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快適な社会の新たな不自由 #1

◆労働者に期待される能力のハイクオリティ化(前半)

しろくま ここまで色々と話してきたので、第1章はこれまでのまとめのよう読めますね。

こにし 「昭和」と「令和」のデジタルな対比などはデフォルメされています。著者は、場所は全然違うと思いますが、私と同郷でして。

うえむら そういえばそうなのか。

こにし 地方出身者の視点で、東京と地方の違いもかなりデフォルメしている。あまり細かいことはツッコミを入れずに読むと良いですね。

石川県は都市圏以外は保守的なマインドが強いですね。ちょうど先週衆議院選挙がありましたけれど、京都のような都会における、左翼を受容する程度にはエスタブリッシュメントの文化と、地方の保守的な文化との乖離は一定程度あると思います。石川県は保守王国と呼ばれる地域なので、地方の中でも特にそういう乖離は大きい気がしました。

うえむら P27では「にもかかわらず・・・」から始まるパラグラフは、第2章で同じ趣旨が語られていたと記憶するのですが、コミュニケーションが低い人が周縁的な労働に追い込まれているのではないか、という話。ウチの庁舎の周りの肉体労働者は、わりと挨拶をしてくれるのですよね。警備員さんは朝めっちゃ大声で挨拶をするし、清掃員さんもすれ違いざまに挨拶してくれる。逆に職員の方がめっちゃ無愛想。

それはコミュニケーション能力という意味では、発揮する場所が違うということかもしれないけれど、警備員や清掃員にとっては、職員への挨拶がひとつのタスクとして位置づけられていて、職員たちはもっと別の場面でコミュニケーション能力を発揮している。だとすると、コミュニケーション能力のない人たちが肉体労働していると言うよりは、どのような職業にもコミュニケーション能力を発揮する機会はあると思います。1か0かではなくて。

しろくま 今のお話は、そういう警備員や清掃員もコミュニケーション能力が求められる、あらゆる階層にコミュニケーション能力が浸透しているという抑圧に感じました。

うえむら 確かにな。しかし職員は別に挨拶してもらうことなど求めていないのですよね。

しろくま もしかしたら求めているのかもしれない。そういう方針が警備会社にはあるのかもしれないですね。

うえむら あるでしょうね。おそらく警備会社の上層部がそう指導している。そうすると、さらに、コミュニケーション能力ゼロの人たちの労働の場がなくなっていく。

しろくま そうです。警備会社にすらも勤められなくなる。そういう側面もあります。

こにし 確実に言えることは、産業構造自体がかなり変わっていて、昔は学歴がさして高くなく、職歴上の特徴となる点もない、あるいは遂行する能力に問題がある人は、警備などの仕事をやっていなかったと思うのですよね。労働経済学や社会学でよく言われるのは、例えばITや生産技術が向上することで、製造業の仕事が単純労働として減っている。その代わりに増えているのは、コンビニの店員や警備員、医療や介護などいわゆる対人サービス業です。

前者よりも後者の方が、向かいに人がいるという意味でコミュニケーション能力が職務の能力の中に含まれるくらいには求められるし、それが相対的に求められない仕事は機械によって代替されやすい仕事なので数を減らしていく。コミュニケーション能力に欠けている人にとって、働きにくく、暮らしにくくなってきているとは思います。コミュニケーション能力とはそもそも何か、という問題もありますけれど。挨拶できればコミュニケーション能力が高いのかと言われると、それは。

うえむら 挨拶はここで想定されている「コミュニケーション能力」とは少し違う

こにし そうです。一方方向で、キャッチボールじゃなくてドッジボールですよね。

しろくま 相手の言うことを汲み取って、仕事しやすいように喋るというのが、ここでの「コミュニケーション能力」に近いですね。いま介護の例を聞いて思いましたが、言葉をかけられるとか、一緒に遊べるとか、そういう能力は挨拶とはまた違いますよね。

こにし 東京に居るとあまり感じないですが、実家の方に行くと、メインの雇用はほとんど対人サービス業ですよ。大きい向上の立地など、目立った製造業の雇用がないことも一因ですが。知り合いの就く仕事を見ていると、医療、介護、その他サービス業、たまに銀行員や教師がいるくらいで、公共事業で雇われている感じがすごいです。

そういう仕事はここでの「コミュニケーション能力」が一定程度求められるようになってきてしまいますので、会話できないレベルのコミュニケーション障害があると暮らしづらいだろうとは思います。コミュニケーションがとれなくてもある部分についてスキルや能力が高いとか、別のところで能力を発揮できる部分があれば良いですが、それがないと田舎にはそういう受け皿が本当にない。だからボクは田舎に帰れないのですけれど。

しろくま 自分にはコミュニケーション能力がないということ?

こにし 学歴があって、東京で5,6年仕事してそこそこ年収が高い人にとって、それに比較できる受け皿はないですね。IターンやUターンのときに必ず障壁になる。

しろくま わかる。本当にそれ。

こにし 脱線しましたが、学歴や特殊技能で「コミュニケーション能力」をカバーできない場合は、年収的には「真ん中よりも下の仕事」をしようとおもうと、つらい場面が増えているし、特に田舎に行くと「真ん中よりも上」の受け皿が少なくなっているのでしんどい。

うえむら Jターンという言葉もありますね。IターンやUターンの場合は、「東京でずっと暮らしていく」という選択肢の対極に「ある一つの田舎でずっと暮らしていく」という選択肢しかないように感じてしまう。しろくまさんが「続けないといけない固定観念」ということを後の章のポイントとして挙げていますが、P30で工場勤務の話をしていますよね。製造業に関しても馴染む力が必要とされている。

こにし そこでの「コミュニケーション能力」は性質が違うのではないですかね。対人サービス業は仕事をすること自体にコミュニケーション能力が必要となる、そういう職務遂行の話ではなくて、製造業は仕事自体にはコミュニケーション能力が要らなくて、サークルに入れるか入れないか、という職場内におけるコミュニケーション能力が中心となる。それは区別した方が良いと思います。人が集まったらそうなるでしょうね。一人でやる仕事はないですから。

うえむら 一人でやろうと思うと、もう漆職人になるしかないね。一人で付加価値を生み出すだけのスキルが必要となる。

しろくま 和菓子職人ですら複数人で製造する場合はコミュニケーション能力を求められますからね。

うえむら 和菓子屋の事例で言うと、実はサークルに入れない人であっても、コミュニケーションをとらなくていい部署に配属するという対応は取りうる。例えばひたすらコメを噴かし続けるパートに振り分けられている職人さんもいた。しろくまさんからはあんまり見えなかったかな。

しろくま そうですね。全員で生地に餡を包んでいるイメージでした。

うえむら 売り場から見える部分はそうですが、さらに裏にはまた別のパートがある。

しろくま そういう部署もあったのですね。

うえむら 生田斗真と瑛太の『友罪』という映画があって、埼玉あたりの工場労働者が舞台なのですが、そこに瑛太が元犯罪者で、出所してきた男として参入してくる。彼は全然回りに馴染もうとしない。また生田斗真は彼は彼で、実は瑛太を追いかけて潜入捜査をしている記者なのですが、その二人が異物として、トリックスター的なポジションになって、従来あったその工場内のサークルを動揺させていくという話でした。そこではもともとマッチョイズムによってサークルヒエラルキーの上位に立っていた男がアレルギー反応を起こすというのが見所の一つでした。

こにし 仕事上必ずしもコミュニケーション能力を求められているようには見えない仕事であっても、コミュニケーションを求められる場面があって、そうではない職場は例えば伝統工芸などの極めて限定的な領域に限られてしまっている。

うえむら 瑛太は、そこでは「過去を語りたくない」のですよね。彼はコミュニケーション能力がないというよりは、コミュニケーションをとらないという選択肢をとっている。それは能力に帰着する訳ではなくて、選択肢がとれなくなっているという抑圧の態様はあるでしょうね。

しろくま 「ワケありの人」の受け皿がなくなってしまっている。

うえむら 話を戻すと、言いたかったのは、こういう工場労働者は季節労働者であることも多いと思うのですが、ずっとその工場に労働者として居ると言うよりは、景気や産業構造が変転するに伴って、働く工場を渡り歩いていく。昔で言うと「渡りの鉱夫」みたいなモデルがあると思います。先程Jターンの話をしましたが、必ずしも棲み着くのではなくて、渡り歩いていく、社会学的に言うと「風の人」として移り住んで地方に関わるという選択肢もあると思います。

しかしIターンの文脈ではそれほど称揚はされていない。やっぱり定着することが求められているし、「おまえら住んでみろよ」と、住むことによって度胸や覚悟を試されている部分もある。

こにし 自治体的にはなかなかそういうテンポラリーな仕事で良いとまでは言いづらいでしょうね。旨味がないでしょうし。

うえむら 人口減少し、移住する人のパイの奪い合いに限界が近づいている中で、「風の人」モデルでも良いから活気を注入して、もともと住んでいる人たちの意識改革を促していく人が入ってくれば良い、という段階に入っている、という分析もあります。

しろくま 他の人を呼び込むかもしれないですからね。

うえむら そういう自治体側の目線もありつつ、一方で「まだ東京で疲弊しているの?」な人たちに対して、移住ほどハードルが高くないけれど、渡り歩くモデルを確立することで地方への移動を促していくこともできるのではないかとは言われています。

意外とコンサルティング会社の人たちからすると、各地方をマーケットとして食い潰していく生活として、実質的に「渡り」の生活をしている場合もあるのかもしれません。

こにし そういう人たちもいるにはいるでしょうね。自治体から受注している人は。やっぱり焼き畑モデルで仕事をしている人たちは一定数いますよ。喧嘩別れまでとはいかなくても、継続受注しなくて次々にお客さんを変えていく。それがネガティブに思われることもあるし、そういうスタイルだと開き直っている人もいる。

うえむら これまでは焼き畑ができていたのですよね。収奪すべきブルーオーシャンはまだ色々とあった。次々に新しい収奪先を求めていくのが資本主義の本質であって、三陸沖でカツオが不漁になったとしても遠洋までマグロを獲りに行ってもよかったし、オホーツク海でラッコが減少してもシベリアまでオットセイを捕りに行くことができた。

そのようにしてこれまでは、河岸を変えれば収奪する場所はあったけれど、平成の大合併で市町村数は1,700まで減りましたから、焼き畑コンサルのブルーオーシャンは実に限られている訳です。化粧品や脱毛市場も、女性人口が減少したことで、男性化粧品や、介護脱毛など、新たな収奪先を求めている。そして、経済活動が行き過ぎることで、そういう収奪ポイントがどんどんなくなってきていることがついに経済を停滞させている。だからこそ、最後の焼き畑(収奪先)が他者の感情を買う、コミュニケーションの分野になっているということだと思います。

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