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「言わされる言葉」がもたらす豊かさもある ~「防弾会食」から思うこと

主の言葉がアミタイの子ヨナに臨んだ。「さあ、大いなる都ニネベに行ってこれに呼びかけよ。彼らの悪はわたしの前に届いている。」しかしヨナは主から逃れようとして出発し、タルシシュに向かった。
旧約聖書 ヨナ書 1章1-3節 (新共同訳)

こんにちは、くどちんです。キリスト教主義学校で聖書科教員をしている、牧師です。

今回はBTSと聖書の話ばっかしますよ。(先に断言)

約1か月前、「防弾会食」と呼ばれる動画が公開されました。

この中で「今後はソロ活動に傾注していく」ということが語られ、多くのファンが動揺しつつも、これまでの彼らの活動に労いを送ったのでした。(でも一部では「解散」「活動休止」なんて報じられたりもして、それに翻弄されもした)

メンバーの口から語られる内容はとても「率直」なものばかりでした。BTSというグループは当初から「人間味ある姿を見せる」というスタンスを取り続けてきたところがあります。(もちろん、その「見せているパーソナルな姿」こそが「見せるために作られたもの」だとは言えるけど、それは含んだ上で。)
「率直」な言葉の中には、割とショッキングに思われるものもあり、そこだけを取り上げて「BTSはこれまで辛い活動を強いられてきた」「本当はずっと前から活動をしたくなかったのだ」と安直な捉え方をするメディアもあり、これもまたファンをむやみに翻弄してしまいました。

そういう「割とショッキング」な一言の中で、我が「最愛」SUGA氏の発言も取り上げられていました。
たとえば上でリンクを貼った記事にはこうあります。

SUGA「最近では、作詞をするのが難しくなってきました。まるで誰かを満足させるために、絞り出して書いているのが苦痛なんです。7~8年前までは、伝えたいメッセージがあるけれど、スキルが足りていなかった。でも今は、何を伝えたらいいのかわからないんです」

ニュース記事はかなり抜粋されてしまっていますが、もう少しニュアンスや前後の文脈が分かるのはこちらの引用。

「言いたいことがなくなってしまった」「無理やり絞り出している」「何の話をすればいいのか分からない」
これは「活動が苦痛となっていた」と読むことができます。実際、そういう部分が「皆無だった」とまでは言えないでしょう。

でも、曲がりなりにも「書く」「語る」という仕事に携わっている私にとって、この言葉はものすごく共感するものでした。

自分が何を語るべきなのか分からない。
相手を満たす言葉を届けたいのに、それが何なのか分からなくなった。
昔はそんな迷いなどなく、語りたいことが湧いて出てきたのに。

教員歴牧師歴10年を過ぎる辺りから、私が悩んでいたのも同じことでした。

でもその葛藤の中でもがきながら到達したのは、「言いたいことがなくなったのは、悪いことか?」ということです。裏返して言えば、「言いたいことだけを言っているのが、本当に善いことか?」ということです。

私は学校で働く牧師ですが、時折教会の礼拝でも「説教」と呼ばれる聖書のメッセージを語らせていただくことがあります。
どの聖書箇所に基づいてメッセージをするか……という時に、幾通りかの決め方があります。
ひとつはもちろん、「こういうメッセージを語りたい。だからこの聖書箇所に基づいてお話しよう」という、「メッセージと関連した聖書箇所を自分で選ぶ」という方法です。この場合、「言いたいこと」が明確なので、ある意味楽ですし、やりやすいと言えます。
でもこのやり方には限界があって、私が「言いたがること」ばかりを語ってしまう……という偏りを生みがちです。また、「それは真に聖書のメッセージと言えるか? 私が恣意的に聖書を読んでいないか?」という疑念も拭えません。もちろん何度も自分を問い直し、そういう傲慢さを避けようと努めはしますが。

そこで、「言いたいことを語る」のを敢えて避けるために、「聖書日課」とを利用することがあります。「聖書日課」とは、「この日にはこの聖書箇所を読みましょう」ということを示したカレンダーのようなものです。これに従えば、少なくとも説教で使う聖書箇所の選定において、私個人の思い入れの入る余地が無くなります。示された聖書箇所から「私は、教会は、今何を問われているか?」という「積極的な受け身(矛盾のようですが)」の姿勢でメッセージを模索することになります。

「言いたいことを語れる」のは気持ちの良いことです。でもそれを続けると、「私」という枠組みを超えたものはもう出て来なくなってしまう。
「私が言いたいこと」ではなく、外から与えられた、今「語れ」と求められていることに懸命に向き合ってみる。その中で、自分という人間の思考の枠組みが解体され、新鮮な学びを得たり、頑なだった自分が解放されたりすることが何度もありました。そしてそれは「語る」側の私のみならず、聞いてくださる方にとっても広がりを味わえる経験だったのだと思います。

BTSの話に戻れば、「Dynamite」や「Butter」、「Permission to Dance」といった最近の楽曲は、純粋に「彼らが歌いたかったもの」ではなかったかもしれません。
でもそのことは、「だからBTSにとってこれらの曲は無意味であった」ということにはなりません。また、「これらの曲を好むファンはBTSを分かっていない」ということにもならないと思います。
これらの楽曲を通してBTSのメンバー自身が表現の幅を広げた部分も大いにあったでしょうし、これらの楽曲によってBTSという表現者と出会えたリスナーも多くいました。私もその一人です。

「Dynamite新規」という言葉があるようです。世界的にヒットしたこの曲で初めてBTSのファンになった人たちを指すものです。
BTSの「本当の」思いや表現も知らず、「Dynamite」で彼らを知ったミーハーな人たち……という揶揄のニュアンスを含んでいるのでしょうけれど、「Dynamite新規」を多数生み出せるくらい彼らの魅力を押し広げたというのも、この作品の力でしょう。そしてこの曲はやはり、「BTSが世に出したからこその魅力」を備えているのです。

そんなことを、以前にも記事にしていました。

「言いたいこと」がたくさんあるのも、素敵です。それが次々に湧き出して、それによって多くの人が豊かにされるなら、本当に素晴らしいことです。
でも、「自分が言いたいこと」が無くなったように感じられても、神さまが「あなたが語れ」と与えてくださる言葉というものは、あります。
「自分が言いたいこと」が無くなったように思われた時には、そういう「私を通じて語らされるもの」に耳を澄ます。そんな静かなインプットの時間が必要です。

冒頭に挙げた「ヨナ書」というのは、ヨナという預言者(神からの言葉を預かる人)が、神さまから「ニネベで神の言葉を伝えよ」と命じられたのに、それに逆らって逃げた……というちょっとおかしな話です。子ども向けの絵本などにもなっていて面白いので、ぜひ読んでみていただきたいです。
率先して自ら語りたいことでないのに、ヨナはしぶしぶそれを語らされる。自分の内から出てきた言葉でなくても、「仕方ないな……」と三日三晩沈思黙考の末、神に語らされることを語る。その結果、多くの人を救うことになる。
預言者にもワールドワイドスーパースターにも、市井のイチ牧師/教員にも、同じようなことは、ある。

早速始まっているBTSメンバーの個人活動が、自由なアウトプットであると同時に豊かなインプットの時間となって、良い意味で「言わされる」言葉とたくさん出会えると良いな、と期待しています。


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