見出し画像

銀行の個人営業(リテール)を辞めた話⑤

4年目の10月。
銀行に入って3年半が経過した時、初めての異動を経験する。

同期達はすでに丸3年、つまり4年目の4月に全員異動しており、私だけ半年遅れた。
気にしていないと言えば嘘になるが、とうとう「あいつが関東に来る」みたいな話が同期内で出たのは少し嬉しかった。

ーーー

猛者達ひしめく大型支店で異動

前述した支店長から、「〇〇支店はまずお客様との取引額も大きくなる。優秀な人も多い。その中でお前らしく頑張れば大丈夫」と送り出された。

前の支店の2倍以上のセールススタッフ、3倍以上の予算を持つその支店は、関東でも有数の“猛者達”が集まる支店だった。
関西の支店では同期もいなく一人だったが、その支店では他に二人、前後の先輩後輩についても6人ほどいる若手の所帯。そこに数々の支店で名を馳せ、たどり着いたシニアスタッフ。

第一印象は、「目がギラついてる人達」という、支店の雰囲気だった。
そんな中でも、当の私も多少にギラつきはあったんだろう。

後に打ち解ける仲間たちは、当初の私を少し「異端児」扱いをしていた。

それだけで無く、引き継ぎについても当時からすると手厚いものがあった。当時26歳の私は、33歳くらいのシニアスタッフの後任引き継ぎをもらったのだ。

前の支店では考えられないくらいの預かり資産で、リスク商品の保有金額が平気で1億円を超えているお客様ばかりだ。

当然ながら、必要スキルや相応の対応、高い予算を求められた。
当時の私は、若手ながらやりがいのあるお客様への対応と予算にやる気を向上させていた。

しかし、そんな猛者達のアクセルを抑える強烈な「ブレーキ」がいた。

その支店には全国的にハラスメントで有名なコンプライアンス業務責任者が居座っていた。

普段はニコニコ当たり障り無いが、一度スイッチが入ると、「何してんだ、オメェわよぉ。」「わかってんのか、こら」「知ら無ぇぞ。そんなこと伝えたつもりは無ぇからな」など執務スペースにも関わらずスタッフに暴言を吐きまくる。
決まってそれは「若手スタッフ」に対して。

少し上の先輩や、うまく関係を築いているスタッフなどには一切そういった言動をしない。

当然、若手は萎縮をして、うまく「アクセル」が踏めなかったり、そもそも「アクセル」を踏んだところで厳しい指導に見舞われて時間を割かれるのだ。
(当時の営業責任者である支店長はこのあたりに無関心な人だった。)

目を付けられたらとことんで、
セールス風景の動画を全てチェックし、本部へ報告することや、全て逐語を書き出して執拗に責め立てる。

ある時、私は彼に“捕まって”しまった。
異動して、まだ2ヶ月くらいの頃だった。

ある商品の販売履歴や、モニタリング動画のチェックから、彼の指針通りに動いていない口語やルール不手際があった。
翌日の彼からのメールを見ると、赤字だらけの長文に、質問事項が十数個。

当時の私は誰にも相談できず、彼と向き合い続けた。
一度、彼のテーブルに乗ると、全ての取引をチェックされる。
翌日も赤字だらけのメールは続いた。

事件が起きた。体調面での変化だ。

彼の攻撃的な取引チェックに対してストレスが溜まっていた私は、毎日アルコールを大量摂取する生活となっていた。
ウイスキーは瓶ごと飲み干し、さらにビールを2L、焼酎もストレートで飲んでいた。
(支店から徒歩20分のところに住んでいた私は帰り道すがら500缶のビールを2本飲み干して帰宅していた。)

ほぼ毎日、彼から受ける注意から逃避行するように飲酒を続けたある休みの日。
身体が動かず脱水症状と発熱、嘔吐下痢を繰り返し、救急車で運ばれることになる。
ベッドも汚してしまうほどのものだった。

1週間の入院。
病名はストレス性の急性アルコール中毒。

みんなに心配されるようなことになってしまい、本当に恥ずかしい出来事であったが、当時の学びは大変貴重なものだった。

仕事に復帰し、まず行ったのは、先ほどのコンプラ責任者に対する「事前相談」だ。
各案件、大小に関わらず、ルール遵守、提案商品、意向の確認は問題ないかを必ず確認してしていた。
そして必ずアドバイスを受け、その通りに営業活動を行う。
(アクセルを緩めることも多いにあった。)

その結果、起きたことは、まずモニタリングをされても、褒められることしか無くなった。そして、あの「長文赤字メール」はパタリと無くなった。

それに加えて、コンプラ優秀者として、朝会に名前を出したり、「私の苦労を知っているのは〇〇くんだけだよ」と。

本当に、簡単だな、と思った。
当時から反発せずにそうしておけば良かったと。

嫌いな大人に対して、より敏感に丁寧にコミュニケーションをとる。
頻度を増やして、彼らの共通言語を同じ方向を向いて語る。
これだけで良かった、それだけのことだった。

ただ、数字は稼げなかった。
信用され、徐々にアクセルが踏めるようになると回復はしたが、一長一短はある。

今、思うと、この経験は大変貴重なものになったし、
処世術というほど立派なものでは無いが、どれほど自分と遠い存在でも、自分を守ってくれたり、仲間にしていくことは可能で、それも自分の変化次第なんだなと悟った。

コンプラ責任者を仲間に従え、より仕事がやり易くなった。
まだまだ目指す道は長く険しい。
私は、この支店で一位になって、早く全店のハイパフォーマーの仲間に入りたかった。

まだまだ銀行を辞めることはできない。。


写真:ニューミュンヘン神戸大使館(神戸三宮)の「鶏の唐揚」

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?