推し活も信仰生活も、「一緒に」の良さがある。
こんにちは、くどちんです。キリスト教学校で聖書科教員として働く、牧師です。先日の記事でも少し触れましたが、我らがバンタンソニョンダンの皆さんがソウルにてコンサートを開催されまして。
全3日間のコンサートのうち初日と最終日はオンラインストリーミングが、2日目は映画館でのライブビューイングが行われました。
ライビュ!!!!!(鼻息)
もちろん一番はオフラインでコンサート会場に行きたい、行ける人が羨ましい~~~、という気持ちなんですよ。膨大な数のARMY(BTSファンの呼称)に比して「一握り」と言っていい幸運な人たちはその場にいられるわけですから、そりゃもうめちゃくちゃ羨ましくていじいじもするわけです。
(年末のLAでのコンサートの時もそんな記事を書いてますね)(どんだけ羨ましいんだ)(そりゃもう海よりも深く空よりも高く)
でもまあライビュですよ! メンバー自身はそこにはいないけれど、彼らを見たくて集まっている人たちは、コンサート会場同様たくさんその場にいるわけです。
ARMY歴がやっと一年になろうかという私はオフラインコンサートに行ったことはなく、これまでずっとオンラインで「推し活」をしてきた私は、「ファンのコミュニティ」をリアルで目にしたことがありません。
おおむね私よりファン歴の長い人たちであろうその集団を前に、私は気持ちが臆してしまうんじゃないかな、ビビりの自虐クドウはおどおどしてあまり楽しめないんじゃないかな……と心配で泣きそうになりながら(マジで)(いい大人なのに泣きそうだった)会場に向かったのですが。
結論としては、「めちゃくちゃ楽しかった」んです。
そして、なんかすごく「救われた」んです。
感染対策で声も出せないし、チケット購入制限の関係でおひとりさま客が多かったと思うんですが、「みんな一緒に、同じものを楽しんでいる、同じものを大事に思っている」という空気が感じられました。
私の両隣はたぶん年の頃も同じくらいの人だったんですが、「あ、この人きっとこの曲好きなんだな」「今このメンバーの動きに反応したな」みたいなのが、ちょっとした動きとか息遣いで伝わってくるんですよね。そうすると、「分かる、分かるよー!」って共感して、こちらも嬉しくなって、わくわくが加速するんです。そして、「新参者の私も『仲間』に入ってる、入れてもらえてるんだな。同じ気持ちでいられるんだな」と、温かい気持ちになったのでした。
私は昔から宝塚もすごく好きで、実は一時期「会」と呼ばれるタカラジェンヌ個人のファンクラブに入っていたこともありました。その時も初めは「自分みたいな新参者が……」って及び腰になっていたのですが、そこでお友だちができると「あの場面が素敵だったね」「あそこで付けるアクセサリー変わったね」「そうそうー!」なんて仲間同士わいわい言うのがすごく楽しくて、連帯感が生まれて、それによって一層楽しくそのジェンヌさんにのめり込んでいったものでした。
一人でその人を応援して、一人「推し愛」を募らせるのももちろんいいけれど、「みんなで応援する」ということの中にはまた代え難い喜びがあるなぁ、と改めて感じました。
「共感」「交歓」がもたらす喜び、温かさというのでしょうか。
そこで思ったのは、「信仰も同じじゃないかな」ということです。キリスト教信仰が「イエスさま推し」みたいなものだとしたら(笑)、と考えてみたのです。
一人家で祈って聖書を読んで「一人推し活」と呼べる信仰を持つのももちろん一つの信仰のあり方です。でも、教会に集って「この聖書の言葉に慰められたわ~」とか「こういう時に祈ってもらってほんと励まされたんだよね」とか「この讃美歌大好きなんだ~」などと語り合うことの中で、相乗効果でさらに深まる信仰もあると思うのです。
冒頭に引用したのは、「コヘレトの言葉」という、旧約聖書の名言集みたいなところの一節。「三つよりの糸は切れにくい」……って、毛利元就かい! というツッコミは置いといて(笑) いや、洋の東西を問わず、「人と人とが共にいる」ということの喜びを、みんな大切に思っているってことですよね。
「人と会う」ということが難しくなったり、「会おうよ」「おしゃべりしようよ」とお誘いするのに抵抗を覚えてしまうようになったりしてもう2年以上。でも、「思いを分かち合うことで、思いは一層深くなり、広くなる」ということを希望として、諦めずに新たな出会いの季節を迎えたいな、と思います。
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