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はしがき

さて、僕は今何をしているかと言うと、イギリスはロンドンにて、「科学と社会をどう仲良くさせるのだ」という研究をしています。
小さい頃から理科が好きで、研究者になりたい…と言う夢は、クソみたいな理由で潰えたのだけど、「プロになれなかったけどサッカーが好き」という人と似たような目線で、今も自分にとって「科学」は大事な存在で、じゃあこれを何とか世の中で楽しい存在にしたい、と。

ところで、科学って言うとどんなイメージでしょうか?
無限の可能性につながる夢のテクノロジーでしょうか。それとも人の叡智を結集した高尚で複雑な理論の集積でしょうか。
ちょっとだけ「科学の世界」に触れていた時の思い出で言えば、そんな難しいことではなくて、ただ目の前で「よく分からないのが分かるようになっていく」ことが一番面白かった気がします。
数字や写真、データや理論という道具を使って、世の中の何かが説明できちゃうときの、何だかパズルが解けた感じの楽しさ、みたいな。

思い出語りをすると、僕は小さい頃から割とこのワクワク感が好きで、子供時代を振り返るとこれを追いかけて過ごしていました。
今でもピルクルを飲むと花粉症の症状が良くなるのは、体調の改善以上に、「腸内免疫のメカニズムにどう作用して…」とワクワクする何かがある。
でもこんな大人の素人の興味だけでなく、小さい子の話や、研究者のインタビューとかを見ている感じでは、そのレベルを問わず「理科が好き!」って人はきっと似たような感じがあるのではないだろか。

でもまあ、そんなワクワク感で見ている人ばかりではく、社会に科学が悪い形で影響を与えるシーンを沢山見ると、眉をひそめる人も多い気がします。
特に原子力、医療、環境とかの話は、なかなか色んな意見がぶつかっています。

科学が悪い訳ではない、と言う人もいると思います。科学は純粋無垢で、人の営みが色々絡まってできている社会、というものの中で、それが悪用されてしまう、と。
科学者の一部はよくその理屈で「科学に自由を!」と言うのですが、まあそればかりでもないよね…と言うところが、結構目立つようになりました。
例えば、目先の成果を求めてとりあえずゲノム編集ベイビーを作っちゃった研究者が知らずして負った、生まれた子供への責任の話は、結構重たい話題でしょうか。
原爆に大きく関わったアメリカのオッペンハイマーやアインシュタインが見せた後悔の様子は、「浮世人」としての科学者のイメージじゃまずい気にさせるものかなと。
実は「科学」は数式や理論の形をとるものの、それ自体が「社会」の中にある「人の営み」なのでは…子供の頃に思っていたほどまっさらでない「科学」の別の一面が見えてきます。

じゃあ研究者が社会のことも研究のことも、何でも考えるスーパーマンになれ、というのも酷な話で、それは政府とか、大きく「社会」をまとめているところも少しずつ役割分担した方がいい気がしてきますが、今度はこの組織も、必ずしも人々の心の映し鏡になれる訳ではない、とか言う話になってきます。
昨今のニュースなんかでは色々な不祥事が取り上げられ、ネットのコメントじゃ「こんな奴らに世の中を任せられん!」という声も聞こえます。なんともはや。

にしても、でもどうやって「国民の声」なるものを「科学」に響かせられるのでしょうか。どこに「国民の声」はあるのでしょうか。そもそも、人々にとって「科学」って何なのでしょうか。
よくよく考えると、疑問・課題は多かったりします。

こんな話をすると「難しい」と思う人も多いと思います。実際、色々絡んでいてスッキリ描くのは難しい。
でも、実は何かの知識がないといけない世界ばかりでもない。もつれた紐を綺麗に解けば、超絶複雑な数式はそこにはない気もしています。

自分の研究は、そんなグチャグチャをほどいていく作業で、いい形で世の中を動かして、科学も社会もいい感じに盛り上がっていく…そんなことを目指しています。

ここでは、色々なところの「難しい」を、変に「間引いて簡単にする」のではなく、「ほどく」ことを目指したいなと思うので、上手く書けるか分からないけれど、頑張ってみたいと思います。

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