教科書と日本人

 教科書のことは、とてもデリケートな問題を含んでいるので、あまりふれたくないのだが、教育のはなしをする時、どうしても避けては通れない。たしかに、歴史に関する教科書には、様々な考え方や問題があるのだろうけど、そこに目をつむってみても、日本の教科書はとても優れていると思っている。ただ、私は日本以外の学校に通ったことがないので、外国の教科書と比較しようもないのだが、他の国はどうなのだろう。

 私は、いまでも教科書を愛用している。前述した歴史の教科書、とくに日本史の教科書はいろんな問題があるとわかっていても、全体の流れを見るうえでは、とても良くまとまっているので、日焼けして茶色く黄ばんだ山川の日本史と日本史用語集は、30年前のものがいつでも手が届く場所においてある。それ以外にも、最近購入した山川の世界史や図録、お坊さんになるための学校が編集している仏教学の基礎をまとめた教科書はどんな専門書や参考書よりも見やすくてわかりやすい。だから、私は今でも何かを調べたいとき、教科書といわれるもので全体をザックリ把握するところからはじめることが多い。

 教科書は、「学校」と同じように、江戸時代にはある程度の体裁があったようだ。そして、それは学校の種類が違うように使用する教科書も、武士の子息が通う「藩校」と、庶民の子どもたちが通う「寺子屋」では全く違うものが使われていた。藩校では、思想教育もおこなうため四書五経が中心だったし、寺子屋では「読み・書き・そろばん」というように、生活に必要な知識が主な教育内容だった。寺子屋は地域の特徴にあったものや、教師の思いで採用するため内容も様々。そして、これらは決して個人所有ではなくあくまでもレンタル、その教科書を読破し自分の知識になったと判断されれば返却、次の教科書をかりるスタイルだったようだ。「往来物」という名称で呼ばれていた寺子屋の教科書は、この「行って却って」からきているともいわれている。このレンタル教科書は、現代のそれと大きく違う点だが、諸外国ではこのスタイルが主流。教科書はあくまでも学校から借りているものだから、大事に大事に使う。日本は、学年が変われば新しい教科書が配布され、自分の名前を記入する。まっさらな教科書をひらく瞬間の少し緊張した記憶がよみがえる人も多いのではないだろうか。私は、数度、1年のうち中途半端な時期に転校したことがあるので、同じ内容だけど違う教科書を2セット所有したことがある。前の学校の教科書を使っても良い気がして、一度やってみたが全くだめだった。あたりまえだ、載っているページも順番もぜんぜん違うのだから、授業についていけないのだ。でも、1年が終わり、2つの教科書読み比べてみたら、勉強した内容は同じだったので、「どうして違う教科書をつかってるんだろう」と当時の私も不思議に思ったし、とても無駄なことだと感じていた。

 日本の教科書は国定ではなく、選定ということになっている。そして、あくまでも民間企業が出版しており、教科書は誰でもが購入できることになっている。これは、偏った思想や教育を防ぐためにも必要なことなのだろう。しかし、現場の教育者からは一部の民間企業を潤すための制度なのではないか、という不満もあるようだ。

 教科書をめぐる問題は、現代の教育問題の一部なのだろう。日本の識字率は江戸時代からとても高かったと言われている。それは、寺子屋を始めとする教育機関が全国にあったことで、学ぶ機会が多かったからだと考えられる。今は、教育が義務化され、国民のほぼ全員に教育の機会が与えられている。しかし、経済格差が教育格差であるという指摘もある。実際、子供のいない私でさへも、実感として教育格差が広がっていると感じる場面がある。教育格差というよりは教育機会の格差といった方が適切かもしれない。教科書も、住んでいる地域、通っている学校で、その内容やレベルに大きな差が生じているそうだ。私の机に、6年生の教科書が2セット並んでいた頃は、たしかに内容に違いはあったけどレベルの違いや、写真の数、使っているインクや紙にはさして違いはなかった。でも、今はそこさへも違うということらしい。教科書は良くも悪くも、国民をつくり、国をつくる手伝いをする。だからこそ、教科書で教育機会の格差は無いようにしてもらいたい。

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