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小ウソつき子さんに、なりました。(パニック障害と毒母の猛威を隠すためについた数々のウソ)その2

 その友達とは、とても仲が良くて、予備校以外にも映画やインストアライヴみたいなイベントにも行く予定があった。 
「約束の前に、他の用事があってそれ済ませてから向かうから、映画館の前で待ち合わせしない?」
 つき子さんになって、説明。用事なんてない。ただ、一緒に電車に乗るのが怖いだけ。
 待ち合わせの時間に合わせて家を出発。当然だけれど、それでは彼女が乗る電車と同じになる可能性が高い。私の家が、2,3駅先だったから、彼女が乗りこんでくるという状況になる。
 パニック障害を患う前は、この段取りが大好きで、電車が彼女の駅に滑りこんで、彼女がホームに立っている姿を見つけると、今日も思う存分おしゃべりしようと思ってわくわくする瞬間だったのだけど、この当時は、
「どうか乗ってきませんように」
 とひたすら祈るばかり。
 だって本来なら用があって先に行っているはずの私がいたら、びっくりするだろうし、何より同じ電車に乗ってしまったら、発作が起こってしまう。
 それは何としてでも避けたかったので、電車が彼女の駅に着くと、目を皿のようにしてプラットホームの乗客の顔を確認したものだ。いなかったらば、それでめでたしだけれど、いた場合は見つからないように遠い車両に移動したりとなんらかの対策を講じないと安心できなかった。
 どうしてこんなにこそこそしなければならないのか。涙が出るほどに、情なかった。しかも大好きな友達を避けるなんて。
 せめて本当のことを言っていたら、何か変わったのだろうか。
 私は今まで4,5人のカウンセラーにお世話になったけれど、その中の1人男性のカウンセラーが、
「もし、その辛い状況を人に言えていたら?」
 という仮説を立て、ロールプレイングのような治療法をやってことがある。ある種の催眠療法で、パニック障害が最初に起きた鎌倉への電車の中で、
「ねぇ、トイレ行きたくなっちゃったんだけど、あとどれくらいで着くかなー」
 セリフを考えてもらい、何度も口にした。言えば良かったのだ。
「あ、あと10分くらいじゃない?」
 そんな返事が返ってくれば、あと10分我慢すれば良いのかー、と安心しただろうし、
「横須賀線なんだからトイレあるよ。行ってきなよ、カバン持っててあげるから」
 と言ってくれたかもしれない。横須賀線には、トイレが付いていることを知らなかった無知な私。言っていれば、誰かが教えてくれたかもしれない。
 誰にも言えないで、妄想領域に入ってしまうのであれば、早めに助けを求めることは、とても大切。今は、そう思う。
 けれども。
 言ってもどうしようもなかったことを、同時に思い出してしまうわけで。「病名さえ知らずに」で、母にカミングアウトしたことは書いたけれど、今回はもっと詳しく書いてみることにする。
 母は、私を生む3年前に流産している。そのことがショックで「心臓神経症」になった。あちこちの病院に出向き、検査をしても異常なし。こんなに苦しいのにどうしてどこも悪くない、と言われるのだろうか。日に日に焦り、さらに病院探しに拍車がかかった。
 ある日、はっと気づく。
「これは、人に頼っちゃダメなんだ。自分で治りたいって思わなくちゃ」
 そう思ったとたん、その病は消えていったと言う。
 幼い頃から、
「本当はね、あんたの上にお姉ちゃんかお兄ちゃんがいたのよ。それなのにね」 
 と何度聞かされたことか。それもいつも暗い調子で言ってくる。
 頭の中で、年長のきょうだいと遊んでいる姿を想像して、
「そうだったら、楽しかったのにな」 
 と残念に思う。折にふれて言ってくるので、心臓神経症のことも私が少し大きくなると、その流れとして話していたのだろう。そんな話を、ふつう年端も行かない娘にするというのが、信じられない。
 さらにその「心臓神経症」とは、まさに今で言う「パニック障害」そのものではないか。突然に心臓がどきどきしてきて、このまま死んでしまうのではないかと慌てる、と母が言っていた。
 それなのに、である。
 意を決して、私のパニック障害の症状を伝えた時、母は‥‥。笑ったのである。
「私と同じだ―」
 と。
 それは、どういう意味を含んだ笑いなのか、今でも不明。
「同じ症状で苦しむなんて、やっぱり母娘ね」
 という安心感? 仲間意識。なんだか嬉しそうでもある。
 私にしてみれば、とんでもなく恥ずかしいことを思いきって口にしたのだ。嘲笑の類でなくても、笑っていることですでに傷つき無口になってしまったのを覚えている。
 そして始まった武勇伝。つまり、
「病は気から! 自分で治す! 私ができたんだから、あんたもできるはず!」
 どういう理論? よくわからないながらも、これが結論のようで、一切寄り添ってはくれなかった。
 母は、できたかもしれない。しかも、その流産は30歳位の時だと思われる。私より一回りも年を重ねてからのことではないか。病院にはいつも父がついてきてくれたらしいが、私の受診につきそうつもりはないらしい。
 それどころか、あちこち行っても結局神経のことなんだから、異常なしと言われるに決まってる、だから行く必要なし! ということのようだ。
 どういう展開? この突き放されかたによって得てしまうどうにもならない孤独は、思考能力さえ奪っていく。
 誰か一人、たった一人でいいから、味方が欲しかった。
 当時の私は、映画の「タイタニック」のラストシーン近くで豪華客船が沈没し、冷たいようノ海に身体が沈み、顔だけだして震えているレオナルド・ディカプリオみたいな状況。息をするのが、精一杯。
 生きたくても、もう心身ともに負けそうで。
 ディカプリオには励ましてくれるケイト・ウィンスレットがいたけれど、私には本当に誰もいなかった。

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