。引きずられたというか」
「なるほど」
 そこで向坂が口をつぐんだ。指の甲で口を押さえている。彼女が考え事をしているときの癖だ。
「ホラーとか、グロテスクとか、そういったものですか? であれば完全に向こうのチョイスミスですが」
「いえ、そういうのじゃないんです。別に大したシーンでは……、無かったんですけど」
 向坂は口に手を当てたままだ。当たり前だ。切られそうになるくらいまともに会話できなかったのに大したシーンでは無い、ってなんだよ。と思っているに違いない。
「それ、三澄さんに言いました? 苦手なシーンがあった、て」
「いや、言ってないです」
 言えるわけ無いです、と裕香は畳み掛けるように付け加えた。反射に近い速さで答えてから、三澄の言葉を思い出した。
 別に気に入らなかったなら、それでもいいんです。でもあなたはそれすら教えてくれない。
「……言ったほうがよかったですか?」
「……おそらく言うべきだったかと」
 向坂はコーヒーを啜った。
「初回からガツガツ行けとは言いません。むしろ悪手です。ですが、五回も続いたのだから、裕香さん自身を見せていくべきだと思います。むしろ五回も続いていて自分の意見が言えないのであれば、正直言って結婚は難しいですよ」
 向坂は怒っている様子ではない。しかし自分の意見に自信があるようだ。
 結婚できない。であれば裕香はここに居る意味がない。二年間、時間もお金も散々使ったにも関わらず。
「せめて私には教えて下さいよ。何が嫌だったんですか」
「家族でクリスマスパーティしてるシーンが嫌だったんですよ」
 裕香は投げやりに言った。
「昔ブッシュドノエルをひっくり返したんです。気に入らなくて机の上をなぎ倒した」
 それ以来母親とギクシャクしている。忘れもしない。小学校四年生のときだ。姉が死んでから三ヶ月後のクリスマスイブのことである。
 本音など他人に話せるわけがない。家族ですら受け止めてくれないのだ。
「結婚するってことは、家族になるということです。入会時に家族とは不仲だとおっしゃってましたよね」
「はい」
「仮に結婚できたとしても、あなたは同じことを繰り返すと思います。すべての感情をコントロールできる人などめったにいません。少なくともあなたは現に隠しきれなかったじゃないですか」
 裕香は返事をしなかった。本当は、あなたに何がわかる、と吐き捨てたかった。
「……とりあえずは三澄さんの判断を待ちましょう。デートのあとの御礼のメールはもう送りましたか?」
「……まだです」
 向坂に促されるままスマホを出した。彼女の指示通りにメールの文章を打ち込む。そのあいだ裕香はまともに話を聞いていなかった。三澄のお断りの連絡を受けたら退会しよう。そんなことをぼんやり思った。

 小山家のクリスマスケーキは毎年ショートケーキだった。姉が好きだったからだ。ブッシュドノエルが食べてみたいと、裕香は毎年のように母に主張していた。小山家は姉中心で回っていた。病気で体の弱い姉の意見が最優先だった。
 だからブッシュドノエルが我が家のリビングに置かれているのを見たとき、裕香は嬉しかった。自分のために用意してくれたことがなにより嬉しかった。だから裕香はひっくり返した。
 姉が死んだからだ。だからケーキが変わって、裕香好みの料理が並んでいるのだ。
 姉が死ななければ感受することができなかったその喜びを、小学四年生の少女は受け入れることができなかった。
 まるで姉が死んだことに対して喜んでいるような錯覚を消し去るために、裕香は母に怒声を浴びせながら、ケーキと料理を散々になぎ倒して自分の部屋へと引きこもった。
 それ以来、小山家でクリスマスが祝われることは無くなった。

 裕香は着替えもせずベッドに突っ伏していた。部屋はもう薄暗い。出かける前に閉めていったカーテンのせいで、夕暮れの光すら入ってこない。床に放置したバッグから着信音が鳴っている。裕香は無視をするつもりだった。電気をつける気力さえ無いのに、電話になど出られるわけがない。
 しかし着信音は鳴り止まない。電子音に耐えられなくて嫌々起き上がった。バッグを開けて雑に中を漁る。電話の相手は母だった。
「もしもし、デート終わった?」
「……終わったけど」
「そう。ところで来週なんだけど、忙しい?」
「暇だよ」
 今後はずっと暇だよ、と裕香は思った。
「あのね、離婚することになったから」
「は?」
「家も売るから、部屋片付けてね。流石に来週全部やれとは言わないけど」
 遅くても再来月には空っぽにしてね、と母は続けた。寝耳に水だった。
「聞いてない」
「相談しようと思ったんだけど、裕香忙しそうだったから」
 相談、と裕香は繰り返した。考えるまでもなく建前だと分かる。母が裕香に相談したことなど一度も無い。
 気まずい無言が続いたあと、母は「じゃあ来週待ってるからね」といって電話を切った。裕香は答えなかった。
 通話終了画面を閉じ、メールを確認した。何も来ていなかった。放り投げてまたベッドへ突っ伏す。今までの三澄は帰宅してすぐメールをくれていた。
 裕香は実家の部屋を思い出す。出てくる前に一応片付けたが、それでも二十二年間住んでいた部屋だ。押入れや棚には色々詰め込んだままのはすだ。
 裕香はゾンビのような唸り声を上げて無理やり起き上がった。座った目で部屋を眺める。どう考えても入りきらない。床にものを積み上げることこそしていないが、机の上や棚はきれいとは呼べない程度に散らかっていた。
 婚活はやめよう、と裕香は決意した。十月も半ばである。月が変わる前に休会しよう。退会するかどうかは、まあ実家が片付いてからだ。
 裕香はのろのろと部屋の入口へ向かった。まずは電気をつけるところからである。

 電車で三十分ほど揺られたあと、駅から少し歩いた先が裕香の実家である。来るまでの間、裕香は水曜日に送られてきた三澄のメールを眺めていた。
 連絡が遅くなってすみません。次の日曜日、一緒に植物園でもいかがですか。
 予想外にも三澄は仮交際を終了してこなかった。裕香は迷いつつも行くと返事をした。片付けはまだ余裕がある。今週は土曜日の今日だけ行うことにした。
 到着して真っ先に思うことはいつも一緒だ。インターホンを押すか否かである。少し迷って結局押す。手土産は持ってこなかった。
 向こう側からドアが開く。
「おかえり」と母に言われた。裕香は曖昧に笑った。
 入ってすぐ目についたのは玄関の靴だ。明らかに小さいものが三つ出ているだけだった。いつもなら、男物の革靴とサンダル下駄が出しっぱなしになっているはずだ。
「お父さんは?」
「とっくに出てったよ」
 母は市指定のゴミ袋を差し出した。裕香はそれを無言で受け取る。
「燃えるごみはその中に入れて。それ以外は分かるようにまとめておいて。あと明日廃品回収だから、本や服は廊下に出しちゃってね」
 分かった、と返事をして裕香はさっさと二階へ上がった。
 部屋は八年前と何も変わっていない。
 裕香は真っ先に押し入れを開けた。上の段には教科書が大量に積まれていた。全て降ろして廊下へ放り出す。小中高に加えて短大時代の物もある。この中の何割が私の頭に残っているのだろう、と裕香はぼんやり考えた。
 教科書を片付けた後、その奥のダンボールを引き出して開ける。大量のペンとメモ帳、ろくに使ってないレターセット、半分しか書かれていない交換日記帳。小学生時代の文房具だ。交換日記帳の中身を捲ってみる。内容はさっぱり覚えのないものばかりだ。可燃ごみと埋め立てごみに分別しながら、この箱もさっさと片付けた。
 次のダンボールには学校で使っていた道具が入っていた。習字セット、絵の具セット、彫刻刀、裁縫セット、お道具箱だ。この内半分は姉のお下がりだ。
「いや、ちょっと捨て方分からないかも」と言い訳のように呟いた。そして脇に避けた。
 更に奥には衣装ケースが鎮座している。重たいそれを引きずり出した。引っ越し当時に使っていた服は持っていった。入っていたのは案の定、小学校、中学校時代の服ばかりだった。大量に掴んではビニール袋へ移していく。小学校時代の服にはやはりお下がりも混ざっていた。そのたびに少し手が止まる。子供の頃は着るのが恥ずかしかったのに、大人になった今は捨てることに気が進まない。片付けは意外と捗らなかった。

 階段を昇る足音がする。母だろう。それは裕香の部屋の前で止まった。開けっ放しのドアの向こう側から母が顔を覗かせる。
「もう五分くらいしたらご飯だから」
「分かった」と返事をすると母はさっさと降りていった。裕香は大きく息を吐いた。時計を見たが止まっていた。ポケットからスマホを取り出したいが、手が埃っぽいので諦める。どこかに横になりたい。しかし部屋の中はどこもごちゃごちゃだった。裕香は居間へ降りようと廊下へ出る。物干し竿や箪笥が撤去されていて、住んでいた頃よりずっと広々していた。箪笥があった場所と、その上の一部分の壁紙だけが日焼けを逃れて白く浮いている。その前に立ちながら、裕香は記憶をたどる。箪笥の上には、姉が描いた絵が飾られていたはずだ。
 裕香は振り返った。姉の部屋はいったい誰が片付けるのか。生前の彼女は母に部屋を掃除されて怒っていた。
 四歩進んで姉の部屋の前に立つ。ドアノブを回して、ゆっくりとドアを開けた。
 そこには何も無かった。
 勉強机も、ぬいぐるみが枕元にたくさん乗ったベッドも、白い目隠しのれんがついた本棚も、小花柄のカーテンも、壁にかけられたポストカードの貼ってあるコルクボードも、ひとつ残らず無くなっていた。
 裕香は手をだらんと下げたまま立ち尽くしていた。
 そのうち遠くから音が聞こえてきた。足音と声だ。この家には母と裕香しかいない。
 だんだん大きくなる音は裕香の背後で止まった。そして立ち尽くす裕香に気づいたのだろう。母は、ああ、と小さく言った。
「もう片付けちゃったよ。大変だったんだから」
「……捨てたの?」
「いつまでも取っておくわけにいかないでしょう。小さなものはお父さんと分け合って、家具は処分しちゃったよ」
 処分、と裕香は小さく繰り返した。裕香は母の口調が信じられなかった。まるで壊れて邪魔な家電を捨てたときのような明るさだった。
「なんで教えてくれなかったの」
「なんでって、手伝わせるのも悪いと思って。自分の部屋だけでも大変でしょ」
 裕香は再度部屋を見返した。最後に入ったのは、家を出る前日だった。一人暮らしは楽しみだったが、この部屋へ簡単に足を運べなくなることだけは悲しかった。
 姉の部屋が好きだった。
 姉のことも好きだった。
 裕香は絞り出すように母へ向かって言葉を吐く。体も顔もそむけたままだ。
「いつもそう。いつも大切なことは教えてくれない。お姉ちゃんの病気もそうだった。死ぬ病気なんて知らなかった。治って家に帰ってくると思ってた」
「……あんた何歳だったと思ってるの。言えるわけ無いでしょう」
「私は未だに病名すら知らない」
「じゃあ聞けばよかったじゃない」
「そっちから教えてほしかった」
 目の奥が熱い。裕香は反射的に顔をこわばらせてうつむいた。後ろにいる母の表情は見えない。
「私は裕香から聞いてきてほしかった。どうしてこの子は大人になっても知りたがらないんだろう、って。春香のこと忘れたいんだと思ってた」
 裕香は鼻をすする。母の声は小さかった。しかし芯のある、言い切るような口調だった。
「私のことも、春香のことも嫌いだと思ってた」
「嫌いじゃないよ」
 裕香は目元を拭って天井を仰いだ。
「だからケーキひっくり返したんだよ」
「なに、それ」
「本当は嬉しかったんだよ」
 どうして今まで言えなかったんだろう。母はしばらく何も言わなかった。そのうちバツが悪そうに「お昼ごはん、カルボナーラだから」と言って出ていった。何も残ってない部屋で、裕香はしばらく一人で泣いた。

 夕食前に裕香は帰ることにした。お昼が遅くなったせいでまだ空腹ではない。帰りに弁当でも買って帰ろうかな、と玄関で考えていた。見送りに立つ母が「ちょっとまってて」と言って二階へ上がっていったので、一人でぼんやりと待っていた。
 降りてきた母はなにか四角いものを抱えていた。
「はい、これ」
 母の差し出したものを見る。日に焼けたのか、随分と色あせた包装紙に包まれていた。小さな二頭身のサンタクロースが全体に印刷されている。その絵柄はかなり古臭い。
「なにこれ」
「あんたにあげるはずだったクリスマスプレゼント」
 裕香は笑った。二十年近く前にあげそびれたプレゼントだ。引っ越しするのだから真っ先に処分するべきものだろう。
「ありがとう」
 裕香は笑ったまま受け取った。何が入っているのかは分からない。あのときの自分がサンタクロースに願ったものなど、とっくに忘れてしまった。きっと大人になった今ではガラクタだ。しかし受け取った裕香を見て母も笑った。それで満足だった。
「お父さんの新しい住所、後で送るから」
「うん」
 また来週ね、といって裕香は実家をあとにした。結局片付けは捗らなかった。
 すでに日が落ちた商店街を歩く。もうすぐ駅が見えてくるはずだ。明日のデートの時間を確認するために、裕香はスマホを開いた。三澄のメールを確認しているうちに、思い立って電話を掛ける。数コールで三澄は出てくれた。
「もしもし、突然すみません」
「いいえ、どうしました?」
「三澄さん、私ブッシュドノエルが食べたいです」
 電話の向こうで三澄が黙った。当たり前だ。向こうからしたらあまりにも突然だろう。きっと驚いているに違いない。
「別に明日じゃなくていいんです。ただ……、今日実家に帰ったんですけど」
 不審がられないために一生懸命説明しようとする裕香を、三澄が遮った。
「作りましょうか?」
「……作れるんですか?」
 次は裕香が驚く番だった。突然の話にも関わらず、三澄は明るく言った。
「言ってませんでしたか? 僕、パティシエになりたかったんですよ」
「……知りませんでした」
 だから三澄の選ぶ店はいつもデザートがおいしいのか。裕香は一人で納得した。
「今から作って、明日持っていきます。そのかわり、なんで食べたいのかちゃんと教えて下さいね」
 材料買いに言ってきます、と三澄は電話を切った。
 こんなに楽しみなデートは初めてかもしれない。両手でプレゼントを抱きかかえて、裕香は前を見る。
 駅前は普段と変わらない。しかし数週間もすれば、イルミネーションで輝くだろう。
 三澄でも、母でも、いっそ向坂でもいい。
 誰かと見に来たい。裕香はそう思った。

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