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何故か1泊することになった釜山 その5

 前編からカナリ間が空いてしましましたが、交通機関トラブルから予定が変わり1泊することになって色々と見ることができた2017年の釜山の街のことを、つらつらと書いているシリーズ。忘れないうちに、書いていきましょう。

 そんなこんなで1泊して朝を迎え、釜山の現代史が積み重なった「山の街」を見てきた午前。帰国便の時間もあり、あまりゆっくりもしていられずバスで麓に降りてきました。午前中に見たのは旧日本人居住区の「つづき」的なエリアを朝鮮戦争の避難民が急遽開拓したエリアでしたが、山を降りた麓に拡がる市街地は、中央洞。その地名は、元は日本人街の中央だった場所から来ている訳で、さてこの経緯を、今ここにいる人たちのどれだけが知っているんだろうか…などと思いながら、ある市場へ向かいます。

 向かったのは、国際市場。
 名前はえらくワールドワイドなものですが、まあ、そういう市場だったんですよね。朝鮮戦争での大混乱を経て、朝鮮半島全域からの避難民が押し寄せ、また一時は国連軍(主に米軍)の絶対防衛地にもなっていた釜山には、ヒトだけでなくモノも、押し寄せます。駐留軍は世界の様々なモノを持ってきて、そのモノを、生きるためにどうにか入手し、生きるために、日本人が居なくなった場所に皆が集まり売った、それが「国際市場」です。

 様々な人が、生きるために集まり、モノを売った場所。今は釜山を代表する観光地のひとつになっていますが、その経緯は、第二次大戦後の韓国が、如何に翻弄され、そこからどう這い上がってきたのかの歴史が、刻まれたものでもあります。映画「国際市場」を見たあとに訪れると、そこに並ぶ店のそれぞれを、感慨深く見てしまいます。

 映画「国際市場」は、朝鮮戦争後に韓国が経た様々な「歴史の場面」を、紡ぎ合わせた映画。祖国分断で逃げてきて帰れなくなる人、生き別れとなる家族、そんな中で死になる市民。そして戦争が落ち着いてからも生き延びるため国策(西ドイツへの炭鉱夫・看護婦派遣やベトナム戦争への関与)に振り回される人民。そして、その先にある「生きていくための場」になっていた、市場。韓国の多くの人が体験してきた歴史を、この市場の名に賭けて映し出されたスクリーン。これを見た後に行く国際市場は、感慨ひとしお…

と言いたいところだけど、完全に観光地になってましたw

 時間もあまりないので市場をさらっと見て、隣接する富平市場もチラ見しながら、次の場所へ向かいます。

 少しだけバスに乗り、東亜大学のキャンパスに。あぁ、ごく普通の、韓国の街だ…。

 目的は、まちあるきではなく左に写る電車。

 この電車は、釜山市内を1968年まで走っていた路面電車の、唯一の保存車。そして戦後韓国の苦難の歴史を語るモノでもあります。

 日本統治時代は多くの(ほぼ全ての)事業は日本人が運営したり関わったりしていましたが、第二次大戦後の急速な日本人引き揚げにより、事業継続にかかる引き継ぎも出来ないまま韓国人が代替することになり、インフラ事業でも技術面での断絶などで大きな影響が出ていたそうです。そこに朝鮮戦争での荒廃も加わり、かなり厳しい状況に…。韓国を支援するアメリカはインフラ再整備の一環としてアトランタ市・ロサンゼルス市の路面電車の余剰車52両を韓国へ譲渡し、車両の荒廃が著しかった釜山に30両導入しました。韓国の戦後復興を支えたアメリカ支援電車の、唯一の保存車なのです。

 木とペンキの薫りが漂ってきそうな、アーリーアメリカンな車内の元アトランタ市電。こんな電車が、避難民で溢れかえる釜山の街や戦闘で破壊されたソウルの街を走り、暮らしを支えていたのです。日本人が日本人街に敷いた路面電車の線路を、戦後はアメリカ支援電車が走り、韓国人の新しい時代の暮らしを支える。歴史とは、いろいろと、因果が巡るものです…。

 その歴史の因果を見るのが、この日のテーマ。電車の次に、向かいます。近くのバス停からマウルバス(マウルは村とか集落という意)に乗って、暫しの山登り。

山へ登る小さなバスは、観光客と地元のハルモニ(おばあさん)とで大賑わい。降りるにも困るほどの混雑で、あ~どうしようと思っていたら前のハルモニが「내려?」と。そして「여기 일본인이 내려라고~!」と。降りる?あらまここの日本人が降りるってよ~!と周りに知らせてくれ、降りられました。ハルモニー、コマッスミダー!ありがとう!

 小さなマウルバスから這い出したのは、山の中腹。朝に訪れた「山の街」とは、また違った歴史がある場所なのです。

 ここは、 釜山市西区峨嵋洞2街。「碑石文化村」との通称がある地区で、最近は観光地として訪れる人も増えてきているところ。碑石かぁ…、なにか古跡とか記念碑的なものがあるのかな、と思われるかもしれませんが、碑石とは、これのこと。

 え?ただの石垣?
 そうですね、石垣です。但し、この石は…。

 ここは、元日本人墓地。碑石とは、墓石のこと。日本人が居なくなり無主の墓が建ち並ぶこの地に、やってきたのは朝鮮戦争の避難民。着の身着のまま逃げ込んできた人たちも、どうにかこの釜山で生きてゆかなければなりません。そのような人たちが、墓を、マウルに変えたのです。深い、深い、因果の街。それについては、別に書いています…。

 いろいろと思いを巡らせながら歩いたマウル。帰りのバスから見る釜山の街が、また、違って見えるようになるのです。

 そうこうしているうちに、いよいよ帰国便まで僅か。最後は、気を取り直して、ごはん食べましょう。パンモゴッソ!

 ホテルに預けていた荷物を受け取り、釜山駅にあった冷麺屋で、歩き疲れた身体に喝を入れます。甘酸っぱ辛い、ピビンネンミョン。マジェマジェして、食べます。この手の冷麺って、見た目よりボリュームあるんですよね。肉もしっかり入ってるし、麺も、かなりしっかりと。あぁ冷たいけど汗がでる辛さ…

 そんな冷えた身体と燃える口内を静めてくれるのが、このユクス。牛肉のスープで、冷麺屋は大抵無料で自由に飲めます。ホッとする味と温かさで、また冷麺に挑む気力が湧いてきます!

 ということで、この旅最後の韓国食を食べ終え、向かったのは釜山駅裏にある「釜山港旅客船ターミナル」。今回は、船で、帰国します。

 国際船が停まる港、あぁ、旅情あるわぁ…と一人なんだかロマンチックな気分。この2日間の濃いめの経験を、うっすら、潮風が和らげてくれるような、そんな気もします。

 さて土産も買い、いざ、搭乗。船で国境を渡るのは、はじめて…。

 ワクワクしながら通路を進むと…

 どっかで見たような桟橋…。あ、淡路島への高速艇のりばだ、この感じ(笑)。

 うん、船体にFUKUOKAとかBUSANって書いてなかったら「淡路・岩屋ゆき高速艇まもなく出航です」と言われても何ら違和感ない。なんか、国際移動をする気にならないぞ(苦笑)。それに船内は完全にJR九州。もしかしてココもう博多港なんじゃね?などと思うひととき。

 とまあ、そんなこんなで福岡・博多港へと向けて出港。短かったけど、とても濃かった2日間。アンニョン、釜山!

 また、行きます。釜山の街に。いつか…。

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