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匂いにおいて

生活と心の余裕というのは、部屋の匂いで計れる気がする。特に僕のような一人暮らしの男に関しては。


僕は別に綺麗好きというわけではない。むしろ片付けは苦手な部類だ。子どものころ僕の部屋は遊んだレゴブロックがそのまま床に散乱していて、母親にせっつかれて掃除するときには毎度大掃除レベルだった。
さすがに大人になった今ではそこまでのことはないけれど、やはり小忙しいときにはつい散らかしてしまうものだ。散らかっているとき、それはいま(甲斐バンド)。

道徳の授業で、いまだに覚えている話がある。男の子が散らかった部屋を母親に叱られては、「でもお父さんの部屋も仕事のもので散らかっているじゃないか」と反抗する。ある日宿題でペンだかハサミだかが必要になって父親に借りようとすると、父親は部屋の机のどの引き出しのどこにそれがあるかを正確に把握していた。ただ散らかっているように見えた父親の部屋は、仕事の効率のためにあえてそうなっていたのだった、という話だ。

はたしてこの話がどう「道徳」なのか。それはいまいちわからない。現にその男の子も、その話を読んだ僕も、自分の散らかった部屋を肯定する言い訳を得てしまったわけなのだから。そして僕はいまだにその理屈を捏ねている。散らかっているように見えて使いやすいんだよ。あえてなんだよ。正直どこにあるかわからないものもあるけどさ。

匂いの話に戻る。つまり部屋の匂いを気にできるということは、すでに部屋が片付いていることが前提な気がしているのだ。散らかった部屋をそのままにしているヤツが、一人暮らしの部屋をわざわざいい匂いにはしないのである。

数年前に「サンタマリアノヴェッラ」のポプリを買った。多分そのころは生活と心の余裕があった。おしゃれな服屋みたいな匂いで大変気に入っていたし人に薦めたりもしたのだが、さすがにもうカラカラに乾いて匂いはない。
早く買い直さなければ、とずっと思っている。ほんとうにずっと。しかし物事には順序というものがある。5,000円かけて一人暮らしの部屋をいい匂いにするのはどう考えても生活の手順の一番最後なのだ。
それより先に僕は季節物の衣服をしまって、イベント準備で溜まったダンボールを潰して、下駄箱を整理して、洗面所の鏡をピカピカにして、サボテンに水をやらなければならない。道のりは遠い。ひとまず文章を打つ手を止めてサボテンに水をやった。

この週末、片付けよう。片付けるとき、それはいま(甲斐バンド)。


ポプリというと思い出すのだが、昔の彼女の家で飼われていた猫の名前がポプリだった。それは家にやってきた日が11月11日で、「ポッキーとプリッツの日」から取ってポプリだった。おしゃれな響きとリアルな由来のバランスが絶妙で、いまだに痺れてしまうネーミングである。彼女は名コピーライターになれたかもしれない。



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