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社会の変化と言語の変化―多様性と文法

神奈川大学外国語学部英語英文学科です。学科の先生によるコラムマガジン「Professors’ Showcase」。今回は、理論言語学がご専門の佐藤裕美先生による「社会の変化と言語の変化―多様性と文法」です!


 Merriam-Webster Dictionaryが2019年のWord of the Yearとして選んだ語はtheyでした。

(merriam-webster.comより)

theyがこのように注目を集めた理由は、近年のthey(格変化形を含む)の用法の変化にあります。例えば、次の文でtheirがeveryoneを先行詞とする代名詞して用いられることは、規範文法では誤りとされ、(2)が正用法とされてきました。

(1) Everyone hates their ID photo.

(2) Everyone hates his ID photo.

 しかしながら、例(1)のようにthey/them/theirが単数を表す場合でも使われることが最近ますます増えています。このようなtheyの用法はsingular ‘they’と呼ばれています。では、なぜこのようにtheyが単数の意味でも使われる変化が生じているのでしょう。それは、ジェンダーニュートラル(gender-neutral)な三人称単数代名詞が英語には欠けているためです。ただ、(2)のhisは、Generic ‘he’ (総称的he)と呼ばれ、性別に関わらず人々一般を表す用法であるとされます。しかし、人間一般がなぜ男性を表す代名詞で表されるのかということが問題になります。そこで、(3)のように男性代名詞、女性代名詞の両方を列記することも2010年代ごろまではある程度見られました。

 (3) Everyone hates his or her ID photo. / Everyone hates her or his ID photo.

女性・男性のどちらが先に来るかの問題を避けるために、順番を交互に変えながら使う人もあったようですが、堅苦しさや冗漫さ、不自然のためにあまり好まれる解決策ではありませんでした。さらに、男性/女性の二項的(binary)な区別に限定され、それが明示されることから、その区別に当てはまらないと感じる、あるいは、明示したくないと感じる人を含め全ての人を含んだ表現でないと感じられることが問題です。

 gender-neutralでnon-binaryな三人称単数代名詞が欠けていることの解決策として、thon、hir、zeなどの新たな代名詞も提案されてきました[1]。近年は、自分を正しく表す代名詞を選択し、自分についてそれが用いられる権利を誰もが有する考えに理解が広がり、E-mailの署名欄に自分の代名詞の選択を明示することもよくありますが、選択されるのはsheとheには限られず、新たに提案されたgender-neutralな代名詞の場合も多く見られます。米国で最初に学生自身が選択する代名詞について登録できる制度を設けた大学の1つであるマサチューセッツ大学アマースト校(UMass Amherst)が代名詞のオプションとしている中に単数の意味で用いられるtheyも含まれています。

https://www.umass.edu/stonewall/sites/default/files/pronouns_faculty_2022_0.pdf

このようにtheyは、gender-neutral、non-binaryな三人称単数代名詞としての認知が広がり、新聞、出版社の多くでもその意義が認識され受け入れられてきています。
 みなさんの中には、英文法の授業で複数を表す代名詞として習ったtheyを単数の意味で使うことが少し腑に落ちないと思う人もいるかもしれません。しかし、複数形が単数形に置き換わり、単・複数が同形式で表すようになるのは、実は、二人称代名詞youが経験した変化と類似しています。youは元々、複数を表し、2人称単数代名詞は、thouでした。中英語期に丁寧さや敬意を表す用法としてyouが単数で用いられ始め、17世紀ごろにはyouがそれ以外の場合もthouに置き換わり、主語が単数・複数のいずれの場合でもYou are most welcome. などのようになるのです。youに起こった変化を考えると、theyに起こっている変化はことばの乱れなどとして一蹴されるものではないはずです。ことばには私たちが生きる社会を反映している側面もあり、社会が変化すれば、ことばも変化するのです。
 ジェンダーが問題になるのは、代名詞に限りません。英語では、職業や社会的役割が男性に独占されていた状況が変化するに従い、chairman、policeman、Congressmen、spokesmanなど男性ステレオタイプ的な語は、chairperson、police officer、Members of Congress、spokespersonのようにgender-neutralな語に置き換えられています。日本語でも、かつては新聞などで、男性の名前の後には「氏」、女性の場合は「女史」が用いられていたのが「氏」に統一され、「看護婦」ではなく「看護師」が使われるようになったことなどが挙げられます。
 職業や立場を表す際にgender-neutral、non-binaryな表現が採用されるこのような動きだけではなく、社会における自分の存在を明示するためにあえてジェンダーを表したいという考えもあります。ここではイタリア語で職業を表す語を例にします。イタリア語では、すべての名詞が男性・女性のいずれかの文法的性に属し、その名詞を修飾する形容詞や冠詞も名詞の文法的性に一致した形式でなければなりません。自然性がない物質や概念を表す多くの名詞についてこれは文法規則の問題でしかありませんが、自然性をもつ生物、特に人間については、職業や地位を表す語などについて、自然性と文法的性の不一致について議論になります。イタリア語では男性形・女性形の交替がある場合、nonno「祖父」nonna「祖母」のように、語尾の-o/-aの違いで表されるものが多くあります。しかし、例えば、「弁護士」は、性別に関わらず男性名詞のavvocatoが用いられてきました。女性形のavvocataも語彙としてありますが、「おしゃべりな女性」といった諧謔的な意味で用いられたこともあり、職業を表す際はavvocatoが適切とされていました。他にもmaestro-maestra、segretario-segretaria、professore-professoressaの男性形-女性形のペアにおいて、女性形の方が男性形の語よりも重要性や地位が低いとされる立場を表すことがあります。これらの職業が男性によって独占されていた男性優位の状況、特定の職業が男性によって担われるべきという偏見がこのような言語使用には反映されているとして、女性形を男性形と同等に使用することによって、女性が男性と社会的に平等であることを明示的にしようという主張もしばしば聞かれます。    
 地位を表す場合と、その地位に就いている人物を表す場合のいずれの意味でも使われる語についてもまた複雑です。イタリア語のpresidente という語は「首相」「会長」「学長」などを表す語で、男性名詞です。イタリアで女性として初の首相に就任したGeorgia Meloni氏に言及する際、本人の性別に合わせて女性形の定冠詞をつけて、la presidenteとするべきか、それともpresidenteの文法的性に合わせてil presidenteと呼ぶべきなのか注目を集めました。Meloni氏自身は男性名詞としてil presidenteを公式に使用すると発表しています。Meloni氏のことであっても、il presidenteと男性名詞として使うことで、それを修飾する形容詞も男性形に一致した形となり、日本語や英語からと比べると複雑に感じます。一方で、他の組織の女性の presidenteがla presidenteと女性名詞として使う選択をしている場合もあり、考え方は様々です。
 しかし、上で見たイタリア語の例は全て女性形と男性形のbinaryな区別に限ったものでした。non-binaryを含めるとまたさらに難しくなります。また、イタリア語では、名詞、冠詞、形容詞の複数形も男性形・女性形に変化が分かれ、gender-neutralではなく、男女が混じった複数の場合、男性形複数が用いられます。フィレンツェ大学の社会言語学者Vera Gheno氏は、la avvocata/il avvocatoに加え、non-binaryな形式としてlǝ avvocatǝ のようにǝ (schwa)を用いたものを提案しています。「全て」の意を表す語は、tutti(男性複数)tutte(女性複数)に加え、gender-neutralな形としてtuttǝが提案されています。発音でも区別され、話し言葉においてもこの形式が認知されるようになるか興味深いところです。ǝ ではなく、tutt*のように* (asterisk)を用いた形式を提案する人もいます。 こちらについては発音がどうなるのか、話し言葉での定着にさらに高いハードルがありそうです。
 このように、イタリア語のように文法的性が明示的な言語では、人間の豊かな多様性を表現することと文法上の制約の折り合いをつけることは、現在の英語にはない難しさがありますが、自分を最もよく表すのが、例えば、la avvocata、il avvocata、lǝ avvocatǝ、あるいは別の形式なのかを選択することは、英語において自分を表す代名詞を選択することと同じ考え方によるのではないでしょうか。

(Dennis Baron氏、Vera Gheno氏の関連著作の一部)

 言語は私たちの思考を表すものであり、私たちが現実をどのように捉えているかを映しているものでもあります。全ての人がその存在を尊重され、正しく表現されていると感じられる社会で、英語やイタリア語などがどのような変化を遂げているか期待をもって観察を続けたいと思います。
 
[1] イリノイ大学のDennis Baron名誉教授の2021年の著書What’s Your Pronoun?によると、これまでに200以上もの代名詞がこの目的のために提案されていますが、一般に広く認識されないままのものも多くあります。 

記:佐藤裕美


佐藤裕美先生は2023年度神奈川大学外国語学部学部長です。先生からの「学部長メッセージ」はこちら!

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