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ブルシット・ジョブ #20

◆ミレニアル世代に顕著な不安と恐怖

うえむら P176で突然「若者」というフレームが出てきます。ブルシット・ジョブに対して自分の行動を規律する姿勢が、特に若年層において増大しているのではないかという問題意識を持っているように感じられました。それはグレーバー氏が大学の先生で、大学生と接しているからそう思うのかも知れませんが、特にミレニアル世代が、労働包摂されないことに対する恐怖を抱いている。

年代格差が実感としてあるかを考えるために、大学生と職というとまず思い浮かぶ「就活」のことを想起してみると、エントリーシートを書く段階で、自分の「ガクチカ」、学生時代に力を入れたことを書かされて、「私はこんなに労働にとって役立つ存在です」と自己規律化して、労働包摂を志向していく。本当は労働させる側が何も労働規律されていない者の規律にコストをかけていくべきなのに、労働者の方が勝手に自己規律化してくれるというのは、社会的コストが転嫁されている気がしますよね。

こにし 就活生が相当内面化してしまっている感じはしますね。有名な「20年間の入社式はおのおの好きな格好をしていたが、現代の入社式ではみんな同じような格好をしている」みたいな話はありますが、そういう価値を就活を受ける側が相当内面化していて、そのレベルがすごく高いと。アンバランスだなというか、画一化の方に向かわせる力が特に日本の就職市場では大きいのでしょうけれど、その一方でP176にあるように「同時に、かれらは、自分にはなにかもっとちがったことができるのではないかというおもいに対して、左右からの容赦のないお説教を聞かされている」と、何かもっと違ったことができるのではという思いはあるけれども、画一化という一つの現象に現れているように、ジレンマが生じています。

うえむら そうですよ。「何者かになれ」という個性を重視した教育と、「何者にもなるな」という画一化された労働包摂が、10代の終わりから20代の始めに一気に規範として流れ込んできて、彼らは矛盾した命令を打ち込まれたロボットのようにフリーズするしかない。

こにし 完全に仕組まれたゲームだと思っていて、「自分にはもっと何か違ったことが出来るのではないか」という思いが、学生側が勝手にもっているのではなくて、「そういうことができるやつじゃないと採用しないよ」みたいな企業側の風潮もある。「就活するときにそれを前面に出して来い」と、ガクチカもそうだと思いますが、新卒にスキルや知識があるわけではないので、モチベーションだとか、限られた経験を切り売りしていくしかないところがある中で、需要側が暗黙のうちに就活生側に求めているにも関わらず、その一方で説教を浴びせるというのは、なんなんやこいつらはと思います。

うえむら そうそう。矛盾している。あと切り売りという話がありましたが、以前しろくまさんは、「先にええとこに入っておけば、後の可能性が広がるよね」という話をされましたが、「先にええとこに入っておく」ために「先にええ経験をしておかないといけない」「先に個性を獲得して」「先にええ教育を受けて」「先に規範を醸成しておかないと」と、どんどん前倒しになっていく。それで親の経済力格差によって受けられる経験が変わって、そうした側面を評価するAO入試が拡大することで、ますます格差が再生産されるのではないかということが問題視されています。

「包摂してから育てる」という発想はそこにはなくて、包摂される前の人間が自己規律化することが期待されている。それが若い世代に特に感じ取られているのは、これまではそういう自己規律化のことを「自分磨き」とか「セルフマネジメント」みたいなフレームで、良いこととして捉えていたけれど、最近は「それってグロテスクだよね」という感覚にシフトしていて、そうなることでこれから変わっていくのかも知れないけれど、まだ今はすごく辟易している段階なのかなと思います。

こにし でもやめられないですよね。誰がそのゲームを仕掛けているのか、ぼくはよく分かるようでよく分からないのです。とにかく全然止められていない。その上で世代間格差が子どもの世代まで移転していて、それがさらに子どもの世代に引き継がれるのは、簡単ではないですが解決可能な課題だろうと思います。

うえむら P176ではミレニアル世代のことを「親世代よりも機会や生活水準が乏しくなったり悪化したりする見通しをもつ、この一世紀以上を通して最初の世代」ともされていて、これは『退行の時代を生きる 人びとはなぜレトロピアに魅せられるのか』ジグムント・バウマンの指摘を念頭に置いているのだと思いますが、彼らが抱いている恐怖は、「自分が」この先食っていけないのではないかという恐怖であるとともに、「自分が再生産した子ども」が自分よりも不幸になる恐怖であって、それが昨今の「そのような苦衷に満ちた生を与えるくらいならもう子どもを生まない方がええやん」という半出生主義の流行なんかももたらしていると思います。若い世代にとって未来に対する恐怖は切実なものとしてあるのだろうなと思います。

しろくま それが「スキルが上がらないことが不安」というブルシット・ジョブの恐怖のひとつで、昔よりも大きくなっている気はします。就職できたら終わりではなくて、食べていけない。結局力がないと、転職の時にアピールできるスキルがないと危ないのではないか、だから良い組織に入ってブルシット・ジョブに甘んじることに不安を感じる。

うえむら しろくまさんは、恐怖はないの?

しろくま ないっすね、あんまり。でもそれこそブルシット・ジョブに従事していたときはありましたね、不安は。

うえむら それが、今はなくなったの。この件に関しては公務員で終身雇用の私はすごく安全圏からものを言っている形になってしまうのですが、でもみなさんは自分の得たスキルがいつコモディティ化して陳腐化するか分からない時代を生きておられて、すごいスピードで社会常識が入れ替わっていく。

しろくま 言うてそんなに大丈夫かなと思いますね(笑)

こにし いいな、楽観的だな。

しろくま そこは過去に良いレールに乗った安心感かもしれないです。

うえむら 学歴があるから大丈夫ということ?

しろくま 学歴も職歴もあるから大丈夫かもみたいな。

うえむら ちゃんと新卒で就職したし、仕事を辞めた理由も「産休」という説明可能な理由だしということね。

こにし ぼくは不安ですけどね。

うえむら うん。多くの人は不安なのかなと思う。

こにし その人の業種にもよるのだと思いますが、ウチはグループ全体で研修をしたあとに、個々の企業で研修に移っていくのですが、最初に親会社のSEで入った人とチームになったときにびっくりしたのですが、彼らは平気で「定年まで勤めるつもりだぜ」みたいなことを言う。そんなヤツまだおったんかと。

でもそういう人たちも残っているとはいえ、「一つの会社でずっと働き続けて、会社の中に必要悪としてブルシット・ジョブに従事しながら定年まで幸せな職業人生を歩む」という人生は、もうないよねという感じに社会的な流れとしてもなっているし、会社としてももう少し流動性を高めながら仕事をした方がいいですよねという方向に向かっている気はします。

ただその一方で、そういう要請に対応していくとなると、会社の中だけで通用するスキルではなくて、業界の中や、社会全体で通用する専門性を持っていないといけないという強迫観念は常にあります。さらに言うと専門性やスキルが特にIT業界では必要とされるものが数年単位で変わるので、仮に同じ会社に勤めていたとしても、エッセンシャルな部分はあまり変わらないにしても、「常に自分をリニューアルしていかないといけない」という強迫観念は常に与えられています。

逆にそれを持っていないと良い仕事ができないという感覚もあって、それは精神的に規律されているということかもしれませんが、それがないと、仕事自体がコモディティ化することで、今ある程度もらっている高給や好待遇が得られなくなってしまう感覚と闘っていると思いますね。

うえむら 特に最近は「転職市場における自分の価値」みたいなフレームが横行しているので、それを絶えず高めてかないといけないという圧力になるよね。

しろくま 「不安がない」の補足をすると、そういう情報に触れたときはもちろん不安になるのですが、踊らされていると思ってイヤだなと思って、不安に思う必要がないと思うんです。そんなことに不安を感じていたら、人生ずっと不安を抱えながら生きていかないといけないじゃないといけないので。

こにし でも実際に、そうやって多くの人は常に不安を抱えて生きているんだよね。

◆情報の非対称性ビジネス

しろくま 不安って自分に必ず当てはまるとは限らないじゃないですか。例えば一般的に「最初に入った会社に3年勤めないと、後から転職活動するときに続かない人だと思われて不利だよ」とか言われても、3年じゃなくて2年しか勤めなくてもそこで良い経験が出来てちゃんと語れれば大丈夫だとか、「就活ではスーツを着ないといけない」と言われているけど、それ以外の服装を個性として認めてくれる会社に採用されたいなら、気にしなくても良いとか。結局自分に当てはまることなのかは分からない。当てはまらないのに不安になってしまうことが世の中に溢れていて、そういうものに流されてしまうのは時間の無駄だと思いますし、自分に当てはまるかどうか分かるまで不安になる必要は無いと思っています。

それは「不安じゃない」というか「不安に思いたくない」ということかも知れません。もちろん「そういう状況になってからじゃ遅いから、事前に対策しておかないといけない」という意見もあると思いますが。見極めもせずに無駄に不安に思いまくるのはイヤですね。

こにし それを、確信を持って自分で判断できるのは強みだなと思っていて、世の中のある種の会社がズルいなと思うのは、自分自身が何をやってきたのかについては当然自分が一番よく知っているし、その中でどういうスキルなり知識を得てきたのかもよく知っているけれども、それは自分の主観的な判断なのであって、労働市場一般とか、他の会社からみて、自分が主観的に得てきたものに価値があるかどうかは一般的に非対称だと思っていて、自分は価値があると思いたいけれど、向こうがどう思っているかは分からないという状況になる。色々な会社を渡り歩いてきて両方の目を複眼で持っている人は強いとは思いますが。

そういう非対称な状況で、自分では判断が難しいと思っている人たちに対して、不安を助長するようなニュースがたくさん流れてくる。意図的に流している部分もあると思いますが、個人にせよ企業にせよ、情報を持っているセクターの方が強くなってくるし、普通は情報を持っているのは個人ではなく、プラットフォームや、人気就職先である大企業の側に集まってくるので、彼らの言うことが、彼らの必要とする実態に結びついているので、そこが個人の経験とミスマッチになっているのではないかという不安があるし、それがマッチしているかどうかを明確に判断できるまでの情報を、選ぶ側は出さない。そこまでやってしまうと安心してしまうから。

しろくま みんなが当てはまるように思わせるのがマーケティングだからね。

こにし 踊らされていると言ってしまえばそれまでだろうけれど、人を不安にさせる材料は世の中に山ほどあるし、それは構造的な問題だと思います。

うえむら それが次の節の「自分が危害を加えていると認識することの惨めさ」に繋がっていくのだろうと思いますが、不平等や情報の非対称性を温存することによってビジネス化している人たちが確実に存在して、それによって被害者側の社会的効用が低下するだけでなく、それを仕掛けている側も実は傷ついているということが書かれています。

こにし 彼らからすると情報の非対称性自体がビジネスの源泉ではあるけれども、問題の諸悪の根源が情報の非対称性にある。ただそれを解決して、壊してしまうと、彼らのビジネスの規模を著しく小さくしてしまうことに繋がるので、それは会社としてできない。ウチの業界も典型的に情報の非対称性で儲けているので、問題を完全に解決してしまうと仕事がなくなってしまう。だからお客さんには適度に無知でいてもらわないといけない。

しろくま わかるわかる。

こにし それはジレンマですよね。国家公務員のように構造的に無知が作り出されている場合は当てはまりますかね。2年に1回人事異動で人が代わってしまうので、特定の分野に関する知見が溜まりづらい。いまデジタル庁関係で叩かれていますよね。「役所のIT調達の話を1ミリも知らないのになに言うとるねん」みたいな。本来はそれ自体が問題なのですが、そこにはメスは入らないですね。キャリアパスがないというのも当然あるでしょうけれど。

うえむら それで国家公務員の無知につけ込むビジネスをしているコンサルさんは一応傷ついているということね。

こにし 儲かっているのだけれど、心としては何かがうやむやになっている気はしますよね。ひねくれものの意見ですが、結局そこでいままで深い部分に入っていたのが、いわゆるITゼネコンで、今は古豪みたいな扱いになっていますけれど、その主体が代わっただけで、それがヤフーだとかマイクロソフトだとか、テックベンチャーにシフトして、なんだかクールだよね、みたいな雰囲気になっているだけで、基本的な構造は変わっていない。

しろくま こないだの議論で、外注という話が出ましたけれど、国家公務員はジョブローテーションしたいニーズがあるとして、知識蓄積部分については外注していると考えれば、それは外注のひとつに過ぎないのかなとは思いました。

うえむら 外注のひとつですね。それを上手く使っているなら良いけれど、ということですね。

こにし ただ、多くの現場ではあまりそうはなっていない。本来と逆の情報の非対称性が生じてしまっていて、中の人が一番よく知っているはずなのに、いつの間にか外注の方がよく知っているという状態が発生して、非常に食い物にされている気はします。

うえむら そう。ブラックボックス化していますよね。それは行政対コンサルのブラックボックスの問題で、次のP182では市民対行政のブラックボックスが書かれている。「年金受給者に送られる書面のなかにかれらを混乱させるための意図的な誤りが盛り込まれていて」というくだりは、実は持続化給付金でこういう問題があったらしいですね。

個人事業主たちに申請させるけれど、ある要件を満たしていないと常にリジェクトされてしまう。厳密に言うと行政用語では「却下」と「棄却」は違っていて、「却下」は形式要件で突き返しているもので、「棄却」は中身を見た上で要件に合致していないという処分なのですが、持続化給付金では「却下」が繰り返されて、「形式的要件が整っていないから、整えてください」というやりとりが生じて、個人事業主側が、なぜ却下されているのか全然分からなくて、「ここが違うのか?」とちょっとずつ修正して再申請するのだけれど「そこじゃないです」と却下されて「じゃあどこが違うか教えてくれよ」と言っても「それを教えると詐欺に繋がってしまうので教えられません」というしょーもないクイズをさせられていたという。

しろくま えー。マジでしょーもないですね。

うえむら それは行政も儲けるためにやっている訳ではないけれど、税金を無駄に使わないようにというインセンティブはあって、そこでブラックボックス化を温存してしまう部分はあるということだと思いました。

こにし そういうのがシステム化で良くなればいいなとは思いますけれど。記載内容が適切な内容を含んでいるかどうかを役所が口頭で言ったら問題かも知れないですけれど、いくつかのルールを設ければ申請の段階で弾けると思うので。

うえむら それをすると、個人事業主はAIにリジェクトされることで依然として傷つくけれど、役人の精神は、無意味なクイズの出題を強要されずに済むので、毀損されずに済むけどね。

こにし もう少し親切な情報出しが出来るような気もします。どこまでがOKでどこからがアウトか、みたいなのは。

うえむら 今は持続化給付金の話をしたけれど、生活保護では常にそういうことが起こっていて、水際対策で、1か月に何件以上通すな、みたいなノルマを与えられている。本当に困窮している人に対して「いやいやダメです」と言って、水際対策で申請させないという違法行為が横行している。それは違法行為で、生活保護支援団体も問題視しているけれども、役人も当然それは問題だと思っているし、困っている人に手を差し伸べたい。だけれどもそういう矛盾した財政要求があることで、現場レベルでリジェクトしないといけないという精神の毀損が生じています。

しろくま なるほど。それは構造的問題ですね。

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