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「新版オグリ」の「褒めてやる」と『雪のひとひら』の「Well done」

わたしの目にあなたは価高く、貴く
わたしはあなたを愛しあなたの身代わりとして人を与え
国々をあなたの魂の代わりとする。

旧約聖書 イザヤ書 4章34節 (新共同訳) 

こんにちは、くどちんです。キリスト教学校の聖書科教員をしている、牧師です。

先日、YouTubeの期間限定配信で「スーパー歌舞伎Ⅱ 新版オグリ」を観たことから考えたことを書きました。

この「オグリ」のラストシーンで、オグリが照手へ「褒めてやる、褒めてやる」と言うのを聞いて、『雪のひとひら』(ポール・ギャリコ)を思い出しました。

私が持っているのと、今は装丁が変わっているみたいです。私が持っているのは、トップ画像の絵の表紙。本棚から引っ張り出してきて、久しぶりに読み直しました。

ある寒い冬の日、はるかな空の高みで、あたかもふかい眠りからさめたときのように生まれた「雪のひとひら」。自分をつくりだした「そのひと」の存在や慈しみに安らいだり、時に見捨てられたように感じたり、それでも自分がつくられたことには何か意味があるのではないかと思い巡らしたりしながら、人生の旅路を流れてゆきます。

名作とされる作品ってやっぱりすごいですね。最初に読んだのは学生時代でしたが、正直この作品の良さの10分の1も分かっていなかったんじゃないかな……。数年前にも読み返しましたが、今回の再読(再々々……読?)はさらに味わい深さもひとしおでした。年齢や経験と共に、この「雪のひとひら」の人生に重なるところが増えてきたんだと思います。手元に置いて数年おきに読み返すと良い本。文庫で安価なので、紙の本で所蔵されることをお勧めしたいです。文章の美しさ、リズムの清らかさ、情景描写の細やかさも秀逸。原語では読んでいないのですが、おそらく訳文そのものの素晴らしさも大きいのだと思います。

「雪のひとひら」はその人生の最後に、「そのひと」からの「なつかしくもやさしいことば」を聞きます。「ごくろうさまだった、小さな雪のひとひら。さあ、ようこそお帰り」。

訳者によるあとがきで、この部分の原文が紹介されています。"Well done, Little Snowflake. Come home to me now."

この「Well done」という言葉に初めて触れた時、若かった私は「ああ、私も『そのひと』から『Well done』と言ってもらえる人生を歩みたいな」と思ったのでした。それから20年近く経って、今もその思いは変わらず、むしろ深みを増したようです。

「オグリ」の「褒めてやる、褒めてやる」を聞いた時、心にひらめいたのがこの「Well done」でした。

善く生きたい、と私たちは「おおむね」願っています。わざわざ好んで誰かを憎んだり、出し抜いたりしようと考える人は少ないと私は考えています。ところが「善く生きたい」と思ったそのすぐ後で、「でも損はしたくない」とか「あの人と比べると自分は……」とか、他の欲求が先に立ってしまって、「善く生きたい」という根源的な求めを私たちはつい後回しにしてしまうのでしょう。

照手に向けられた「褒めてやる」は、損得抜きでオグリへの愛に生きた健気さに対する受容の言葉であろうと思います。それは、本来人生の来し方を周囲に決められて当然だった立場の彼女が、慣習やしがらみを振り捨てて自ら選び取った生き方です。誰かからの賞賛、富や名誉とも関わりなく、「自分の信じた愛のために生きた」、そのことに対して「褒めてやる」という最大級の祝福が与えられるんだろうな、と思いました。

「オグリ」では、オグリも照手も最後はしかるべき高い地位に着いてハッピーエンドとなるけれど、これはある種の「型」であって、「地位や財産が人生の本質的なゴールである」というメッセージではないでしょう。

「雪のひとひら」が体現していたのも、この照手に通じる健気さだと思います。小さな小さな雪のひとひらの、まことにつつましい、取るに足らない一生。その平凡さゆえに「何の意味が?」と何度も自問するのですが、平凡そのものの人生さえも、「そのひと」の計画にとっては無意味なものではないということに、彼女は人生の終わりに気付きます。「彼女は終始役に立つものであり、その目的を果すために必要とされるところに、つねに居合せていた」というのです。

「役立つ」という時、私たちはつい「誰かよりも」などと、人の目から見た大小、軽重を問いたくなります。「こんなことくらい誰でもできる」「私よりあの人の方がすごい」。そんな風に他者と比べて自分の人生の価値を計ろうとするけれども、「そのひと」はそんなちっぽけな比較はしておられないのです。すべては「造り主そのひとの偉大な意匠の一部として一役買っていた」ということに尽きるのです。

雪のひとひらは、その旅路の折々に、実は多くの人たちを助けたり喜ばせたりしています。ところが面白いのは、雪のひとひらがそこで「自分は役立った」という誇りを持たずに通り過ぎている場面がいくつかおかれていることです。野にあって草花を潤したことも、水車を回して女が家族のために焼くパンの小麦を挽いてやったことも、恐るべき火との戦いに打ち勝って幼子が救い出されたことも、大海原で艦船の運航を助けたことも。彼女はその時に誇らしく感じてはいません。みな後から振り返って、それと気付くのです。

きっと私たちの人生も同じです。だから、「私なんて」と卑下することなく、雪のひとひらのように「そのひと」を感じながら自分のペースで生きられればいいのだと思います。

そして、「私なんて」と思っている人に、「あなたをおつくりになった『そのひと』は、あなたのことを『価高い』と仰っているんだよ」と伝えるため、言葉を惜しまない者でありたいと思います。

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