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血と汗と涙の「乳と蜜の流れるところ」

それゆえ、わたしは降って行き、エジプト人の手から彼らを救い出し、この国から、広々としたすばらしい土地、乳と蜜の流れる土地、カナン人、ヘト人、アモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人の住む所へ彼らを導き上る。

旧約聖書 出エジプト記 3章8節 (新共同訳)

こんにちは、くどちんです。キリスト教学校で聖書科教員として働く牧師です。

先日、山崎ナオコーラさんの『母ではなくて、親になる』を読みました。

今気付いたのですが、文庫版出ていますね! 未読の方にはぜひともお薦めしたい素敵な一冊。読みながら、「私もこんな風に、自分なりの愛し方で育児をすれば良かったんやなぁ~」としみじみしました。自虐クドウは乳児期の育児においても「こんなんじゃダメだー!!」「私はダメな母親だー!!」などと自分を責め続けてしまっていたので……。もっと楽しめば良かった、どこかにあるような気がしていた「模範解答」の幻想から自由になって、自分なりにやれば良かったんだな~。今は子どもの成長と共に、その辺り少しはましになりましたが。

本全体の感想はさておき、一つ印象深かった部分を。山崎さんのお子さんが十か月の時のこと。赤ちゃんが「水やお茶を飲まない」ということが書かれていました。ジュースやミルクなどの甘い飲み物はストローマグでも上手に飲めるのに、水やお茶など味がしない飲み物は飲まず、吐き出し、泣くのだそうです。

「わああああ。契約したじゃないですか。この先ずっと、乳と蜜の流れるところに案内するって」という雰囲気を出してくるので、まるで私が意地悪で駄目なものをあげている気分になる。(山崎ナオコーラ『母ではなくて、親になる』)

ここに「乳と蜜の流れるところ」という表現が出て来るのです。

「へぇー、この言葉、『麗しい約束』みたいなイメージでこんな風に使われるのかぁー」と新鮮に感じました。聖書の言葉がキリスト教関連以外のところで使われていると、ちょっと嬉しくなります。(クリスチャンあるある?)

そういえば春頃、柚木麻子さんの『BUTTER』を読んだのですが。

こちらは文庫で読みました。すんげぇ作品だった……! 初めは落ち着いて読んでいたのですが、進めるにつれ思わず腰を浮かしてしまうような感じで。自分の腸が掴まれてぐわんぐわん揺さぶられるような。「あぎゃー! すごい本を読み始めてもうたー!」と思いながら、夜更かしして読み切りました。しかもその直後、矢も楯もたまらず成城石井に寄り道し、エシレバターを生まれて初めて買いました。お高いね……! そして残念だけど、庶民過ぎる私には十分そのおいしさが分かっているのかどうか怪しい。家にある雪〇バターとの違いを「芸能人格付けチェック」みたいに試されたら、間違える可能性大。エシレバターの方が溶け方がきれいで、透き通ってきらきらしていて、後味もくどさが無い感じはしますが……合ってる?(ここでも「模範解答」を気にする自虐クドウ)

タイトルの通り、物語の中ではバターが重要なモチーフとして描かれ続けますが、それと絡んで、酪農家が「ミルクってもとは血液なんですよ」と語る場面が出てきます。

私は長男の授乳期に、お餅を食べ過ぎて乳腺炎になりました。次男の授乳期には、次男の乳児湿疹がひどく、私の食生活を節制することになり、甘い物、乳製品、脂肪分などを極力避けたこともありました。バスで乗り合わせた女子高生が、甘そうなミルクティーのペットボトルとクリームパンの入ったコンビニの袋を持っていて、「わぁ! 今の私には絶対食べられないやつ……!」と強く思ったことを覚えています。(食い意地)

この時、食べたものと体、あるいはその中を流れる血液の関係を意識するようになりました。私の食べたものが私の血液を作り、それが母乳となり、子どもの体を作る。そんな「循環」を、生々しく、しかし荘厳な気持ちで受け止めたものでした。

『BUTTER』に出てきた酪農家の一言は、それらを思い出させてくれました。

冒頭の聖句に出て来る「乳と蜜の流れる土地」という言葉は、山崎ナオコーラさんの表現の通り、甘く幸せなイメージを思い起こさせてくれます。私は何となく、溶けたバターとメイプルシロップがホットケーキの上をたらりと流れる様子を思い浮かべてしまいます。

でも「乳」も「蜜」も、それを産生する主体(なんか大げさですが)には体を張った苦労があるのですよね。

ついつい「結果」として得られる甘さ、豊潤さ、なめらかさなどの方に意識が向きがちですが、それを与えると約束された神さまは、実は血のにじむような、いや血そのものを流してそれをお創りくださっているのかもしれません。十字架で流された主イエスの血潮が、流れ流れて「乳と蜜」となって私たちを救い、癒し、生かす……というのは考え過ぎでしょうか。

最近、お野菜や果物に生産者さんの名前や顔写真が付いているのを見かけます。私たちが享受する「おいしさ」の背景には、誰かの血のにじむような努力があるのかもしれない。そんなことを思うのでした。

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