掌編 『蜘蛛』

リサは初めての女ではなかった。僕らは大学で知りあった。彼女は僕の4歳上で、2年留年していた。どうやって知りあい、どのように仲を深めたのか、何年も経ったいまとなってはあまり覚えていない。
彼女に訊ねたことがある。
「なに言ってるの。バレンタインデーの前日、あなたが同じゼミの池畑くんと一緒に、バレンタインに何か欲しいからって、私と、たまたま一緒に食堂にいたレミに話しかけてきたんじゃない。昼間から酔っ払って、印象最悪だったわよ」
「ちなみに、何時だったか覚えてる?」
「14時37分」と彼女はパズルゲームをしながら、こちらも見ずに答えた。

リサにとって僕は、初めての彼氏らしかった。誰かの研究で、人間は平均して1日に2つ嘘を吐くらしいが、彼女は例外である。おそらく生まれてから1度も嘘を吐いたことがないのではないか、と真剣に思う。
かといって他人の感情を考えないというわけでもなく、穏やかで心優しく、食べものの好き嫌いが激しく、ひどく潔癖症であることを除けば、僕にはありあまる人だと思っている。
そういうわけで僕が大学を出て、ほどなく同棲し始めた。
僕は大学を出たが、彼女はまだ大学にいた。僕らの大学はいわゆる芸術大学で、12年まで留年できたし留年せずに卒業する僕のような者の方が圧倒的に少なかった。
僕が留年せずに卒業できた理由は、芸術に興味がなかったからだろうと思う。入る前から興味がなかったわけではなく、正確には、興味を失ってしまったという方がふさわしい。
大学に入学するうえで、必要なのはその希望学部の作品だけだった。写真なら写真、詩なら詩を大学に送り、審査を待つのだ。
僕は自画像を描いた。高校1年からその大学に入ると決めていたので、勉強などせず、ひたすら自画像を描き続けた。
結果、C判定(この芸術大学には、同じ合格でも評差が明示された)で、最低ではあるが、入学が許された。
嬉しかった。僕はまだまだ進むことができるのだ、と思った。その大学に進むのは僕だけだったが、第1希望だった国立大学に合格していた同級生の彼も、写真を送った。
「2歳の従兄弟と正月に会ってさ、従兄弟が俺のスマホで勝手に撮った写真を送ってみたら、A判定だったんだよ」
僕に聞こえるように言ったのかどうかは分からないけれど、とにかく、僕はそのとき、芸術に何の興味も湧かなくなってしまった。

こだわりないので、馬鹿な教授の頓狂な指導法通りに絵を描き、僕はA判定で卒業した。
リサにはそのことを言っていないが、おそらく気づいていると思う。僕が旅行会社に就職したとき、お祝いこそすれ、絵や大学のことは一切触れなかった。
リサは写真を専攻していて、花の写真しか撮らなかった。僕は写真のことはよく分からないので、いつも「綺麗だね」と微笑むしかできなかった。リサは嘘が嫌いだった。僕はリサと出会うまで、とくに女の子には、嘘ばかり吐いていた。だから何もかも見透かしそうな大きな丸い目に、初めは戸惑い、毛嫌いしていたが、嘘のない関係というのはずいぶん心地よかった。
だから僕は、彼女にひとつしか嘘を吐いたことがない。

ある日、僕が仕事から帰ると、彼女がすぐに玄関に来た。盆も明けたというのに、蒸し暑い日だった。
「ねえ、LINEみた?」
「いや、見てないけど」
彼女は眠るのが好きで、僕が帰る時間には必ずカメラと花を横に、くたくたになって眠っているのでかなり驚いた。
「きみ、いつも見ないんだから…まあ、いまさら言っても仕方ないか」
「どうしたの」
「その、エアコンつけてたらね、出たのよ」
「虫?」
「うん…」
「どんなの」
「こーんなね、おっきな蜘蛛」彼女は小さな手を大きく開いた。
「アシダカグモだろう」
「アシダカグモ」と彼女は落ち着きを取り戻そうと、ゆっくりつぶやいた。彼女は毎度、虫のこととなると、普段穏やかさを失くし、発狂するのだった。ことさら蜘蛛が苦手だと何度か聞いたことがあった。
「益虫なんだよ。ハエとかゴキブリも食べてくれるし。出す液に消毒作用があるから汚くないし、こちらから何かしなければ攻撃もしてこない」そう言って僕は、部屋のほとんどを埋めているベッドの脇にリュックを降ろした。
「え、じゃあ無視しろっていうの?」
「まあ、放っておいていいんじゃない?害虫がいないと分かればそのうち出て行くよ」
「いないわよ、うちに害虫なんて」
「だからそのうち出て行くって。学生時代、コンビニでバイトしたとき出てきたことがあってさ。すばしっこいからすぐ逃げられたんだよ。あとから調べて、アシダカグモって知ったんだけどね。1年くらい経って、倍くらいの大きさになって出てきた時は笑ったね。コンビニなんてゴキブリの……」
「ねえやめてよ」と彼女は叫んだ。「もう分かったから。お願いだから蜘蛛を殺して」
「どこにいったの?」
「分からない……さっきここにいたんだけど」
「ねえ、勘弁してよ。もう0時も近いのに。仕事で疲れてるんだって」
「私、寝れないわよ、こんなところで。いいの?きみは寝られるの?」彼女は涙ぐんでいた。
「だからいつも言ってるだろう。土やら花やら葉には虫が湧くんだから」
「だって仕方ないじゃない。じゃあ外で写真撮ってろっていうの?」
「やめればいいだろう」
「なに?」
「どうせ評価されないのに、花なんて撮り続けてどうなるっていうんだよ。バイトもしないで。食って寝て写真撮ってるだけで生活し続けられるなら俺だってやるよ」
彼女の顔が強ばった。振り向くと、壁にアシダカグモがいた。僕は苛立ちをそのままに、さっきまで背負っていた足下のリュックを壁に叩きつけたが、当たるはずもなく、手足を素早く動かし、天井に張りついた。
彼女は取り乱し、絶叫した。
「うるさい。近所迷惑だからやめろ」と僕は怒鳴ったが、聞く耳を持たなかった。
害虫スプレーをかけると、蜘蛛は動かなくなった。しかし、いくらかけても微動だにせず、掃除機を持ってくるとまた音を立ててがさがさと動き、今度はベッドの下に入りこんだ。
蜘蛛はいくら追っても逃げるばかりで届かなかった。ベッドは動かされ、彼女は興奮のあまりゴミ箱を蹴り飛ばし、リュックの中身は散乱し、投げられた衝撃でゲーム機の画面が割れた。洗面所は水浸しになり、シャンプーやらコンディショナーやらも散乱した。台所に向かった蜘蛛に、彼女が皿を投げようとした手を止めると、換気扇の隙間に入りこんでしまった。
彼女は僕に、声にもならない言葉を発すると、しゃがみこんで泣き崩れた。時刻はもう2時近くなっていた。
嗚咽しながら彼女は、気に入りのバッグだけ持ち、家を出た。どこに行くのか聞く気力もなく、僕は次の日、高熱を出し会社を休んだ。
凄まじい高熱が続き、何もできないまま、3日目に震える手で救急車を呼んだ。そこからの記憶はほとんど無い。5日経ってようやく意識をはっきりと覚醒させることができた。着信はすべて会社からのものだった。開口一番、係長から退職を勧められた。どうにか懲戒免職にはしないように工面するから、とのことだった。
自宅で1週間安静にしなさい、とその後2日の入院の末、医者は診断書と一緒に家に帰らせてくれた。ぐちゃぐちゃになった家の、ベッドの脇にはカメラが落ちていて、そのカメラにあの蜘蛛が張りついていた。慌てて彼女に電話をかけてみるふりをしたが、その番号はもうずいぶん前に使われなくなっていたようだった。

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