見出し画像

舞台演劇、上から見るか? 下から見るか?

そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』

新約聖書 マタイによる福音書 25章40節 (新共同訳) 

こんにちは、くどちんです。牧師です。キリスト教学校の聖書科教員をしています。

某映画作品のタイトルをもじってみました。すみません、実は観てません。でも音の響きがいいなと思ったので、オマージュということでお許しください。

前置きはともあれ、私は観劇が好きです。この度の件で楽しみにしていたチケットは次々に払い戻しになり、いつ以来か分からない「観劇予定のチケットが手元に無い」という生活をしています。ほんと、いつ観られるんでしょう。愛する宝塚も公演再開は決まって嬉しいのですが、座席数の少なさを思うと到底観に行ける気がしません。しばらくはオンラインで観劇かなぁ。

チケットを買って舞台演劇を観る人ってあまり多くないのでしょうか。「舞台が好き」と公言していると、「いつか連れてって」みたいなことを言われます。舞台鑑賞は「特別なこと」で、何かしら「あらかじめ知識が無いとトライしにくい」という印象があるのかもしれませんね。そんなことないよ。劇場怖くないよ。行くと肌がつやつやになるよ。私は「オペラ座の怪人」ならぬ「歌舞伎座の怪人」として劇場に住みたいとさえ思っているよ。(無理)

よく尋ねられるのは、「どんな席を、どうやって取ったらいいの?」ということ。難しい質問です。「どうやってチケットを取るか」は割合簡単に答えられます。各種プレイガイドはもちろん、興行元の販売もそんなにややこしくないので、そういうのを紹介します。でも、「どこの席を」には答えにくい。こればっかりは個人の好みの差が大きい気がするからです。

私の友人には、2階席など上の方から舞台全体を見渡すのが好きという人がいます。確かに、宝塚の場合ショーの構成全体が見渡せるのは2階席でしょう。あるいは、料金の手頃な席でとにかく回数を重ねて観る、という人もいますね。

私はというと、臨場感や、役者さんの表情や汗まで、できるだけ近くで味わいたいタイプ。だからとにかく前方席が好きです。もちろんお値段は上がるけれど、差額の数千円を払ってもお釣りがくるくらい、そこで得られる高揚感が私にとっては大事。他で節約してでもその分を捻出したい。そう思います。だから宝塚なら1階S席がいいし、歌舞伎でも頑張って一等席に座りたい。花道横とかは考えただけで胸がきゅううんとなります。歌舞伎座はさすがにちょっと緊張するけれど、自分比で恥ずかしくないおめかしをして行くのもまたテンションが上がって良し。

そんなことを考えていたら、ふと思ったのです。神さまは私たちをどこから見てるんだろう? もしかして神さまも、たまに「1階席」から見てたりするんじゃないの?

神さまというと、「天」という私たちをはるかに超えたところから広く見渡しておられるイメージがあります。「2階席」から全体を見ておられる感じですね。舞台の端っこで群衆の一人としてちょこちょこ小芝居している私のことも、ちゃんと見守ってくださっているのかな、と思います。「良い芝居」ができたら、たまに大向うがかかったりなんかして。そんな「神さまからのお褒めの声」が聞こえるように頑張りたいものですが。

一方、時には1階席で、ひょっとすると最前列で、ともすれば目が合いそうな位置で見ておられることもあるのかも……?

「靴屋のマルチン」のお話をご存じでしょうか。ロシアの文豪トルストイによる掌編『愛あるところに神あり』が基になっていて、教会学校などでは子ども向け絵本としてお馴染みのお話です。

家の本棚を探してみたが見当たらず。散々読んできた気がするのに不思議だな。改めて買おうかな。

家族を亡くし、一人寂しく暮らす靴屋のマルチン。ある日聖書を読みつつ眠りに落ちると、「マルチン、明日私はお前の所へ行くよ」との神さまの声が聞こえます。翌朝、いつ神さまがいらっしゃるかとマルチンは家を整えつつわくわくして待ち構えます。外を見ていると、そこに疲れた様子の雪かきの男性が。マルチンは彼を労い、家に招いて温かいお茶をふるまいます。彼を見送った後も神さまを待って外を眺めていると、今度は子どもを抱きながら寒さに震える女性が目に入りました。かわいそうに思ったマルチンはその親子を招き入れ、暖を取らせます。さらにまだかまだかと神さまを待っていると、今度はリンゴを盗んだ少年が捕まっています。マルチンは出て行ってリンゴの代金を肩代わりしてやり、「もうこんなことをしてはいけないよ」と少年を諭しました。夜になり、結局一日待っても神さまは現れなかった……とうなだれつつ祈っていると、また神さまの声。「マルチン、今日私はあなたのもとを訪れたよ。雪かきの男、寒さに震える親子、リンゴを盗んだ少年、それはみんな私だったのだよ」。持てるものが乏しくとも神さまに喜ばれる愛の実践はできる、そこに神さまは共におられる……そんなお話。

私たちが愛に生きる時、神さまは私たちのすぐ近くにおられます。まさに1階席、たとえば花道横から、じっと私の一挙手一投足を見詰めるように。私が信念に基づいて腹から絞り出すセリフに、熱のこもった眼差しを注ぐように。客席降りで精いっぱい笑顔を振りまく私に対し、一緒に笑ってハイタッチするように。

人生という舞台で、悲劇も喜劇も、スポットの当たる役もすみっこの端役も、涙あり笑いありで懸命に演じる私たちに、神さまは熱い眼差しと惜しみない拍手を送ってくださっている。そう信じつつ、「だから自分を裏切るような芝居はするまい」と、気合いを入れて今日も袖から飛び出していくのであります。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?