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小2・小1の姉妹が、親不在で言葉の通じない韓国で1ヶ月過ごした話

私が小学校1年の夏休み。年子の小学校2年生の姉と2人きりで、父の田舎である韓国・釜山で1ヶ月過ごしたことがあります。

この話をすると、現在では子どもをもつ母である妹たちは「自分が親なら、小1と小2だけで行かせるなんてありえない」と口を揃えて言います。

しかし、実際の出来事です(笑)
韓国人の父は、日本生まれ日本育ちの娘たちを、なるべく韓国に触れさせたいと思っていたようです。(父はすでに他界しているので過去形)

韓国に出発する日

姉と私は、父の運転する車で成田空港で送ってもらい、航空会社のグランドホステスさんに預けられました。

今、そんなことを航空会社に頼めるのかなぁ。気になって調べたら、意外とあるようです!

飛行機の旅はとても楽しかったのを覚えています。私と姉は3人席に並んで座り、隣に座ったおじさんに「2人だけなの!?えらいね〜」と褒められて、ちょっとうれしかったような。
一緒にトランプで遊んでくれて、優しいおじさんでした。

釜山の空港に到着した私たちは韓国人のグランドホステスさんに連れられて到着ゲートへ。
そこには迎えが来ていました。父の従姉妹で、日本の我が家で5年ほど一緒に住んでいたおばさんです。
ちなみに、おばさんは日本語を話せます。

一緒に住んでいたこともあり、私にとっては第二の母のようなおばさんと久しぶりに会えて、楽しく話す道中でした。

そして、おばさんの車は、父の母つまりおばあちゃんの家に到着。ちなみに、祖父・祖母は日本にいた時期があり、日本語を少し話せます。

ここまでの状況なら、「子どもだけとはいえ、日本語を話せる人がいるから大丈夫だったのでは?」と思うかもしれないですね。

わかります。
私もこの時まではそう思っていました。

…しかし

孫2人の面倒を祖母が見るのは大変だろうと、近くに住む父の弟夫婦が気を利かせてくれて、私たちを自分たちの家に連れて行きました。
ちなみに、この夫婦は日本語がまったくわかりません…!

韓国語のわからない私たちに話しかけ続けた人

ここから、韓国語しか聞こえない生活が始まりました。
この時点で姉と私は韓国語の文字も読めませんし、もちろん会話もできません。

そんな私たちの救世主だったのが、父の弟の奥さん。
私たちに言葉が通じないことを知りながらも、ずーっと韓国語で話し続け、身振り手振りをつけて会話をしてくれました。

たとえば、
「내일 수영장에 가자(明日はプールに行こう)」と言って、泳ぐジェスチャーをしたり

普段からよく使う単語は、それを持ち上げながら根気強く名前を教えてくれたり
「신발(靴)」「연필(鉛筆)」

寝る前の挨拶を教えてくれたり。
「안녕히 주무세요(おやすみなさい)」

おばさんのおかげで、姉と私は身近にあるものが韓国語で何と呼ばれているのかがわかるようになり、挨拶ができるようになりました。

そして、私たちと年頃の近い、父の弟夫婦の2人の娘たち(私たちの従姉妹)とも一緒に遊んでいました。

さすがにホームシックになったことも

楽しく遊んではいても、なにしろ日本語が話せるのは、ほぼ姉だけという状況。
(韓国語の話せるおばさんは仕事をしていたので、土日でタイミングの合う時に遊んでくれました)

国際電話で両親と話した気もしますが、国際電話の通話料は非常に高かったはずで、たぶん数回だったと思います。

そして、頼りの姉は、非常に韓国に順応していて、従姉妹たちと楽しそうに遊んでいます。

それを邪魔もできず、1人でこっそりと誰もいない部屋に行き、カレンダーを見て「あと2週間もある…」とこっそり泣いた日もありました。

こういう時に、「帰りたい〜!」と主張して、みんなの前で泣けないのが、姉と妹に挟まれた真ん中っ子の悲しい性です。

あっという間の1ヶ月間だったよう

韓国に滞在した1ヶ月の始まり、楽しかったこと、ホームシックになった記憶はあるのですが、不思議と日本に帰ったときの記憶がありません。

帰ることをずっと待ち望んでいたら、もう少し覚えていそうな気がするので、最終的には私もかなり順応していたのかも。

今振り返っても、両親が言葉のわからない小さな子どもだけで、韓国に行かせたのはなかなか無謀だなぁと思います。
韓国の親戚たちがよくしてくれたので、結果オーライでしたが、けっこう出たとこ勝負ですよね(汗)

しかし、韓国で親戚たちと一緒に過ごした時間があったからこそ、父が亡くなった今でも韓国の親戚との交流が続いてるような気がします。
(この時だけでなく、小学校の頃は毎年のように韓国に行っていました)

おばさんとの後日談

余談ですが、韓国語をある程度理解できるようになった今でも、私たちに韓国語で話しかけ続けたおばさんの言葉は、他の韓国人の話よりスッと理解できます(笑)

私に生きた韓国語を初めて教えてくれた先生は、間違いなくおばさんです。

コロナ前に韓国旅行に行き、おばさんに会った時、改めて小1の夏の話をする機会がありました。
「すごくお世話になったと思っている。言葉の通じない子どもたちの世話は大変だったと思う」と私が伝えると、おばさんは笑っていました。

おばさんが一番心配していたのは、「韓国料理が口に合わなくて食事を食べなかったらどうしよう」ということだったそう。
「でも、あなた達はよく食べて、よく寝てたから何も心配してなかった」と言われました。

うん、たしかに美味しくいただいてました。
健康優良児バンザイ。

自分だったら、まったく言葉の通じない子どもたちを預かれるだろうか。
大人になった今、おばさんの器の広さを改めて感じるのでした。

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