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きっと、それぞれに役割があると信じて。

もし体全体が目だったら、どこで聞きますか。もし全体が耳だったら、どこでにおいをかぎますか。そこで神は、御自分の望みのままに、体に一つ一つの部分を置かれたのです。すべてが一つの部分になってしまったら、どこに体というものがあるでしょう。だから、多くの部分があっても、一つの体なのです。

新約聖書 コリントの信徒への手紙一 12章17-20節 (新共同訳)

こんにちは、くどちんです。キリスト教学校で聖書科教員をしている、牧師です。

長男が、国語の宿題で「学校新聞」を作ることになったと話していました。何をネタにして書こうか……と悩む中で、彼は「新聞やと、自分の思ったことって書かれへんよな」と漏らしていました。おー、確かにそうや、よう分かっとるやん、その代わりしっかりたっぷり取材しておいで……と話していたのですが。

新聞、と言えば、先日こちらのオンライン講座を受講しました。

前半は講師の校閲記者の方によるお話。校閲とは何か、校閲記者の仕事内容、校閲する際のポイントは……といった説明でした。いろいろ具体例も挙げてご紹介くださって、とても興味深い内容でした。後半は、事前に送られてきた「ダミー記事」を使って、前半で教わったポイントを意識しつつ、実際に校閲体験。制限時間内に、指定された記事を自ら赤ペン片手に読むのですが……なかなか「満点」とはいかず。「あーそうか、そこにもあったか」「うわー、これは全然気付かんかったわ!」などと一人面白がりながら答え合わせをしていました。あっという間の2時間。楽しかったです。実直なお人柄を感じさせる講師の先生の丁寧な語りに、静かだけれど力強い頼もしさを感じました。

印象深かったのは、「校閲は、添削とは違う」という一言。言われてみれば当たり前ですが、ハッとさせられました。たぶん私は仕事柄「添削」をすることが多くて、そのイメージが頭にあったのですね。でも先生が仰るには、校閲担当者しての違和感を大事にしつつも、元原稿の筆者の「表現」を尊重することもある、と。言葉はその人の主観と深く結び付いているから、「校閲の領域を超えない」よう、複数の人と協議した上でそのままにする場合もあるのだそうです。

「元の原稿をより良く作り直す」のではなく、「上がってきた原稿に瑕疵が無いようにチェックする」、それが校閲のお仕事なのですね。そこに誇りを持っておられる方の矜持を垣間見て、大変感銘を受けました。

確かに新聞のような「報道」の場では、みんながみんな「表現者」となってはいけませんよね。長男の「学校新聞」の話もそうですが、あくまでも「事実を伝える」のが新聞の役割です。もちろん切り取り方や差し出し方にカラーは出ますし、それはそれで意義深いことだと思います。ただ新聞はやっぱり「論説」だけでは構成されないわけで、そうなると「事実確認」や「誤読防止」など、読者にきちんとニュースを伝えるための校閲のお仕事は不可欠だと思わされます。

文章に携わる仕事というと「表現」に関わることと思いがちですが、「読者に対する品質保証」のため鋭意努力される方たちの存在を知ることができました。

冒頭の聖句は、パウロが書いた手紙の一部です。ある種の能力に秀でた人もいれば、そうでない人もいる。それ自体は特に悪いことではないですが、コリントの教会ではどうもそのことで分裂や摩擦が起こっていたようです。そこでパウロは「体」にたとえて、教会の中に集う人たちが互いに違う特性を持っていることの豊かさを説いたのです。

他者から分かりやすく評価されたりするような能力もあります。一方で、地味だけれどなくてはならない働きもあります。あるいは、誰からも「優れている」とは言ってもらえないような人もいたかもしれません。けれどもパウロは、「そういう人も、大切な一部として存在してこその『教会』なんだ」と語ります。むしろそういう「見劣りのするように思われる弱い部分」こそが全体にとって必要なのだ、と言うのです。

うーん、そうは言ってもパウロ先生、誰だってやっぱり褒められたいですよ。目立ったり、名指しで評価されたり感謝されたりしたら、誇らしいし嬉しいですもん。自己肯定感低めの自虐クドウは、「どうせ私なんて……」の思いをいつも引きずっているので、「弱い部分こそが大事」の言葉をなかなか素直に受け入れ難いところがあります。

ですが、たぶん校閲記者は記事に署名はしないんでしょうね。そして、「自分はこの文言に対して違和感がある」と思っても、主たる書き手の思いを尊重して、自分の考えを譲る場合があるというのです。そういう「裏方」的な仕事に誇りを持って徹する人がいるからこそ、新聞の信頼度は保たれているわけです。

校閲は「弱い部分」ではありませんが、「目立たないところ」であることは事実。そう考えると、「取り立ててスポットライトを浴びなくたって、素晴らしい働きはできるんだ」と思えてきます。うん、パウロ先生、仰りたいことが少し分かったかもしれません。

このnote も、「私なんかが書く意味はあるのかねぇ」と思いながらぼちぼち続けています。もっと立派な文章で、しっかりした学問的裏付けのある、味わい深い聖書解説のサイトも数多あることでしょう。でもひょっとしたらこういうゆるいブログで、「へー、聖書にそんな言葉があるんだ」「え、聖書ってこんなに軽い感じで読んでもいいの」なんて、親しみを覚えてくださる方もいるかもしれません。

そうだったらいいなと願いつつ、もうちょっと続けてみようか、と思うくどちんです。(……でもやっぱり「スキ」をいただけた時は嬉しいです。わざわざ読んで、スキを押してくださった皆様に、心からの感謝を!)

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