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直接集まれなくても、心は寄せ合えると信じて。

また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」

新約聖書 マタイによる福音書 18章19-20節 (新共同訳)

こんにちは、くどちんです。キリスト教学校で聖書科教員をしている、牧師です。

何だか世の中の様子がまた不穏になってきてしまいました。日々「新規感染者数が最多更新」なんて聞かされると、「どうしよう」という動揺もだんだん麻痺してきてしまって、「またかぁ……」という受け取り方になってしまう部分まで出てきます。心を揺さぶられることに疲れてしまうんでしょうか。それじゃいけないとも思うんだけど。

そんなわけで、またしても人と直接会うこと、集まることが憚られるようになってきてしまいました。うんざりするやらがっくりするやら……のこの頃です。

私の所属する教会も、メンバーをいくつかのグループに分けて会堂に集まって礼拝できる機会を設け始めていました。これが少しずつ拡大できて、やがては元通りの礼拝スタイルに……とちょっと夢見てはいたのですが。うーん、やっぱりまだまだオンラインを主流とせざるを得ないのかなぁ……という感じになってしまった。

とはいえ、教会の皆さんがそれぞれ知恵と力を合わせて整備をしてくださったおかげで、我が教会のオンライン礼拝環境はずいぶんと整っている方だと思っております。

前に、この「リモート礼拝」のバリエーションについてまとめてみたことがありましたな。

うちの教会は「Zoom」を使って、リアルタイム配信しています。日にもよりますが、奏楽者もリモートで奉仕します。これって結構すごい気がする。

私はキリスト教学校で働いていますが、学校の礼拝も礼拝堂からの配信や、メッセージは動画でいただいたものを流すなどで対応しています。

「集まれない礼拝なんて、礼拝と呼べるのか?」という見方もあると思います。共に集って互いに祈る、礼拝の本質がそういう部分にあるということを、私も理解しています。

でも、居場所の異なる人たちが、それでも礼拝を共に守る、祈りを合わせる……というのは、礼拝に向かう切なる願いを感じる営みでもあります。形式的に集まれない分、もしかしたらここに礼拝の本質がある、とさえ言えるのかもしれません。

上述の記事でも書いたのですが、「教会」という言葉の元は、ギリシャ語の「エクレシア」という言葉です。エクレシアは「集会」「集められた者」というような意味合いなので、「教会」という言葉で多くの人がイメージする「十字架のついた西洋風の建物」という意味内容は含まれていません。私はよく授業で生徒さんに、「だから教会、と言っても必ずしも建物が無くたっていいんだよ。実際、たとえば『毎週日曜日に公民館の集会室を借りて礼拝している』というような『教会』もあるよ」と説明します。

そう考えると、今のリモート礼拝のありようはまさに「エクレシア」そのものと言えるのではないでしょうか。オンライン上とはいえ、「共に祈る」ということのために「集まって」いるのですから。

私も実は今、他校の生徒さんのためにメッセージの動画を準備しています。準備に当たって、「会わないんだから自分の好きなように話せばいい」とは全く思わないんですよね。どんな人たちだろう、どんなことに関心を寄せておられるんだろう、どんなことに心を痛めておられるだろう、どんな言葉を語れば少しでも力にしてもらえるだろう……。十分には分からないことも多いのですが、それでも懸命に想像して、心を寄せて、準備に当たります。……それで提出締切ギリギリになったりするのはいただけないんですが。(自虐クドウのつぶやき)(ごめんなさい)

直接に会うことが難しくても、お互いを思いながら心を寄せ合う時、私たちは「集められたもの」、「エクレシア」として神さまの祝福にあずかれるのだと信じます。それがいわゆる「教会らしい」場所や姿でなかったとしても。

先行きはまだまだ暗く、心が苦しくなるような状況が続きますが、「私たちの心は集まれる」「そこに神さまの祝福はある」と信じて、互いのために心を寄せる営みは諦めずにいたいと思います。

220123心は寄せ合えるnote用イラスト



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