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パスタを食う時は手で掴め

割引あり

我々は、プリミティブなツールとして手を備えている。私たちは子供の頃、「手掴み食べ」で自らの手で食物を口に運ぶことを覚えた。幼少期にはそれが自然であり、何の違和感もなかった。

それにもかかわらず、必然性もないのに、大人になった我々は、なぜか手に異物を持っている。箸やフォークを使って物を食べることを覚えた我々は、これらの道具を使わなければ、「食事をしている」とは認められなくなってしまった。

この窮屈感から解放される時は限られている。パンやナンを食べる時、ポテトチップスをつまむ時、そしてきゅうりを齧る時だけだ。我々には、もっと食に係る制約から自由になってもいいはずである。それにもかかわらず、我々は相変わらず面倒な道具を手に持つのだ。


「清潔感」はニセモノである

現代社会は、衛生観念が飛躍的に発達した。発達し、そして発達しすぎた。清潔さを保つことが強調される中で、手で食べることが不衛生であるという固定観念は社会に広められた。手洗いは徹底され、消毒液は常用され、抗菌グッズは氾濫している。我々は日常生活の中で、さまざまな方法で「清潔」を追求することを強いられている。

しかし、これは本当に必要なことなのだろうか。どこまでが健康と衛生の観点から重要な対策で、どこからが過剰で行き過ぎたものなのか、我々ははっきりと理解していない。

確かに、手洗いは重要である。ウイルスや細菌による感染を防ぎ、体調を維持するためには、手を清潔に保つことが欠かせない。しかし、手で食べることがすぐに不衛生だというわけではない。手が汚れている場合でも、手を洗えば実際には十分に清潔である。

森ら(2006)の研究によると、流水のみで手を洗っても、手に残留する菌は1%にまで減少する。石鹸を使って手を洗った際には殊更安全だ。洗った手を使う分には不潔でないのに、手で食べることを不潔だと結びつけるのは、過剰な衛生観念の一環ではないだろうか。

この点で注目すべきは、「清潔感」と「清潔」の違いである。現代の社会では、見た目の「清潔感」が重視されることが多い。手が汚れていると見られることに対する不快感や、他人からの視線を気にするあまり、手で食べることが避けられている。

「清潔感」は、あくまで見た目や印象に過ぎない。一方で、真の「清潔」は、手をきちんと洗うことで実現される。手で食べる前に手を洗えば、それは十分に衛生的である。それにもかかわらず、見た目の「清潔感」が優先されるため、手で食べることが避けられている。「清潔さ」はもはや行き過ぎ、「清潔感」は「本当に清潔であるか」と乖離してしまったのだ。

このような「清潔感」第一主義は、本質的な清潔さを見失わせることがある。手で食べることを避ける理由が、単に見た目の問題であるならば、再考の余地があるのではないだろうか。

手洗いは日常的にすべきであるし、風呂には毎日入るべきであるし、服は毎日変えるべきであるし、手はハンカチで拭くべきだし、髪は整髪料で整えるべきであるし、眉毛は整えるべきであるし、髭はレーザーで落とすべきだーーこれらのような価値観は、現代の病理だ。ここに列挙したようなことが、本質的な「清潔」であるかどうか、再考する必要がある。

ここまで、清潔感と清潔が違うこと、そして手で食べないのは清潔感の問題であることを述べた。しかし興味深いのは、それでも時々我々は手で食べることを楽しんでいるという事実である。

冒頭で述べたように、パンやナンを食べる時、ポテチをつまむ時、きゅうりを齧る時など、手で食べることは、実は自然に行われている。これらの瞬間には、手で食べることが特別な楽しみをもたらしていることに気づく。手で食べることで、食材の温度や質感を直接感じるのだ。そして食事が、より感覚的で立体的な体験となるのだ。手で食べることは、楽しいのだ。その利点を再発見できれば、食事の様式の「正しさ」についても再考の余地があることに気がつくはずだ。

想像してみてほしい。ナプキンを喉元につけ、ナイフ、フォークに囲まれた白い皿に据えられた味噌きゅうりは、果たして美味しそうだろうか。曲がった人差し指の上を手のひらまで伝う、きゅうりから染み出した水分にこそ、我々は、茅葺き屋根の縁側で過ごした、存在しない記憶を想起できる。

手を汚すために手を洗う。この単純な行為が、食事をより豊かで楽しいものに変える鍵となるのだ。

Re:手食から始まる文化的生活

先ほど、手で食べることの利点を簡単に記入したと思うが、他にも、手を用いて食事をすることには、実はさまざまな利点がある。

第一に、先ほどの通り、手で食べることで、食材の温度や質感を直接感じることができる。ナンの温かさやきゅうりの冷たさ、パスタのもちもちとした食感やサラダのシャキシャキ感を手から感じることが出来れば、食事体験はさらに立体的になる。食材の本来の美味しさを、文字通り五感を通じて最大限に引き出すことができる。

また意外なことに、手で食べることは、実は食事のペースを遅くするらしい。この結果、満腹感をより早く感じることができ、過食を防ぐ効果があるのだ。その上、手で食べ物を触れることで唾液の分泌が促され、消化すらも促進する。胃腸への負担が軽減し、消化器官の健康が保たれるというのだ。

手で食べることは、食事をよりカジュアルでリラックスしたものにするともいえよう。手で物を食べれば、肩肘張らない食卓となる。これは家族や友人との間での自然なコミュニケーションを促すし、食事の場を楽しく温かいものにするのだ。

事実、我々はピクニックやホームパーティーのような場で、食べ物を手づかみすることは少なくない。そして、そのような場では参加者全員がリラックスし、楽しい時間を共有できている。逆に手づかみから始めることで、普通の食事もそのような場にできるのだ。

さらにいえば、手づかみで食べることで、水、洗剤、使い捨て食器の使用を減らし、環境への負荷すらも軽減する。環境保護の観点か、も手で食べることは持続可能な生活の一部として評価できる。

カトラリー、人類の敵

人々の関わりが社会の規則を組み立てる

食事マナーは社会的に作られるものである。いや、食事に限らずマナーならばあらゆるものがそうである。マナーとは、社会的な相互作用や合意を通じて形成されるものだ。

子供は家庭・学校・公共で教育されることで社会化されていく。人々は規範を学び、実践するようになる。規範は、その社会が出来上がるまでの人々の歩みのみならず、その社会で共有される言葉遣いや望まれる行動、ジェスチャーやイベントに合わせた品々によってお互いに影響を与え合った結果として、暗黙のうちに出来上がる。そうして出来上がった了解に、人々は共に意味を見出し、その意味を共有する(シンボリック相互作用主義)。

マナーは、広く見た時、あるいはネーション規模の歴史・文化的背景にのみ根ざしているわけではない。当たり前だが、個々人の生きた地域、時代、文脈、家庭、クラス、関わった先生、街のおじさんとの会話などさまざまなところから影響されて出来上がる。

個々人の有する食事マナーの差異もそのひとつでしかない。そこに意味と上下を見出すことで、食事マナーは社会階層を示す手段として機能することになる。

現代のグローバル化により、異なる文化の食事マナーが混ざり合うことが増え、新しい食事マナーが形成されることもある中で、こうした階級主義的な発想を生む余地を残すことは不合理であるし、前述のような過程からマナーは常に進化し続ける社会的な構造物であることが説明できる。

シンボリック相互作用主義は、社会全体の価値観や規範の形成を説明しているが、現実には広い社会は狭い社会同士のつながりによって形成されているために、相互に関わっているとはいえ一定の文化的な障壁と塊を形成する。

日本では箸の使い方が厳格に決められており、ヨーロッパではナイフとフォークの使い方が重視されるなど、食事マナーは文化によって大きく異なる。社会構築主義の理論により、これらのマナーが社会的相互作用を通じて形成されたものであることが理解できる。

バーガーとルックマンの「社会的現実の構築」でもこのような話は触れられている。私たちが日常的に当たり前と感じることは、過去の社会的なプロセスと慣習の結果であるのだ。カトラリーの使用もその一例であるが、そのような背景がない社会は意外と少なくない。現実に、インドやエチオピア、中東の多くの地域では、手で食べることが文化の一部として根付いている。

しかしミシェル・フーコーは意外な視点からこれを否定する。

フーコーは、社会の中での慣習や規範が単なる自然な結果ではなく、権力関係に基づいていることを強調する。フーコーは、権力が至る所に存在し、社会的な規範や慣習を通じて人々の行動や思考を制約する力であると論じた。例えば、カトラリーの使用は、上流階級の礼儀作法として広まり、それが社会全体に普及する過程で、特定の価値観が強化されてきた。

フーコーは、規範がどのようにして権力を通じて強制されるかを分析し、その過程で人々の行動や思考がどのように制約されるかを明らかにした。カトラリーの使用が「礼儀正しさ」として受け入れられるのも、社会的な規範の一例である。手で食べることが否定される背景には、権力構造があると言える。

Power is everywhere... because it comes from everywhere.

(Michel Foucault, Discipline and Punish)

「アハハ!手で食べていいのは子供までだよね!」

箸やカトラリーを使わないことを嫌悪するのは、明らかに偏見に基づいている。我々が日常的に使うこれらの道具は、特定の文化や歴史的背景によって形成されたものであり、世界中のすべての食事スタイルに普遍的に適用されるものではないのだ。現実に、少なくない文化では手で食べることが普通である。

有名な話だが、インドでは手で食べることが一般的だ。これは食事の一環として非常に重要視されている。手で食べることで、食材の質感や温度を感じながら食事を楽しむことができるのだ。インドに限らず、東南アジアや中東、アフリカでも広く手食文化は分布している。

そして、実は日本でも手食をすることはある。寿司やおにぎり、ハンバーガーなど、手で食べることが許容される食べ物が存在しているのだ。同じように、パスタを手で食べることもまた許容されていいはずなのだ。

また、手で食べることが不衛生であるという考えも、偏見に基づいている。実際には、手を清潔に保つことで、手で食べることは衛生的であり、むしろ道具を使うことで生じる衛生リスクを回避することができる。例えば、適切に洗浄されていないカトラリーを使用するよりも、清潔な手で食べる方が安全である場合もあることは失念してはならないだろう。

パスタを食う時は手で掴め

そもそもパスタはいつからあるのだろうか。パスタは古代から存在していた食品であり、イタリアでは中世に広く普及した。もともとパスタは非常にシンプルな料理であり、乾燥させて保存することで長期間にわたり利用できる食材として重宝されてきた。

パスタの歴史と手食の伝統

パスタが最初に記録されたのは、紀元前4世紀のエトルリア人とギリシャ人の料理に遡る。彼らは「ラガナ」と呼ばれる生地のシートを切り分けて料理していた​ 。中世イタリアにおいても、パスタは手で食べられていた。特に、ナポリでは貧しい人々が通りで手でパスタを食べる姿が一般的であった​ 。ナポリの通りで、手でパスタを食べる姿は、まるで現代のファーストフードを楽しむかのようであった。

カトラリーの登場とその背景

しかし、カトラリーが登場し、パスタを食べる方法が変わり始めたのは、貴族や王族の影響によるものである。16世紀のナポリ王国では、王侯貴族がパスタを手で食べるのは不適切とされ、フォークなどのカトラリーが使用されるようになった。この変化は、市民が権威に対して配慮し、上流階級の食事マナーを模倣した結果である。

フォークが初めて登場したのは11世紀のビザンティン帝国であり、これがイタリアに伝わり始めたのは14世紀頃と言われている。しかし、当初は非常に高価であり、主に貴族や王族によって使用されていた。一般市民がフォークを使うようになるのは、さらに数世紀を要した​。

権威主義からの解放

現代において、パスタをカトラリーで食べる習慣は依然として続いているが、これは本来の食べ方ではない。パスタはもともと手で食べるものであり、権威主義的な行動によってその伝統が変えられたに過ぎない。このような権威主義的な行動は、食文化の多様性と自由を損なうものであり、改められるべきである。

例えば、日本の箸の使い方やヨーロッパのナイフとフォークの使い方など、各文化における食事マナーは、社会的地位や権威を反映していることが多い。これらのマナーは、必ずしも実用的な理由によるものではなく、社会的な階層や権威を示す手段として機能している​。

パスタを手で食べるべき理由

結論として、パスタは手で食べなければならない。これは歴史的にも伝統的にも正当であり、現代の権威主義的な習慣を打破し、より自由で豊かな食文化を楽しむための第一歩である。次回、スパゲッティを手で食べる際には、ただの食事ではなく、歴史と伝統を体感しているのだと感じることができるだろう。

(蛇足)シンボリック相互作用主義について

相変わらず、書いていて蛇足だと思ったが消すにはもったいないものをここに置いている。蛇足だと分かった上で読んでほしい。


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