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「AかBか」の単純な二択ではなく、より良い世界を求めて。

王は命じた。「生きている子を二つに裂き、一人に半分を、もう一人に他の半分を与えよ。」生きている子の母親は、その子を哀れに思うあまり、「王様、お願いです。この子を生かしたままこの人にあげてください。この子を絶対に殺さないでください」と言った。しかし、もう一人の女は、「この子をわたしのものにも、この人のものにもしないで、裂いて分けてください」と言った。王はそれに答えて宣言した。「この子を生かしたまま、さきの女に与えよ。この子を殺してはならない。その女がこの子の母である。」
王の下した裁きを聞いて、イスラエルの人々は皆、王を畏れ敬うようになった。神の知恵が王のうちにあって、正しい裁きを行うのを見たからである。

旧約聖書 列王記上 3章25-28節 (新共同訳)

こんにちは、くどちん、こと工藤尚子です。キリスト教学校の聖書科教員として働く、牧師です。

テニスプレーヤーの大坂なおみさんの試合欠場表明とその後の推移が話題になっているここ数日です。

テニスには疎い私ですが、この一連の出来事には深く心を動かされ、また心を痛めもしました。発端となっている黒人銃撃問題についても、「またこのような出来事が」という驚きと悲しみがあります。そして、様々な葛藤があったであろうに、それでも欠場表明という形で声をあげられた大坂選手の思いに、深い敬意を抱かずにはいられませんでした。

一方で、この欠場表明に対する日本国内の関心のずれ方のようなものに、遠い目になってしまうような、ぐったりと座り込んでしまうような思いもしました。

少し前に読んだ以下の記事を、改めて読み直したりもして。

「試合に出ないんじゃなくて、試合で勝って意見表明すればいいのに」「この試合のために力を尽くしてきた人たちのことも考えて欲しかった」などの言葉には、まさに「Black Lives MatterではなくALL Lives Matterだろう」というのと同じ「倒錯」を感じました。

大坂選手が欠場表明をしたのは、「試合を軽視した」のではなく、「試合も大事だけれど、それ以上に今大事にしなければならないものがある」ということでしょう。それに対して「試合も大事だろう」と非難するのは、何とも的外れな気がします。世界的に活躍するテニスプレーヤーに「試合も大事」と諭すなんて、「キリストに説教」……じゃなかった、「釈迦に説法」そのものでしょうしね。

「Aが大事だ」と表明することは、「A以外はどうでもいい」ということとイコールにはなりません。でもこの手の短絡的な決めつけは、割とよく見かける気がします。そして自分もまた、そのような狭い考え方をしていないか、不安になります。

私は歌舞伎が好きですが、「菅原伝授手習鑑」という演目の中で、「寺子屋」という一幕があります。

↑ 現白鸚さんのインタビューがあったので貼っておきます。

旧主・菅丞相への恩を返すため、我が子小太郎の命を差し出す松王丸。こういうお話に対して、「主君への忠義が大事で、我が子のことは大事ではないのか」と言うのは野暮というものですよね。「我が子がかわいいにも関わらず、主君への忠心のためにその首を差し出さざるを得なかった」、その複雑な、ぎりぎりいっぱいのせめぎ合いが分かるからこそ、観る者は心打たれ、涙するわけです。「A(忠義)は大事、だけどB(我が子)だって本当はめちゃくちゃ大事」なのです。

幸いにも……と言うべきだと思うのですが、人間はそんなに単純ではないのです。大切に思っているのに傷付けてしまう。憎らしいのに目が離せない。愛すればこそ離れざるを得ない。そういうことはたくさんあるわけです。ん? つい最近もそんなことを書きましたな。

冒頭の聖句はソロモンのお話の名場面。二人の女が「自分こそがこの子どもの母親だ」と争っているところ、ソロモン王が「ではこの子どもを剣で二つに裂いて、二人に半分ずつ与えてやれ」と命じたところ、片方の女が「それならもう子どもはそのままそちらの女にあげてください」と引き下がった、その人こそが本当の母親だった……というエピソード。日本では「大岡裁き」として知られていますね。

この話を聞いて、「『子どもはそちらの女にくれてやる』とあっさり引き下がるなんて、この人は子どものことが大事ではなかったのか」などという解釈はしないわけです。「この子は自分のものだ」ということ以上に「この子が元気で生きていてくれれば良い」という切なる願いがあればこそ、「私はいらない」と言うのです。

この「私はいらない」という言葉の「裏」や「行間」、「機微」を読む……ということが、もっと私たちの日常をひたひたと潤してくれれば良いなぁと思います。

学校のテストでは「AかBか」、どちらかが正解でどちらかが不正解となります。でも私たちの生きる地平において、そんな分かりやすい選択問題も、模範解答も、ほとんどありません。「51対49」のような「せめぎ合い」の中で、それが正しいことかどうか確信を持てなくても、あるいは他者から批判されることを引き受けてでも、「今は、私にとっては、Aだ」と、勇気を出して選び取っていかなければならないことは多くあります。

悩んだ末に勇気を振り絞って決断されたであろう大坂選手の欠場表明が、試合の主催団体をはじめとする多くの人を動かしたこと。これらのことを心から讃えたいと思います。そしてこの「一歩」を確かな「平和への道」へ変えていくため、私も祈りを合わせつつ歩んでいきたいです。

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