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ファイアストン ―リベリア内戦前後における企業活動とその後のリベリア―

 このnoteは前のノート「紛争地にてビジネスをするとはどういうことか」を読んでいただけると、より理解しやすいだろう。

 まずはリベリアという国について説明せねばなるまい。リベリアは、1847年に西アフリカで成立した国である。国名の由来はラテン語で「自由」を表す「Liber」からだ。この国はアメリカで黒人解放運動の流れを受けて開放された黒人を「故地に帰還させよう」という考えのもと、アメリカによって建国されている。

 黒人奴隷はアフリカ各地から連れてこられた人々とその子孫が多数であり、必ずしも西アフリカ出身ではない。これを日本に置き換えるならば、「日本人も韓国人も漢人もタイ人もビルマ人もみんな東アジア人だよね!じゃあベトナムに『東アジア人の国』を作ろう!」と言ったものである。しかもアメリカで生まれ育った人にとって東アジアという場所は故地ですらない。さらには元から住んでいた人々もいるが、彼らは皆建国政府によって奥地に追放されたかと思えば、新政府の「外来」黒人によって奴隷化されてしまった。解放奴隷は当然、それまで奴隷としての生活しか知らないのだから、国を回すためには奴隷が必要と考えるのだ。

 リベリアは2度の内戦を経験している。これを理解するために必要な対立軸は3つある。
・都市と農村
・アメリカ系リベリア人と原住リベリア人
・元来の原住リベリア人と別の原住リベリア人
これらは建国以来常に対立軸として示され続けてきた。ここではその表面にだけ簡単に触れておこう。

 ―リベリア内戦

 20世紀のリベリアは、少数のアメリカ系リベリア人エリートが、多数派である原住リベリア諸民族を支配する構図を有した、深刻な分裂社会であった。 特に、1944年から1971年までのウィリアム・タブマン(William Tubman)政権は、アメリカ系リベリア人の一派だけで政権を固めてしまい、これが原因で緊張が高まっていた時期である。

 アメリカ系リベリア人がリベリアを支配する社会において、プランテーション経営をベースとした経済体制を敷くことが国の統治モデルとなっていて、これは先程「国を回すためには奴隷が必要と考える」の延長線に存在する政策だ。先住民族は、文字通り「支配者」に隷属するような状態に置かれていた。さて、長期間リベリアを治めたタブマンは1971年に死亡し、ウィリアム・トルバート(William Richard Tolbert Jr.)が後継者として統治を継続した。

 1980年、アメリカ系リベリア人による支配の時代は突如終わりを告げた。サミュエル・ドー(Samuel Kanyon Doe)によるクーデターが発生したのである。この年の4月12日、29歳のサミュエル・ドーが、リベリア軍を率いてトルバートの公邸に侵入し、トルバートを拷問して殺害したのである。その様子はのちほどトルバートのWikipediaのページを見ていただきたい。非常に凄惨(せいさん)を極めたようだ。

 ドーは自らのクーデターを、リベリア大衆の尊厳を取り戻すために行った「平等のための一撃」と表現した。そして、政府内のアメリカ系リベリア人を検挙し、処刑したのである。しかも軍の規律はなっておらず、軍が家屋や企業から略奪を行い、モンロビアのホテルを訪れた外国人から「税金」を徴収するなど、混乱を極めていた。ファイアストンも例外ではなく、ファイアストンの有する建物にも侵入があったようだ。このクーデターは、これまでのリベリア政治、社会、経済に深く関わっていたファイアストンにとって、巨大な課題としてのしかかった。

 数日後、ドーが「略奪を見つけた兵士は射殺する」と公言したことで、軍の統制を再び取り戻した。状況はすぐに正常化し、2日後にはドーは旧政権の元メンバーを部分的に登用し、内閣を組織した。彼は、アメリカ系リベリア人による「オリガルヒ(新興財閥)」を追放した後、5年以内に選挙を行うと宣言した。選挙は行われはしたが、投票箱を海に捨てる、野党は一部しか参加を認めないなど不正が横行し、クーデターを引き起こす羽目になった。結局このクーデターは失敗した。当初、政府と経済界の間には緊張もあったようだが、経済担当大臣は「リベリアの経済システムを変えるつもりはない」と、特に海外の投資家に対して強く断言した。

 しかしこの政権も長くはもたず、10年後には再びクーデターが発生した。1989年12月24日、アメリカ系リベリア人のチャールズ・テイラー(Charles MacArthur Ghankay Taylor)が、リベリア愛国戦線(NPFL)を率いてシエラレオネから越境し、ドー政権を打倒したのである。ドー政権は反乱に対し残忍な対応をしていたようで、一般市民の反感を買うことになり、テイラーは世論の支持を集めた。しかし、ドーを処刑したことによって、反政府軍が蜂起し、リベリアの紛争は複雑なものへと発展した。いわゆる「第一次リベリア内戦」である。この紛争は何万人もの国内避難民を生み出した。

 1997年にテイラーが大統領に就任し、いったんは国内の安定を取り戻したものの、2000年には「復興と民主主義のためのリベリア人連合」(LURD)と「リベリア民主化運動」(MODEL)を中心とした武装勢力が登場し、リベリアの急速に不安定になった。ギニア南部を拠点とするLURDはリベリア北部を、MODELはリベリア南東部を中心に活動を開始した。

 さて、2003年の夏は、反乱軍にとって転機の年だ。6月4日、国連がかねてより支援していたシエラレオネの裁判所にて、テイラーが戦争犯罪で起訴され、国際的な逮捕状が出されたのである。起訴がこの時に行われたのはなぜか。それは、テイラーはガーナで開催された和平プロセス会議に出席していたからである。テイラーの交渉相手に「戦争犯罪人を相手にしているんだぞ」と知らせたかったのだ。2ヵ月後、テイラーによる6年間の権力は終わりを告げ、ナイジェリアへ亡命した。8月18日にはようやく和平協定が締結された。和平協定にはさまざまな課題があったが、1万5000人の平和維持軍の支援もあって、和平協定は何とか維持された。その2年後、新リベリアを象徴する選挙が行われた。現在に至るまで、リベリアはなんとか安定を享受している。

 ―リベリア内戦中の企業活動 -ファイアストン-

 ファイアストンは、日本に本社を置く有名なタイヤメーカーである「ブリヂストン」の子会社で、主にアメリカでの販売を請け負う会社だ。現在の社名はブリヂストン・アメリカズ・インクとなっている。ファイアストンはリベリアにおいて政府の管轄下で強い権力を有していた。

 1980年のクーデター以前、リベリアにおけるファイアストンの事業環境と基盤は安定しており、ファイアストンの事業が妨害されることはなかった。このことから、ファイアストンは読みを誤り、1980年代は通常通り事業を行うことを決定した。ファイアストンのプランテーションとその周辺街、現在では都市「ハーベル」として知られる場所には、約300平方キロメートル(75,000エーカー)の土地に9,000本のゴムの木が植えられていた。それだけでなく、当時も現在も同国最大のゴム生産者であった。世界のゴム価格は一時は高止まりしていたが、1982年になると需要が減少したことによる価格の下落が起こった。これにより、ファイアストンをはじめとするリベリアに進出しているゴム会社に打撃を与えた。不利な環境となったことで、競合他社はリベリアから撤退したもののファイアストンは依然として展開の継続を決めた。

 しかし、ドー政権以降、アメリカ系企業への批判は強まったことで、農園労働者はによる過酷な労働条件への批判は過激さを増して行った。不況も相まって、ファイアストンは5,000人もの従業員を解雇することとなった。この問題によりドー政権は労働大臣を解任し、国民のゴム会社全体に対する印象が悪化し、反感を増大させることになった。そしてファイアストンが撤退を考え始めたころ、ある病気が世界のゴム需要を大きく変えた。エイズの発生である。1980年代には、ラテックス製コンドームをはじめとするラテックス製品の販売が世界的に増加した。ゴム価格そのものは低いまま推移していたが、需要の増加はファイアストンを支えた。1988年、ブリヂストンはファイアストンを26億ドルで買収し、両社は統合された。コンドームの需要がファイアストンそしてブリヂストンを支えたのである。この時代、ファイアストンはアメリカで使用されるラテックス素材(チューイングガムやコンドームの原料)の40%を供給していた。またファイアストンにとって唯一の原料供給地でもあった。

 1990年6月6日、チャールズ・テイラーは、反政府組織を通じて、リベリア最大の財産であるゴムの支配を目指した。NPFLはファイアストン社のプランテーションを接収した。これにより農園は停止、管理者は宿舎に閉じ込められることになるが、6日後には農園の管理者が銃口を突きつけられたことにより、金と車を差し出すよう要求された。翌日、管理者ら18名はアメリカ大使館へと避難した。これ以降の7年間のファイアストンの詳細は不明となっているが、リベリア政府関係者の証言によれば、襲撃事件後、数カ月のうちにファイアストンはリベリア人の下請け業者などを使って農園の運営を再開したという。ニューヨーク・タイムズは1992年、25人のアメリカ人が農園で働いていたと報じたが、彼らが何をしていたのか、ファイアストン社がスタッフの再配置を正式に決定したのかは不明のままだ。

 1994年までこの農園が動いていたという情報は乏しいが、まったくないわけではない。当時現地にいたリベリア人は、ファイアストンは操業していたし、リベリア暫定政府とチャールズ・テイラー政権の宣言したNPFL政府の両方に納税していたと主張している。しかし、一部の報道では、この間ファイアストンのプランテーションは操業していないとも述べている。同社が操業再開の検討を始めたのは1994年末からだとされ、ファイアストン幹部は、操業再開までのあいだに2度同地を訪れ「治安が回復するまでは操業を再開しない」と結論づけたという。これは当然ながらリベリア政府関係者の情報と矛盾する。

 リベリアの元政治家幹部によると、ファイアストンは暫定政府には「税」を、反政府軍には「管理費」を支払うことで保護を買っていたという。しかし、反政府勢力や政府関係者に金銭を支払うことは、アメリカ本国の法律に違反し、表沙汰になれば顰蹙を買うことは明白である。

 ここからはテイラー政権が成立し、治安の安定化により操業の再開が確定して以降の話である。ファイアストン社は操業を再開し、元従業員を中心に正式に2,000人を雇用した。1997年7月には、最盛期の3分の1程度の生産量まで事業を拡大。しかしファイアストン社がかかえていた重労働・悪条件・低賃金は解決されていなかった。そのため、従業員はより良い労働条件、より良い賃金、そして再定住手当を求めて抗議を行った。

 再開までの7年間、工場は放置され、さらには一部が紛争により破壊されていた。明らかに修復が必要であるが、ファイアストンはそのための投資を怠った。さらに、元従業員は工場再開を聞きつけ、再雇用を求めた。ファイアストンは、リベリアで戦後すぐに仕事を再開した唯一の大企業であり、同国で数少ない大規模な就業機会を提供していたからこそ、同国中の期待を一身に背負うことになってしまった。

 さて、ファイアストンの課題は他にもある。もともとファイアストンが同国で操業を継続していた理由はリベリア経済・社会等に深く関わっていたからこそ、税制において優遇されていたことも理由のひとつだ。しかし新政権の成立以降その優遇は消滅していた。その再交渉をはじめなければ、大幅な利益を見込むことはできなかった。ファイアストンはこの交渉に決着がつくまでは生産能力の50%程度で事業を継続、最終的にテイラー政権は大幅に譲歩し、寛大な税制を認め、ファイアストンはさらなる投資を行った。

 ここからは2000年代の話となる。この時代、リベリアでは、LURDやMODELといった反政府勢力が出現したが、ファイアストンの事業が大きく毀損(きそん)された様子はない。この反政府勢力にそもそも経済活動を支配する能力または意図があったのかが疑問となる。また、ファイアストンも1999年からあらたな政情不安を感じ取っていたためか、ファイアストンの農園には常駐の防衛部隊が存在した。地理的な要因としては、ハーベルはモンロビア近郊に存在し、MODELは、リベリア南部で生まれた組織である。確かに活動範囲にはモンロビアが含まれるが、両者に同時に潜入することはとても困難であった。

 さて、このハーベルであるが、民間人の避難所としても機能していた。2002年には、内戦による20万人の避難民のうち、約5万人がハーベルに避難をした。しかも。LURDもMODELも村があれば略奪を行い、村人の手足を切り捨てて労働力としても使い物にならないようにしていたため、反乱軍がこの地域に向かっているという情報がひとたび流れれば、ファイアストンに努めていた親戚を頼って多くのリベリア人が農園へと移り住んできたのだ。また、ハーベルは食料も数年分確保していた。港は反乱軍が占拠していたため、不足していた穀類を従業員に無償で提供した。この時期の農園は1980年代の従業員数を超え、6,000人も雇用していた。この時期に事業を継続していた企業は鉱山や農園ばかりであり、そしてこれらによる納税が政府の対反乱軍作戦の資金源となっていた。そしてリベリアの失業率が70%を超え、さらには紛争を原因に国際投資すら激減していたために経済がとても落ち込んでいた。

 2003年に戦闘は激増し、ファイアストンが出荷に利用していた港も開港と閉港を繰り返した。必要に応じてファイアストン社は閉鎖勢力へ圧力をかけることによって、輸出と同時に社員および避難民向けに提供する食料等を購入することに成功した。同年に紛争は終了し、国連軍が同国へ展開した。ファイアストンおよびブリヂストンは今もなお人権活動家から厳しい批判を受け続けているが、ひとまず危機を乗り越えたと言えよう。

 ―どのように評価がなされるか

 さて、リベリア人においてファイアストンは、農園の中ではもちろんその外―都市・ハーベルにおいても教育、医療、司法、交通整備などの政府が行うようなサービスを提供していた。ファイアストンはもはや多くのリベリア人にとって単なる雇用主ではなかったことは明白だ。ファイアストンにおける雇用条件似不満を持っていた人も多いだろう。しかしファイアストンは「雇用と自己啓発のための最良の選択肢の一つである」と結論づけている。これはすなわち、ファイアストンの活動がリベリアにとって利益があり、同時にリベリアの立ち代わりで入れ替わり続けた支配者達による保護がファイアストンにとっても利益であったことを示唆している。

 結果的にかもしれないが、リベリア人・リベリア政府・ファイアストン社の三者が相互に利益のある関係を維持し続けたことが、紛争時に同地を存続し続けることのできた理由のひとつだろう。都市・ハーベルは当時以前からリベリア経済の中心地のひとつであり、そこに関わる誰もがハーベルの破壊りメリットを感じず、また動機もなかった。ファイアストンという存在はリベリア経済・社会の中でいびつに巨大化していたために、深い問題も多く生み出していたが、つまりはそれほどまでにリベリアという国において巨大な影響力を有していたということである。政府も敵対勢力もまた、ファイアストンの事業の停止は好ましくないことは理解していた。誰にとっても同地ならびに同社は貴重な収入源である。誰もがそう考えていたことは、現地のゴムの木が意図的にはひとつも伐採されていなかったことからも明らかである。また、リベリアすべての勢力に対して均等に「税」と「管理費」を支払い、民間には保護領域を提供していたことにより、いずれの勢力にも肩入れはしていなかったこともまたハーベルを最後まで守り切れた理由であることは間違いない。

 さて、内戦期におけるファイアストンの対応に筆者は肯定的であるが、否定的な立場も紹介しよう。

 ファイアストンは、1926年からリベリアにおいてに非常に有利な条件で100万エーカー(約4050平方キロメートル)の土地を99年間リースした。2015年現在、今もブリヂストンとしてゴム原料をリベリアから国外へと輸出している。ファイアストンを始めとするアメリカ系多国籍企業のリベリアにおける歴史は長く、リベリアという国家の形成に重要な役割を果たしてきたことは疑いようもない。

 その契約の中で、リベリアの政権は天然資源の開発のために国民を犠牲にして土地を接収するようなことはよくあることであった。リベリアの歴史を振り返ると、天然資源や農地開発のほとんどは外資系企業によっておこなわれ、それらを加工する産業はほとんど開発されることはなかった。むしろ、それこそがリベリアの発展が遅れると同時に不安定になり、紛争の原因になったと考える向きもある。リベリアにおける紛争は、政治的、社会的、経済的権利のが広く侵害されたことによってあおられ、組織的に不平等がもたらされ、強制的な家屋の破壊は強制移住、さらには生活手段の喪失などなどにより生活の糧を失ったことが大きく評価されることもある。これらを引き起こした多数の外国企業とともにファイアストンも批判されるという流れだ。

 リベリアの真実および和解委員会によると、「経済主体と経済活動は、リベリアの武力紛争を助長し、そこから利益を得る上で重要な役割を果たした」 とされている。例えば、木材会社や鉱山会社は、有利な天然資源の利権を獲得し、組織的で巨大な脱税を行うことにより、紛争から利益を得ていた。中には、紛争中の派閥に対して武器の売買支援を行うだけでなく、時には直接兵器を卸すこともあったそうだ。それによって、地域コミュニティの構成員を半ば強制的に外へと追いやった。その際に、現地でも略奪を繰り返していたような民兵と連携した治安要員を採用していた。これらは、その土地の民族間の緊張をあおるだけでなく、将来に至るまでリベリアという地に禍根を残すことになる。そしてこれはリベリア内戦の遠因だ。ファイアストンもここに多少なりとも関わっていたことは例外ではない。

 さらに同委員会が提出した報告書においては、リベリア紛争の最中に経済犯罪に関与した人物の名前が挙げられている。世界的にも非難されているオランダ人実業家であるGuus van Kouwenhoven(彼はリベリアにおいて武器の密売だけでなく人身売買にまで関与していた)が経営するOriental Trading Companyとともにゴム会社のFirestoneの名前を挙げている。第一次内戦中、反乱軍政府に「管理費」または「税」を支払うことで、その見返りに反乱軍からゴム農園の安全を確保しようとしていたことが強く非難されている。

 ―リベリア内戦以降の同国の経済と社会

 2003年に第二次リベリア内戦が終結して以来、リベリア政府や援助国によって民間企業の進出と投資が促されてきた。エボラ出血熱の発生によりしばらくは停滞していたリベリア経済だが、2015年5月にエボラ出血熱終息宣言が出されると、世界銀行は復興基金を設立し、国際金融公社(IFC:世界銀行の民間融資部門)が約500億円を拠出して貿易や投資を可能にした。

 現代のリベリアにおいても、今までと同じように、多くの外国企業が同国において重要な役割を果たしている。紛争後の復興、そしてリベリア国家の変革のために野心のある大胆な計画を策定し、外国の民間企業からの投資を呼び込むことに重点を置いている。

 同国の開発計画「リベリア・ビジョン2030」では、三本の柱を掲げている。経済発展、天然資源開発、民間の関与だ。これらは同国の未来を作るために必要なものとみなされており、特に民間の関与は重要視されている。コンセッション方式を導入することによる官民一体の事業による収入は、国や地方の基金を通じて、インフラ整備、教育・保険整備、水道整備などに全額が充てられることになっている。これらは公共財やコミュニティ開発プロジェクトとして一体のものとみなされている。これまでに1兆7000億円以上の外国からの直接投資の誘致を達成し、現在のリベリアの国土の約半分が鉱業、ゴム、アブラヤシ、林業のコンセッション事業に割り当てられている。これらは同国において経済発展に強く寄与し、紛争の傷跡の残るリベリアにおいてその復興の重要な柱になることは同国も信じるところであるが、その経済活動を通して人権の著しい侵害となっていることも少なくないと見られている。

 いくつかの国では、現地経済の活性化と同時に自国企業のビジネスチャンスをつくりだすために、リベリアへの貿易ミッション(主に現地の一次産業従事者や企業とのB2Bミーティング)を開催した。例えば、オランダは2015年7月上旬に、エボラ出血熱の被災国であるリベリア、シエラレオネ、ギニアを対象に貿易ミッションを実施しており、インフラ・物流分野では港湾、農業分野ではパーム油・ゴム部門、鉱業分野では鉄鉱石・金・ダイヤモンド部門において「潜在的な機会を活用する機会」を企業にしめした。これらの活動は、オランダ外国貿易開発庁が推進している。

 さて、ここまでの話を聞いてもらえれば「リベリアは未来への希望があるいい国かもしれない」という印象を持っていただけると思うが、実態はそうではない。

 リベリアを始めとする紛争の影響を受けた国では、それ以前にもまして深刻な人権侵害が発生していることはさまざまな追跡調査によって明らかになっている。このような地域では法の支配が弱く、そのために広くは及ばないことも多い。そして司法制度が機能していないため、企業等によって行われる不正行為の被害者が助けと正義を求めて、企業の責任を追及することすらも難しい現状がある。そのため、政府が被害者を救済しようと思ってもそのためにできることがほとんどなにもないという状況となる。リベリアでは、公務員に実務経験が少なく、特に司法の場においては管理も行き届かず、能力も足りず、そしてさらには汚職まで発生しているために、司法へアクセスができない状況が続いている。リベリアでは難しいからと、その企業の本社が置かれる国まで出向いて訴訟を起こそうにも、資金力にも情報量にも限界がある。総じて司法による介入を求めることは非常に困難だ。これはそのまま、リベリアという国家の統治能力への疑問を投げかけることになる(ガバナンス・ギャップ)。

 企業活動にが原因で起こる紛争にはいくつかの区分が存在する。社会的・経済的な問題が発端である企業とコミュニティとの紛争(土地権、再定住問題、生計手段の喪失、環境汚染、文化遺産の損傷など)、利益分配の不公平の問題が発端であるコミュニティ同士の紛争(もともとあった土地紛争、利害関係、雇用機会や地域開発の分配、利益と影響の負担の分配など)、企業と国家の目的と利害が一致した結果として生じるコミュニティと国家機関の紛争(国家による過剰な企業保護、当局の腐敗、コンセッション契約の監視能力や政治的意志の不足)などがある。現在のリベリアは平和を享受しているといえる。しかし失業率は相変わらず高いままであり、これらの紛争リスクも依然としてくすぶっている。これらがいつ紛争の引き金となるかは未だわからない。

 さきほど、国土の約半分がコンセッション契約に割り当てられていると述べたが、ではその土地に住んでいた住民はどうなったのか?企業活動に批判的な姿勢を見せた市民団体・地域団体・住民団体は、ただそれだけでリベリア政府に脅迫されている。これら団体はもともと支払い能力が低いため、リベリア政府も重要な税収源とみなしておらず、そこから無理やりにでも開発をすすめることで税収増と市民幸福の担保がなされていると信じている。その判断の中には賄賂と腐敗のプロセスも含まれているだろう。それらによって強制排除された市民たちはどこへ消えたのか?

 紛争後の復興政策は、その大部分において国外からの直接投資に重点を置いている。そのため、民間企業の活動に対する批判は政府にとって頭痛の種となってしまっている。この投資が鈍ればリベリア経済の復興も、ちょうどいま得ている利益も消滅することになるからだ。このような投資によって隅に追いやられた住民の意見を代表する団体は、ただそれだけで「反開発」的な組織として見られ、リベリア政府はまともに取り合わなくなる。

 アフリカ初の女性大統領としても知られるサーリーフ元大統領は、リベリア議会の中で「NGOは国家主権に対して挑戦する姿勢を示している」と発言し、国際的に大きな批判を受けた。また、パーム油を取り扱う会社であるゴールデン・ベロリーム社に対して巻き起こった抗議活動に対しては、「一部の人々がこの国の利益を損ない、投資家を逃げ出させ、開発目標を達成するための出資を遠ざけることは許されない」と強気に述べている。国家と地域社会の安全と安心が損なわれる結果をもたらし、労働環境を余計に悪化させる原因の一助になっている。リベリア政府は、こういった活動を展開した人全体に対して、さまざまな犯罪を課している。不法侵入、窃盗、武装強盗、司法妨害、不穏行動、威嚇行為、殺人未遂、経済的破壊行為などだ。地域コミュニティを基盤とする人は、こういった汚名を着せられて司法の介入することなしに投獄されている。2014年には、ケープマウント郡を始めとする7つの郡(日本の県に相当)にて、地域の代表者が逮捕、投獄された。外国企業の運営による利益を地域社会にもたらしていないと抗議をした地元住民は警察によって暴力的に逮捕されている。その中では死者まで発生している。またある郡では慣習的にその民族の土地であると認められた地域をEquatorial Palm Oil社が無断で測量を行ったことに地元住民が逮捕された。こういったことは、リベリア各地で発生している。

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