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関西空港開港時の想い出(開港30周年で思うこと)

関西空港は、1994年9月4日に開港して今年で30年が経ちました。私は伊丹空港時代からこれまでの間、ずっと関わってきたので、少し振り返ってみたいと思います。

私は入社後、本社の経理・総務・輸入部門を経て、伊丹空港に配属され、当時の取締役と店長のもとで免税店の店舗運営に当たってきました。この二人には本当にいろいろと教えてもらいました。

関西空港の開港が近くなってくると、一人で空港まで渡る日々でした。まだ全然整備されておらず、連絡橋も出来ていなかったので、対岸の井原の里という漁港から小舟に揺られて空港島に渡りました。

小舟に乗って意気揚々と

ポートターミナルに着くと、バスに乗り換えます。
しかし道路は未舗装で、全く整備されていない凸凹道なので、殺人的に揺れます。手すりをしっかり持っていないと、そこら中に頭をぶつけてしまいます。
「これでよく運行しているな」と思いながら必死に耐えているので、ターミナルビルに着く頃には、へとへとに疲れます。

バスもギシギシときしみます

ターミナルビルに着いてからも大変です。
工事中なので、当然のことながら案内表示なんてありません。右も左もわからないまま、照明のない薄暗い館内を簡単な図面を見ながら、それこそ“勘”を頼りに進んでいくのです。

もちろんレストランやコンビニなんかはありません。
朝から出かけて晩まで飲まず食わずの毎日です。今なら「ダイエットにちょうどいいや」と思うのでしょうが、まだ30代の私には10キロもやせるとげっそりしてきます。
スマホもガラケーもない時代なのでロクに写真も撮ることも出来ず、お見せできないのが残念です。

写真はイメージです

最初は「こんなところに本当にお店ができるのか」と思っていましたが、工事業者と打ち合わせを重ねながら進捗状況を確認していくうちに、段々と形が見えてきます。
最初の頃の不安な気持ちが、そのうちに期待に変わっていったことを覚えています。

連絡橋が完成し、初めて電車が開通し、一人でその電車に乗って関空に向かった時のことは忘れられません。
運よく快晴だったので、左右に広がる広々とした大阪湾の海が、キラキラと輝き、その左前方に空港の滑走路やターミナルビルが見えてきます。3750m、5分ほどの間ですが、あっという間で、「もっと見ていたい」というような感動的な瞬間でした。
誰もいない車内で、思わず立ち上がって両手を広げていました。

海の上を走る連絡橋

開港に当たり、一番大変だったのが伊丹空港からの引っ越しでした。
前日まで伊丹で営業しておきながら、翌朝からは関空での営業開始です。在庫を移し、陳列し、レジシステムを設置し、テストをし、スタッフの習熟訓練を順番に行い、立入証申請手順を教え・・・・やらなければいけないことは山積みでした。幸い伊丹の後処理は別のスタッフに任せることが出来たので、私は関空の立ち上げに専念することが出来ました。開港後しばらくして伊丹空港が大雨に見舞われたので、彼らからは大変だったと聞いています。

空港内の様々な特殊車両も、最終便の離陸後に一晩で移動しなければいけません。
伊丹空港の離発着の門限は夜の9時だったので、そこから翌朝の関空の始発便までの間に、すべての車両を約70kmの距離の移動を完了させなければいけません。それこそ時間との勝負です。これらの車両は公道を走る設計ではないので、スピードが出ません。警察車両に先導され、車列を組んで大移動したのです。みんな大変な思いをして成し遂げたのです。

空港の特殊車両の移動は大変

開港してからは、別の大変さが待っていました。売上がガタ落ちしたのです。
関空の構造上南北に長くなっているので、出国審査場を南北に2カ所配置し、そこにそれぞれに伊丹から移った免税店と直営店を置いたのです。南と北は300m以上離れているため、北側から出国される方は、お得意様でもなかなか南側には来ていただけません。伊丹のキャパシティが二分されたのですから、売上が半分以下に減るのは当然と言えば当然のことだったのです。

南北に長かった国際線エリア

そこに開港の翌年起こった阪神淡路大震災が直撃しました。
幸い店舗設備や商品に被害はなかったのですが、阪神間の経済に大きなダメージを与え、もろにその影響を受けてしまいました。このころはまだ、外国人旅行者の数は少なかったのでなおさらです。

何もかもが壊されました

最近では、2018年に台風21号に襲われました。
滑走路が高潮で覆い尽くされ、ターミナルビルも浸水して、地下駐車場に停めてあった私の車も水没してしまうという大惨事が起こったのです。
おまけに連絡橋には、強風で流されたタンカーが衝突して使えなくなり、文字通りの孤島になってしまったのです。
家にいる家族のことも心配で、携帯で連絡を取っていたのですが、そのバッテリーもすぐになくなってしまいます。
ターミナルビルは停電だったので、エアコンもありません。汗だくのまま数日缶詰を余儀なくされたので、あせもができてしまいました。
幸い免税店前にはほとんど人がいなかったので、長椅子を使って寝ることができ、床の上で一夜を明かすようなことはありませんでした。
台風当日は空港島に缶詰めにされましたが、翌日になって連絡橋の反対車線を双方向行き来できるようにしてバスが動き始めました。しかしここからが大変です。約8000人の方が一斉にバス乗り場に押し寄せたのです。バスに乗るまでに10時間、乗ってからも対岸に着くまでに2時間、終電ギリギリでした。もうへとへとで精根使い果たした感じでした。

なぜそんなところにいるの

ここで、ちょっと気になる数字をお見せします。

  • 関西空港開港日 1994年9月4日

  • 台風21号被害 2018年9月4日

  • ロサンゼルス大地震 1994年1月17日

  • 阪神淡路大震災 1995年1月17日

これらが何を意味するのか、私にはわかりませんが、ただの偶然にしては気になります。都市伝説のように人為的な何かが働いているのでしょうか。皆さんはどう感じますか?

このように、思い出と言えば大変だった事しか浮かんできません。なにか楽しかったことはなかったか、必死に思い出してみて浮かんだことが一つありました。

芸能人の方もよく出国されるので、勤務中目にすることも多いのですが、お買い物までされる方は意外と少ないのです。その中で私の記憶に鮮明に残っているのが、あの美川憲一さんです。

強烈な印象だった

当時私も化粧品の接客販売を手伝っていたので、その時もエスティローダーのカウンター近くにいました。そこへ美川さんが入って来られて私と鉢合わせしたのです。口紅を探しに来られたようで、「おススメの色はどれなの」と言われ、いろいろと一生懸命に私の手にテスターを付けて見ていただき、お好みの色はどれなのかと探っていました。その間ずっと美川さんは私のことを実に不思議そうにじっと眺めて(見つめて?)いました。手を握っていたかもしれません。ちゃんと口紅の色を見てくれていたのかはわかりませんが、とにかく1本買っていただきホッとしたのを覚えています。当時はまだまだ男性が化粧品のカウンターでしかも口紅の色を自分の手に付けて紹介するなんて珍しかったのでしょうね。嬉しいような、どうしたらいいのかわからないといった感じでした。美川さんはテレビで拝見する感じそのままでした。

そのままだったと言う事でもう一つ思い出したのが吉本新喜劇の方々です。その時はチャーリー浜さんや、池乃めだかさん達数名の方が入店され、お買い物をされたのですが、接客からお会計までの間中ずっと、ギャグ連発で笑わせてくれていました。店内のスタッフもお客様もみんな大うけで、さすがプロフェッショナルといった方々でした。

大爆笑の吉本新喜劇が店にやってきた
昔の方はみんな個性的

今となってはどれも懐かしい想い出ばかりです。今回のリノベーションで辺りの様子が様変わりして、それらの想い出も一緒に消えてなくなってしまわないか、ちょっと心配になってきます。

今日はこの辺で終わりにしましょう。お読みいただきありがとうございました。
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