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本と、それにまつわる場所と人の記憶

上京してきてはじめて住んだ家の近くに、お気に入りの場所があった。

そのお店は、新中野駅から歩いて5分ほど。中野通りの途中、青梅街道と交わる交差点から南に向かって少し歩いたところにたたずむ、こじんまりとしたカフェ。歩道に面したガラス窓には、画用紙にクレヨンで描かれた、ポップなタッチのワニの絵が貼られている。

そのカフェの横を通りかかった瞬間、おそらくいちばんに目に飛び込んでくるもの。それは、数えきれないくらいの本の存在だ。店先には天井まで届く背の高い本棚が据え付けられていて、小説の文庫本から世界史の図説、雑誌まで、多岐にわたるジャンルの書籍がひしめき合うように並んでいる。さらに、そっと奥の様子をうかがうと、カウンターの向かいの壁はなんとすべて本棚になっている。

キイ、と小さくきしむドアを開けると、「いらっしゃいませ」と、眼鏡をかけた店長さんが、静かに優しく出迎えてくれる。橙色の照明に照らされた店内には、5席ほどのカウンターと、2人掛けのテーブルがふたつ。本棚のすぐそばにあるテーブル席に腰を下ろし、ホットカフェオレを注文する。

カイマン

カウンターの奥から漂ってくるコーヒー豆の香ばしい匂いを楽しみながら、ずらりと並んだ本の背表紙をひとつひとつ手に取りながら眺める。村上春樹、山田詠美、池澤夏樹。どの本にも興味を惹かれ、なにを読もうか迷ってしまう。幸せな時間。
悩んだ末に一冊を手に取り、運ばれてきた熱いカフェオレをすすりながら、ページを開く。

お店に並ぶたくさんの本の7割くらいは、店長さん自身のものらしい。自分の家におさまりきらなくなったからカフェを開いたようなものです、と話す店長さんは、目に留まった本について話しかけると、必ずこたえてくれる。村上春樹の『ノルウェイの森』は、なぜか上巻と下巻が2冊ずつ置いてあった。本が読めるカフェを開くのだと周りの友人に話したところ、やたらと村上春樹の本が集まってきたのだそう。

隣のテーブルでは、チワワを連れた女性がカレーを食べながら店長さんと談笑していた。

「僕、『ノルウェイの森』を若い頃に読んだときは、主人公の男に対して、なんてクズなんだ!っていう感想しか生まれなかったんですよね。」

「確かに。あんまりよく覚えてないですけど、そんな印象だったかも」

「でも今読み返してみると、どうしようもない奴だなあって印象は変わらないけれど、そういう時期もあるよねっていう、愛しさみたいな感情も持てて。」

「時間が経ってからもう一度読むと、いつの間にか自分の目線が変わっていておもしろいですよね」

このお店では、いろんな人が思い思いの時間を過ごしている様子を見かける。この前は、煙草とお酒を片手にMacを開いてなにやらカタカタと作業をしている男性がいた。いつも店長さんに話しかけている常連らしい気の良いおじさんとは、何度か顔を合わせた。
そのおじさんと店長さんの会話には、気づいたら自分も加わっていた。おじさんは、「本が好きならこれは是非読んで!」と言って、名前も連絡先も、住んでいる場所も知らないにもかかわらず、そのとき持っていた西尾維新の本を貸してくれた。読み終わったら、このお店に返してくれればすぐ取りに行くから、と。お店を通じて本の貸し借りをする。素敵なアイデアだ。


しばし読みふけっていたら、気がつけば時計が23時を回っていた。あっという間に閉店の時間。二口ほど残っていた冷めたカフェオレを飲み干してお会計を済ませ、手元の本の開いていたページにしおりを挟む。それは以前、次に来た時に何をどこまで読んでいたのか分からなくなってしまいそう、とつぶやいたときに、店長さんが「これ使いますか?」と言って差し出してくれたものだ。

「今日は何を読んでいたんですか?」

「池澤夏樹さんの『キップをなくして』です。いっぱいJRの駅の名前がでてくるんですけど、東京に引っ越して一年経って、ようやく地名や位置関係がわかるようになったんで、想像しながら読むとおもしろいですね」

「ははは。実際の風景を知っていると、読んだ時の印象もまた変わりますよね。池澤夏樹さんの本がお好きでしたら、他の作品もあるんで是非」

「ありがとうございます」

読みかけの本をいつもの席に近い棚に戻し、「ではまた、おやすみなさい」とあいさつをして、店を後にする。


週に何回も訪れていたあのお店は、1年半ほど前、いろいろな都合があってお店をたたんでしまった。それから数カ月後、自分もそのまちから引っ越すことになり、お店があった場所が今どうなっているかはもうわからない。

通いつめるうちに店長さんやそのお友達ともよく話をするようになり、仲間内での読書会に呼んでもらったこともある。けれど、お店がなくなってしまってからは、なんだか気後れしてしまって参加せずじまいだ。


これは、本と、本のある場所がつないでくれた人との記憶である。
場所とともにそのつながりは消えてしまったけれど、壁一面に並んだ本棚の光景と、それらについての店長さんとの会話の断片を、今でもたまに思い出す。


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日本仕事百貨「文章で生きるゼミ」4期の最終課題を編集したものです。
講師のナカムラケンタさん、意見をくださった受講生の皆さん、ありがとうございました。

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