リスクとしての子育て、少子化という帰結 #2
◆“動物”として生まれてくる子ども
うえむら P132では「遺伝形質」とか「予測不能性に生殖テクノロジーが貢献するとしても完璧にはほど遠い」「優生学への反省を経た現在においては完璧でさえあれば良いとも考えられない」といった話題が提起されますが、クソゲーをできるだけモデレートしていこうと考えたときに、遺伝の段階でデザインしておこうという発想に進んでいく人も当然いる。
こにし クソゲーを回避しようとする。
うえむら テクノロジー上そっちに移っていく人は、「動物として生まれてくる子ども」から人間への調教を「なぜ「親」がしなければならないのか」「生まれる前からプリインストールしておけば良いじゃないか」という発想に進んでいく気がします。
しろくま 怖いですね。あんまり思い通りに行かないことに対する許容がないですよね。私が農学部出身だからかも知れないですが、良くない考え方だと思います。私は自然が好きで、自然相手の考え方をしているので、研究だって思い通りに行かないし、農業という仕事も思い通りに行かないのだから、子育ても思い通りに行かないのは世の中として当たり前だと思っています。だから遺伝をコントロールしていくのは反対ですし、思い通りに行かないことへの許容が狭くなってく、その考え自体が危ういなと思います。
うえむら 良いご指摘ですね。「思い通りに行かないことへの許容範囲の縮減」ですか。
しろくま それは子育てに限らず、ですよ。
うえむら いまコロナ禍でセレンディピティを重視する人たちもいて、「オンライン授業では友人とのセレンディピティある関係が形成されないから問題だ」と言って、「思い通りにならないことに価値がある」と思っている人もいる。そうでありながら再生産労働に関しては「コントロールできること」が最大の関心になっている。
それは大学教育はある程度自発性があって、自分で選び取っていくものだけれど、幼児教育や初等教育は画一化された方法論が存在するということなのかな。高校まではメリトクラシーは画一化されているけれど、大学に入ると初めてセレンディピティが価値になるという、くっきりと明確な断絶があるのかもしれない。
しろくま 時代の流れとしては、「個性を育てなきゃ」という方に戻っている感じもしますよね。高校までの教育が画一化されながらも、大学入試でAO入試などの個性重視が増えてきて、ちょっとずつ「やっぱ個性大事じゃね」となってきている一面もあると思うので、今後どっちに動くかは分からないですが。
うえむら P137に出てくる「ハーネス付けている親」は見たことがないですが、一般的なの?
しろくま 私も見たことないです。
こにし 散歩でもするのかという感じですが。
うえむら 新幹線で赤ちゃんが泣きわめいて、母親が連結部に慌てて逃げていく絵は容易に想像が付くけどね。
しろくま 容易に想像が付きますね。飛行機も申し訳ないですしね。
うえむら 僕も赤ちゃんの泣き声は体調や気分によってはイラッとするときがあるけど、仕方ないものだと理解はするな。それがだんだん年取ると許容範囲が小さくなっていくのかな。
しろくま 泣き声が大き過ぎて、耳に響くなとはなりますよ。
うえむら もともとそうやって人間に対してアラートするという目的のために最適化されたシグナルだからね、泣き声は。
この節で私が思ったのは、KK-眞子問題で「眞子に『躾』が足りなかった」という人がいて、そういう言説はめっちゃキモいなと思うのだけど、でも「皇族として社会的にインストールしておかなければならなかった要素がある」とみんな信仰している。だとするとそのインストールは、誰が担っているの。
こにし 宮内庁でしょうね。
しろくま 皇族の親世代、美智子さまや紀子さまが担っていることにもなりますよね。
うえむら 宮内庁も、美智子さまも、どちらも担っているのか。インストールしておくべきものが大きくなればなるほど、社会からの介入は大きくなっていくという原則があるとすれば、皇室の親世代だけでインストールできるような「躾」ならば、皇族が果たしているのはその程度で足りるくらいの社会的責任に過ぎないと目されているのかも知れない。
逆に本当にもっとインストールしておくべきものがあるならば、教育を皇族任せにするのではなく宮内庁を通じて社会が介入していくべきだろうと思うけどね。
しろくま インストールしておくべきものが社会一般的なものであれば、学校や社会全体で担うべきだと思いますが、宮内庁の話になると、独特のものであれば、家庭が担うべきではないですかね。宮内庁独特のことを社会で教えるのは難しいと思います。まあそもそも私は「躾が足りなかった」とは思いませんけれど。
うえむら そうやって独特の部分は独特の機関が教えるというのはいいのですが、「独特でないところは「親」が各自で教える」というのがおかしいのではないか、というのがテキストの問題意識ですね。独特でないところはもう遺伝子にプリインストールしておけばいい。
こにし 私は皇族じゃないので分からないですが、彼らは学習院やICUに通ったり、留学したりして、学内でどういう扱いを受けているかは知らないですが、ミドルクラス以上の人間として受けるべき教育を普通に受けてきているはずですよね。一般市民からすると自分たちと同じ経験をしている人間として評価している。
ぼくは周囲の評価の仕方に問題があると思っていて、減点方式で100点満点で考えられていて、理想が高すぎる。だから画一的な部分は教育機関が担うのだろうと思いつつ、浮世離れしている側面はやっぱり出てきてしまうので、パーフェクト超人が全員出てくるわけではない。だから教育の生活が過信されているし、期待値が著しく高すぎるという問題があると思います。求められているものと実際に出てくるものがだいぶ違っている気はしますね。
ミドルクラス乃至ミドルファイン、あるいは本当の上流の人たちもそうでしょうが、特に高等教育に関しては基本的に「自由たれ」という教育を受けると思います。そういう教育と、画一的で儀礼的な、礼儀や日常的な言動、あるいは結婚における仕草は非常に対立していると思います。
眞子さんの報道は、大学在学中に出会ったという話もあって、経緯としては至って普通だと思います。別に相手が定職のないギタリストだって良いでしょとは思いますが、社会の期待とは少し違うのでしょうね。
うえむら 職業で差別するつもりはなかったけれど、金銭トラブルに推定されるいわゆる「誠実性の欠如」が彼の一番のマイナスポイントととらえられていました。
現代は教育が進化して、深化することで、教育の民主化と言っても良いですが、皇族が受けられる程度の教育はみんなが受けられるようになっている。そうすると、そのような教育によってホーリーなものが生じるという信仰を続けるのは時代遅れになっているのではないか。
こにし 教育の成果と社会規範の形成は別個のものだと思っています。学力が高いことと社会規範がしっかりしていることは全然別なので、大学教育を受ければ社会規範がちゃんと出力されるという期待は的外れですね。
しろくま 学力やスキル的なものとマインドセット的なものは違うよね。
うえむら マインドセットは宮内庁が帝王学を施す。
こにし そういう意味では宮内庁の不作為ではないかと思われる。
しろくま マインドセットは家庭で身につくことは多いですよね。学校での人との関わりや部活によって身につくこともあるでしょうけれど。
うえむら 大学教育を受ける中で、眞子さまが「やっぱり皇室って異常だな」と感じた可能性もあるわけじゃないですか。秋篠宮は完璧を期していたにもかかわらず「やっぱこの皇族とか言うシステムは基本的人権を侵害する装置でしかないな」と認識を改めている眞子さまが、結婚において一石を投じているというシナリオは充分想定できる。そこに対して「秋篠宮の教育は失敗だった」というのはすごく一面的な見方に過ぎないよね。そこで眞子の意思が無視され、あたかも存在しないかのように扱われているのが同世代としては気になりますよ。
こにし この問題の気持ち悪さって、秋篠宮(親)自体はそんなに問題だと思っていなかったということかなと思います。眞子さんが大学で然るべき教育を受けて、意思決定ができるようになったことは価値観の成長ととらえられるものだと思います。それはそれで一個の進歩の形態だと思うのですが、全然関係ない外野の人間がそこに対して「皇族の価値観に合っていない」だの「秋篠宮の教育が上手くいっていない」だの私的領域にずかずかと入っていくことがきめぇという主な要因ですよね。
うえむら そして本当に何らかの皇族の仕草とかいうものが、「私的」なものではなく、「公的」なものとして明確に社会的に合意できるのだったら、中途半端に基本的人権侵害してないで、徹底的に侵害しろよと。
さっき言ったように彼らの遺伝子に介入して、「皇族かくあるべし」というミームを皇室会議で社会的合意を経て、それを生まれ来る遺伝子に注入しろよと。何でそういうことを考えずに中途半端に「躾」とか言うのでしょうね。やるんだったら原理主義にラディカルにやれよと。
こにし 世の中めんどくさいのは、それをやっても批判は受けるでしょうけれど。存在自体がガソリンみたいな感じですね。
うえむら ミームによって彼らの遺伝子に介入してしまうと、国民に責任が生じてしまうのですよね。彼らの仕草は私たちが選び取ったものだというのが直接的に如実に接続してしまう。それを避けたいのでしょうね。国民がやっぱり分断しているということが露呈してしまうし、彼らの仕草に対してお茶の間から無責任に何らの批判も与えることができなくなる。だってそれは私たちの選んだことなのだから。そうしたくないが故にあらゆる責任を皇族メンバーの一つの人格に帰して行っているのが凄くグロテスクだと思います。すみません、眞子問題でちょっとアツくなりすぎました。
しろくま P137「その延長線上として、子ども、とりわけ小さな子どもが一人で街にいるだけで私達は不安になるようにもなっている。」というのも、すごく都会的な考え方だなーと感じました。これは地方の感覚だと不安にはならないし、むしろ子どもがいることで希望を感じると思うので、お二人の感覚を聞いてみたいのですが。
うえむら 子どもが一人でイオンモールに居たら、「こいつ迷子やな」と思うよね。
しろくま 確かにそれはそうですね。
こにし 未就学児だとそう思うでしょうね。中学生くらいなら一人でもおかしくないでしょうけれど。
うえむら それはそうだね、だから年齢に依るか。未就学児が一人でイオンモールにいると少し心配になりますね。
こにし 他にも柄が悪い地域に子どもが一人で居ると、ちょっと不安になるかな。
うえむら 悪戯されるのではないかなとか。
こにし パパ活やってんのかな、とか。
うえむら ある程度の年齢になっていたとしても、柄が悪い地域であればちょっと不安になるというのはあるかも知れない。
しろくま それもあるかもね。
こにし 本人が自発的に選んでいるのだったら別に良いけれど、第三者の目線で見て、自発的に選んでいるか、意図せずそこに居るのかが判断が付かない場合は、どちらかというとネガティブに考えてしまいますよね。
うえむら 「自発的に」というのはキーワードだよね、子どもには自発性がないから、そこに一人で居るのは、何らかの親の作為や不作為を類推させてしまう。女子高生が歌舞伎町にいる事例であっても、それが本当に自発的なのか、悪い友達に騙されているだけじゃないのか、というように、「自発性が揺らいでいる」場合に周囲が不安を感じるということでしょうね。
こにし この章の後ろの方でも出てきますが、そういう実態があることに対して、それが本人の責任と言うよりも親の不作為なのではないか、と捉えられる風潮が東京では強いという可能性はあるかもしれないですね。
「しょうがないよね」とか、もうちょっと許容的な態度をとるとか、本来色々とリアクションはあり得ると思うのですが、それが親に対して責任を帰し、改善を求めるというリアクションに限定されて、問題化するだけではなくて責任を帰するというトレンドがあるような気はしますね。
うえむら まあ法律的には親は保護責任者だけどね。リスクが過大視されているというご指摘はその通りだなと感じつつ、基本的には保護責任者としての役割を果たして貰わないとなとは思うけど。そこはバランスかな。
こにし 「一人で街中を歩いていて偉いな」と思う余地が無くなっている。
うえむら 確かに『はじめてのおつかい』というジャンルはもう成立しなくなっている。
こにし ひとりでそんなところに行かせるなんてただ事ではない、けしからん、となっている。
しろくま 確かに『はじめてのおつかい』的世界観がもうないのですね。
こにし みんなで見守っているから良いという話はある。
うえむら あれは一応テレビクルーたちが見守っている、社会の目があるという前提だけれど。
しろくま その前提+商店街の人たちも温かい目で見守っている。そうでないと、冷たい目で見ているだけの光景を放映できないですからね。
うえむら みんなが「なんでこの子ども一人で来てんの」みたいな目で見ていたら成立しないからね。それがテキストではそういう目で見ているよね、という指摘になっている。
しろくま そうですね。
うえむら 逆にしろくまさんのいう「むしろ子どもがいることで希望を感じる」というのは、公園で子どもが一人で遊んでいたら希望を感じるということ?
しろくま ひとりで街にいて、放置されていることの不安というのは都会でも地方でもあるとは思いました。ただ少し違う話をすると、子どもがリスクとか不安要素みたいな考え方よりも、過疎化している地域で「子どもがいると街が明るくなるね」みたいな、「希望だね」という感覚は東京にはないのかなとちょっと思いました。
うえむら 少し戻りますがP134で「子どもはよく産まれ、よく死ぬこともあり、生死の責任の曖昧なものであった」という文章がある。子どもって昔はよく神隠しに遭っていたのですよね。この世ならざるものに連れて行かれている、自然に強奪されているみたいな要素があった。
例えばホラー映画でも『来る』(原作小説タイトル『ぼぎわんが来る』沢村伊智)という岡田准一、小松菜奈、松たか子などが出演している映画があるのですが、そこでは、赤ん坊が黒目一杯でどこかこの世ならざるものを見つめている絵がホラーの要素として描かれていました。
子どもは「異界との窓口」であって「生と死の狭間にいる存在」だという捉え方が伝統的にされてきた。その意味で言うと、むしろ子どもがいることによって、世界の異質さが開けていくみたいな、そういう感覚もあると思っていました。だから「子どもが一人でいることの不安」にはリスク要因というだけでなく、そのように「死」に意識を向けさせるという面はあるのですよね。
しろくま なるほど、別に規範とかそういう面だけでなくて。
うえむら 伝統的にそういう「子どもは死の窓口」という捉え方があった。さっきのしろくまさんの例で言っても、過疎化してひと気の無い街で、ふと耳を澄ますと子どもの笑い声だけが「カタカタ」と聞こえたらさ、それ怖くない? ぼくはめっちゃ怖い。
しろくま 怖いですね。
うえむら そっちもあるとは思いました。
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