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ペンテコステと通翻訳

五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。
新約聖書 使徒言行録 2章1-4節(新共同訳)

こんにちは、くどちんです。キリスト教主義学校で聖書科教員をしている、牧師です。

今日はペンテコステ、聖霊降臨日です。イエスの復活を記念するイースターから数えて50日目、クリスマス、イースターと並ぶキリスト教の祝日です。集まって祈っていた弟子たちに「霊」が降り、彼らが様々な国の言葉で神の業について語り始めた。こうして、世界に向けた宣教が始まったとされます。

授業でこの箇所を取り上げる時、生徒さんとはよく「いいよなぁ~、こんなんなったら、英語の勉強要らんやん~」という話になります。
今、韓国語を勉強し始めた私にとっても、「霊が降って異国語ペラペラ」というのは、確かにちょっとうらやましくはあります。

先日、教会関係のお仕事で韓国からのお客様をお迎えしました。韓国語ネイティブで日本語もペラペラの先生が一人通訳担当として付いてくださっていたので安心だったのですが、私も何かと頑張ってお話をさせてもらいました。
「分かる」「通じている」という瞬間は本当にその人と「出会えている」感じがします。けれども、ちょっと込み入った話になって「通訳待ち」の状態になると、途端にその会話の輪から自分が離れてしまったような、物理的距離は何の変化も無いのに、心理的にはガラス窓を1枚隔てたような気持ちになってしまうことを肌身で感じました。
逆に、その通訳担当の方とお客様が韓国語で「わざわざ訳すほどでもない」雑談をされている時、私の隣にいらした全く韓国語を理解されない牧師に「今、お二人が実は20年くらい前に近所に住んでいたことが判明したみたいで、驚きの地元トークが繰り広げられているところです」と私から説明して差し上げることができた場面もありました。そういう時は、私程度の「簡易通訳」であっても「私もあなたも決して輪から外れてはいませんよ」という連帯感を生み出すことができたのかなぁと、ちょっと嬉しくなりました。

互いの言葉が通じる、互いの思いが伝わるということは、私たちにとって本当に心強いことであり、また互いの考えが分からない、汲み取れないということは私たちを本当に心細くさせるものです。「言語の壁」はそんなことを教えてくれました。通訳にせよ翻訳にせよ、これらの「言葉を繋ぐ」営みは、人と人とを結び、心を通わせ合うための大きな働きであるなぁと思った次第です。

ペンテコステの出来事を機に、「言語の壁」を超えて届けられていった福音は、人々の心を温め、生きる意味を見出させ、愛の実践を生み出していったはずです。
先の私の経験を、このペンテコステの出来事と重ねて考えた時、「通翻訳の仕事は、まさしく福音宣教と同じだ!」と思えました。(ちょっと飛躍し過ぎですが(笑))

「通訳、翻訳家を目指します!」なんて私が言ったら、「今さら何を大げさな」と思われるでしょう。でも職業的な通翻訳でなくても、こういう「誰かお客様が来た時」にちょっと「こんな風に仰ってますよ」「何々についてお尋ねです」なんて「仲を取り持つ」ことができたら、それはそこに「小さな神の国」を作り出す業になるんじゃないかなぁ、と夢想します。(いや、飛躍し過ぎなのは重々承知ですが(笑))

考えてみたら、礼拝説教自体が「神の言葉を通訳/翻訳する」業と言えそう。ペンテコステの出来事を経て弟子たちは、「神の言葉と人々との間を取り持つ」者として歩み出したのですね。

これからも頑張って勉強して、誰かと誰かのちょっとした交流や、温かい心の支えになれる場面が持てたらいいなと思うのでした。
最近勉強サボりがちなので、自らに喝を入れ直すペンテコステです(笑)



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