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「認知が進んだ」で済ませずに、問題を定義して「言語化」し、「中核症状」を軸に議論する

■ 認知症の症状


認知症の症状は「中核症状」「周辺症状」がある。

中核症状は、認知症の方に共通する症状である。

記憶障害
見当識障害
実行機能障害
判断力低下
失語・失行・失認

の5種類があると言われている。そ

一方、周辺症状は人それぞれ異なる。

同じところをウロウロと歩く
物が見つからないと「盗まれた」と憤慨する
不安や興奮、抑うつ状態になりやすくなる
物事に対して意欲がなくなる
幻覚や錯覚が生じるときがある  等々

周辺症状はその人の生活環境や経歴なども含め、複合的な要因で生じる。

中核症状と周辺症状について細かく知りたい方は、「認知症 中核症状 周辺症状」と検索すれば分かりやすい説明が出てくるので、そちらを参照願う。


■ 「認知が進んだから」で済ませていないか?


認知症の基礎症状について改めてお伝えしたのは理由がある。

それは、このような症状は介護の知識として体系化されているにも関わらず、介護現場を見渡すと、そのような知識をすっぽ抜けたまま日々の支援を行っているように見えるからだ。

特に認知症の高齢者の状態に変化があったとき、特に悪い状態に落ち込んだときにありがちなのは・・・

「認知が進んだ」
「認知症状が進んだ」

・・・という言い方をする介護者は多い。

もちろん、大雑把に言えばそうなのだが、介護の専門職として認知症の高齢者の支援を行っている者でも、この言い回しで全てを終わらせることは珍しくない。

まぁ、現場での雑談の中でなら許容できる。
しかし、申し送りやサービス担当者会議、カンファレンスなどの介護従事者が揃っている場面においても利用者の変化が取り上げられると「〇〇さん、認知症状が進んできましたね~」で終わることには疑問である。

「認知が進んだ」「認知症状が進んだ」に主軸に据えて、「対策はどうしましょう」「どう介助しましょう」と方法論ばかり議論するのは論点がズレている。

目の前に起きていることを表面的に捉えて、それに対してどうするのかを考えるのであれば、それは介護従事者でなくてもできる。


■ 問題を定義し「言語化」するのがプロ


介護のプロであれば、認知症の高齢者の状態やそれに伴い起きている出来事・問題に対して、知識と仮説を総動員して検討するべきだと思う。

例えば、今までは自分でトイレに行って排泄することができた方が、少し前から失禁していることが増えてきたことを議論するとしよう。

ここで「もともと認知症であり、認知症状が進んだから失禁もするようになったのだろう」としてしまうと、「リハビリパンツを検討しよう」「尿取りを入れてはどうか」といった対処ばかりに目が向かってしまう。

ここでまず重要なのが、「問題を定義する」というプロセスだ。

この例においては「トイレで排泄できた方が、なぜ失禁するようになったか?」である。

もしかしたら、トイレの場所が分からなくなっているかもしれない。
そこから「なぜ、トイレの場所が分からなくなっているか?」という話にもなる。場所や空間を認識する能力が落ちているのかもしれないし、トイレ周辺に荷物を置いてドアが見えなくなっているのもしれない。

あるいは、膀胱に尿が溜まったことを、脳に伝達する機能が落ちているということも考えられるし、それに類する感覚が鈍くなっている可能性もある。
認知症というか老化としての身体機能の低下という見解だってあろう。

このように議論にあたり問題を定義して、そこから仮説を展開していくことが重要であり、それを「言語化」することがプロフェッショナルである。

しかし、この「言語化」を省略してしまうことは少なくない。それぞれ知識として何となく思いついているものの、「認知症状が進んだから」として問題の本質から目を背けて対処ばかり考えがちである。

もちろん、問題を定義して立てた仮説が間違っていることだってある。しかし、それは無意味ではない。色々な要因の1つが違っただけの話であり、次の仮説を検証すれば良いだけのことだ。これは介護に限った話ではない。


■ まず見るべきは「中核症状」


また、認知症ケアにおいて問題を定義して仮説を立てるにあたり、介護のベテランであっても意外に見逃してしまいがちなことがある。

それは「中核症状」である。

冒頭で認知症における共通症状としてざっくりお伝えしたが、介護現場における協議を見ていると、周辺症状ばかり目にして中核症状について全く焦点が向いていないことがある。

周辺症状はいわゆる問題行動と呼ばれるものであるため、誰もが目につきやすく話しやすいテーマである。そして、その問題行動を何とかしようと躍起になる。しかし、結局は一時しのぎの対策であり、場合によっては認知症を悪化させることもある。

そこで今一度、中核症状に目を向けていただきたい。
出来事や現象にはちゃんと源流がある。

例えば、上記の失禁するようになった方のケースで言えば、その方は中核症状として「記憶障害があった?」「見当識障害の傾向はあった?」というアプローチもできる。

トイレの場所が分からないという仮説に立ったとき、記憶障害として「トイレの場所を覚えていない」のと見当識障害としての「トイレがどこにあるか分からない」のでは、その先の対処は変わる。
あるいは「トイレで排泄するという行為が分かっていない」「トイレに入っても便器そのものが分からない」という可能性だってある。

これらの検討は周辺症状では掴めない。だからこそ、源流である中核症状のいずれかに焦点を絞ることは重要かつ有効なのだ。


――― 何も介護現場は知識を無視して安直に「認知が進んだ」といって短絡的に介護している、なんて言いたいわけではない。

本記事で伝えたいことは「言語化」と「中核症状」へのアプローチである。

ちゃんと事象や原因を言語化することで議論や検討の幅は広がるのだ。それを「みんな分かっているだろう」として「認知が進んだ」とするから、時に議論がまとまらなくなったり、支援方針がバラバラになってしまう。

しかるべき知識があるならば、「最近失禁が続いておりますが、トイレの場所が分からない可能性があります。それは以前から見当識障害の傾向があることから~」といったようにロジカルな議論を展開できるはずだ。

そこから対策だけでなく日常生活や介助中の観察ポイントだって定まってくる。仮に間違っていたとしても、そこから得られる情報はちゃんとある。

認知症ケアを検討する際には、問題を定義し「言語化」すること、そして「中核症状」が問題解決の源流であることを再確認おいていただければ幸いである。


ここまで読んでいただき、感謝。
途中で読むのをやめた方へも、感謝。

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