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扉を閉ざしている、その私の傍らに。

その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。うに」と言われた。
新約聖書 ヨハネによる福音書 20章19-20節 (新共同訳)

こんにちは、くどちんです。キリスト教主義学校で聖書科教員をしている、牧師です。

ようやくNetflixを観られるようになり、友人から薦められていた「サイコだけど大丈夫」を観ています。

ソ・イェジ氏が美しい~。見たことあると思ったら、「花郎(ファラン)」に出てきたお姫様ではないか。韓国ドラマを見ていると、「あれに出ていた人だ!」がいろいろ分かって来て楽しいです。

さてこちらのドラマ。互いに心の傷を抱える主人公たちが、衝突したりすれ違ったり葛藤したりしながら、少しずつ心を開き、癒されていく……ような話ではないかと……思いながら観ている途中(笑)

第5話で、雨でずぶ濡れになったムニョンをガンテが仕方なく家に泊めるというくだりがあります。
訪ねてきた友人に、部屋の中にいるムニョンの存在を知られぬよう玄関の外で対応し、中には入れずに引き取ってもらうのですが、その間にムニョンが扉を閉めてしまっていて、家主であるはずのガンテが部屋に入れなくなる場面。
「문 열어! 열어, 빨리!(ドアを開けろ! 早く開けろ!)」と頼むも、階下の友人たちに知られぬよう、小さな声でしか要求できないガンテ。ムニョンは「열었어(開けたよ)」と言って窓を開け、ガンテを翻弄します。

戸を開けて入れて欲しい、戸は開けないけど窓は開けたよ……というこのやり取りに、この二人の心のやり取り、心を開き始めたり、まだぐっと閉じている部分があったりする不安定な関係性がコミカルに表されているようで、面白い場面でした。

「扉を閉ざす」というのは、「他人を入れない」ということを表す頑なな振る舞いです。それは端的に「拒絶」です。
でも、その拒絶の根底にあるのは、「不安」なのだろうと思います。
他者を招き入れていいのか? 他者と交わりを持っていいのか? その他者は自分の大切な領域を踏み荒らすことは無いのか? そもそも招き入れようとしても入って来てくれなかったら?
そんな不安から「だったら、誰も入れない」という排他的な態度で自分を守ろうとする。それが「扉を閉ざす」ということだと思います。

でも扉は本来「行き来」に使うもの。つまりそれは「誰も入れない」ということの代わりに、「自らも出られない」という縛りを生み出します。「閉ざしている」つもりが、自ら「閉じ込められている」ことにもなるのです。

「扉を閉ざす」人は、本当は扉を開けて誰かを招き入れたい人なのではないかと思います。「自ら扉を開き、他者を呼び入れたい」。けれど、傷付けられるのが、傷付くのが怖いから、閉ざしてしまう。
初めから他者をどうでもいいと思っていれば傷付く必要も無いけれど、交わりを求めるからこそ傷付く可能性も表裏一体で生まれてしまう。でも拒絶されるのが怖くて、先に拒絶してしまう。

確かに人の世では、こちらが扉を開いて呼び掛けても、相手が応じてくれないことがしばしばあります。呼んでも呼んでも来てくれなければ、悲しく、徒労感に打ちひしがれ、「自分は誰にも振り向いてもらえない存在なんだ」と自分を卑下したい気持ちにもなります。
また、ただ断られるだけ、ただ入って来てくれないだけならまだしも、こちらの呼び掛けを嘲笑ったり、非難してきたりする人もいます。あるいは、一旦和やかに招きに応じたかのように見えても、部屋の中で急に攻撃性を露呈する人もいます。
そんな経験が重なれば、「いっそ扉を閉ざしてしまった方が良い」と思ってしまうのもやむを得ないことです。

冒頭に引用した聖書も、そのような心境にあったイエスの弟子たちの姿です。

今年のイースターにもこの聖書箇所に基づいて記事を書きました。この時は、イエスの「平和があるように」という挨拶が私たちにもたらしてくれる平安を思って、文章を綴りました。

今回は、弟子たちが「家の戸に鍵をかけていた」のに、「そこへ、イエスが来て真ん中に立」った、というところに心を惹かれて記事を書いています。

イエスは私たちが扉を閉ざしていても、それを乗り越えて、私たちの思いを超えて、部屋の真ん中で私たちの傍らに立ってくださっている。

他者を招き入れたいと喉を嗄らして叫んでも誰も振り向いてくれなければ、失望して部屋に閉じこもりたくなります。自暴自棄になって、扉どころか家ごと吹っ飛ばしてしまいたい、そんな衝動を抱く人さえいるでしょう。
耐えることのない悲しいニュースを目にする度に、私はそんな「声を聞かれない人たちの叫び」のようなものを感じるような思いがしました。

大丈夫、ちゃんと私たちは出会えるよ。あなたの声は誰かには届くよ。扉を通って挨拶をして入って来てくれる友が、あなたにもいるはずだよ。
もしそういう人が今は見付からなかったとしても、悲しみで閉じこもっているあなたの隣には、実は今すでにイエスさまがいるんだよ。

傍らに立つイエスの存在に気付くことができれば、心強くなって、また扉を開けて誰かを呼びたい、誰かと語らいたい、そんな気持ちにもなれるかもしれません。

絶望してしまいそうなことの多い世の中だからこそ、聖書の語る「根底の希望」に出会ってくれる人が一人でも増えてくれたら。そう祈りつつ、これからも少しずつ語り続けられたらいいなと思います。


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