人の目よりも神の目で見る。

それ自体で汚れたものは何もないと、わたしは主イエスによって知り、そして確信しています。汚れたものだと思うならば、それは、その人にだけ汚れたものです。あなたの食べ物について兄弟が心を痛めるならば、あなたはもはや愛に従って歩んでいません。食べ物のことで兄弟を滅ぼしてはなりません。キリストはその兄弟のために死んでくださったのです。ですから、あなたがたにとって善いことがそしりの種にならないようにしなさい。神の国は、飲み食いではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです。

新約聖書 ローマの信徒への手紙14章14-17節 (新共同訳)

こんにちは、くどちんです。キリスト教学校で聖書科教員をしている、牧師です。

皆さん、来週10月31日は何の日かご存じですか? ハロウィン。うん、世間的にはそうだ。ハロウィンももちろん正解なのですが、クドウはプロテスタントの牧師ですので、ここは「宗教改革記念日!」と答えたいところであります。

1517年10月31日に、マルティン・ルターが「95か条の論題」を公にして、時のカトリック教会に抗議を投げかけた……というのがその由来。日付については諸説あるようですが、歴史的事実としての日付というよりは、それを記念する日と捉えたらいいんじゃないでしょうか。

この宗教改革者マルティン・ルターが書いた『キリスト信仰者の自由』という本の中にこんな言葉があります。

「キリスト者は、皆を支配する自由な主人であり、誰の部下でもない。キリスト者は皆に仕える僕であり、各々の人の部下である」

一見相反する言葉が並ぶ文章で、「なんじゃそりゃ」と思いますが、私たちにとって大切な姿勢を示しているようです。それはつまり、「奉仕する生き方を、主体的に自分で選ぼう」ということです。

「人に仕える」という生き方は尊いものだ……というのは、多くの人が共感するところでしょう。私ももちろんそうです。でも本当に「進んで」それを選べるか……と問われたら、どうでしょう。自己肯定感低めなことで有名な(?)クドウは、どちらかというと「他者の目を気にして」それを選んでいるところもあります。

でもそうすると、「本当はした方がいいんだろうな」と思っていても、「周りがやらないのなら、自分もやめておく」ということになったりもするんですよね。

やるべきことならやればいい。それなのに、やるべきことであっても、周りがそれを求めたり評価したりしないのならやらない……。うーん、それって「人目を気にして何かをすること」よりもっと良くないことのような気が。

人の目を気にすることが常にいけないというわけではないですが、「自分の目で見る、自分の行動を自分で選ぶ」を二の次にしてしまうのは避けたいものです。

「95か条の論題」まではいかずとも、「周りと違うことを言う」というのは勇気の要ることです。波風を立てることにもなりがちです。

逆に、自分の意見が多数派と同じであると分かれば、急に自信満々になって反対者を厳しく批判するようなケースもしばしば起こります。「自分がこう思う」というシンプルな状態だけでは安心できずに、意見を同じくする者同士で徒党を組んだり、意見の異なる別のグループを非難して優位を確認しようとしたりする。

冒頭の聖書箇所は宣教者パウロが書いた手紙の一節ですが、当時のローマの教会もまた、まさにお互いを窺い合って徒党を組むような状況だったようです。

当時ローマの教会で問題になっていたのは、食べ物や祝日についてでした。古い戒律、掟から自由になるか、あるいはその戒律を引き続き守るか、ということが論点になっていました。とりわけ「気にせず食べる」側の人たちが、「食べない」人たちに対して「古い戒律に縛られている」と見なして軽んじたことが、問題視されたようです。

パウロ自身は「何を食べても良い」という考えを持っていました。だからと言って「食べない人」に対して、「だからあなたの信仰は弱い」と裁くのはいけない。パウロはそのように諫めているのです。

「こうすることが正しいはずだ」と自分が思うなら、ただ自分がそうすればいい。それなのに、そこで互いに仲間を作り、他者と比較して、「あいつらは間違っている」「あの人より自分は正しい」などと拒絶し合ってしまう。それは神の目に適うことか、とパウロは厳しく問うているのです。

「こんなことを言ったら人にどう思われるか」「これをしなかったら、誰に何と言われるか」。大勢の味方を得たい、人から好ましく正しい者と思われたい。そんな思いから、私たちは人数を頼みとして多勢に「おもねる」ような態度を取ることがあります。ですが本当に必要なのは、世への「おもねり」ではなく、隣人への「思いやり」に従って行動することです。

大きいもの、数の多いものに流されず、自分の目で見ることの大切さを、改めて心に刻んでおきたいな、と思います。「多数決で勝てるかどうか」ではなく、神の眼差しを自らの目として歩むこと。そうすると私たちは必然的に、傷付いた隣人の傍らに立つことになるのではないかしら。その先に、神の国の実現があるのだと信じます。

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