2012年03月24日 人類滅亡へ向かって/04月13日 『エロティシズム 』 (バタイユ哲学)

2012年03月24日 人類滅亡へ向かって

「皮肉にも我々が人間として希求してきた「自由」や「人権」、「平和」といったポジティブな概念こそが、完全に無敵な悪魔、すなわち今日の<女>を生み出した。

 しかし、これらの概念は人間社会において普遍的かつ、人間精神そのものなのでもあって、共和国において、「自由」、「人権」、「平和」といった概念を背にして、さらに商業主義によって一躍もてはやされた、無知で残虐な精神の<女>の排他的情欲とその他の悪性を戒める術はもはや無いのである。

 (ラースンの思想はもっともなのだが、代替する我々人類を存続させ得る方法論が存在しないのだ。)

 この矛盾こそが、「理性」と人間そのものの限界であり、まさに人類滅亡へのトランジションなのである。

 人間は所詮動物なのであって、<女>に排除されて孤独死するような男はそれ以下に過ぎない。

 そしてそのような「寂しさ」と「憎しみ」、「怒り」で充満した怨念のみに包まれた惑星こそが、この地球ということになる。

 我々「理性」の魂は、死んで現実的な「理性」を手放さざるをえず、必ず怨念の魂になる以外ない。

 自殺やストーカー行為という孤立した、散発的な社会に対する、言ってみれば「人間的な」抵抗も、
この悪魔社会によって完全に抹殺され、封印される運命にあるのだ。」

 こんな時代で、若い女性が死んで私に涙を流すことができるかどうかわからない。

 私が飼っていた猫はあまりにも純心だった。だが、女は…。

 大病を患った、あるいは美しくなくても私に親切だった、あるいは不運に見舞われた女性なら、その死は悲しい。

 若い女性の死に対する罪は余りにも重い。だが、その死による悲しみは、動物よりも…。

 こんな時代で、若い女性に同情すべき何かとは何だろう?

 少し昔には生贄にさえ供された若い女性。しかし、今やその若い女性のための社会が確固として出来上がっているというのである。

 ある意味で力なき男は排除され、騙し取られ、社会の生贄に供される側となった。
   
 メディアは若くて美しい女を利用して大衆を洗脳し心を虜にして物を買わせようとする。

 ラースンに言われずとも、日本のメディアには悪意しか蔓延していない。

 だが私はただ頑(かたく)なに理性に従う。
 
 遠くない昔、明治時代には男性の頭に思い描くすべての女性が、自分を知っていた。

 しかし、テレビによって、我々は頭の中に手の届かない女の焼印を押されてしまった。

 現実と理想とのギャップはもはや果てしない。

 もちろん、女の方も(最近では美男美女だけが登場する非現実的なドラマや、EXILEなどを見ることによって)理想が高くなり、固定化された。

 頭の中の方こそがまさに理想であり、よって現実なのだと妄想する人間ばかりなのである。 

 こんな人間どもの方こそが、まさに男も女も焼夷弾によって焼かれて絶滅すべきだったのである。
 
 しかし、時代とは皮肉なもので、純粋な人たちの方こそを焼き殺して、生きる価値の見当たらない、見当たらなくさせられている人間たちの方こそを物を買わせて生かそうとする。

 皮肉にも、敗戦・被爆国において反戦と平和への願いは絶対だ。
  
 だがここにおいて、軍事的で非民主的な中国とロシアの増長は、今の悪魔主義的日本の滅亡を予感させるものとしては、確かに強い西からの救いの便りなのであり、この地上が数人の独裁者の手に委ねられるという悲劇もまた皮肉に皮肉を重ねたような、ほぼ確定したような野蛮な必然なのである。

 しかし、この独裁者たちこそが、日本の現状を救ってくれるというよりもむしろ、厭戦気分の我々を
奴隷の如く扱い支配して、かつての歴史の復讐を成し遂げようとしているのである。
  
「理性」 (モノ作りで高度経済成長を成し遂げた日本の男性の世界に誇るべき理性、電車の窓から見える街の建築物から医科学の高度な技術に至る文明まで、ほとんどすべて男が作り出したものである)は、女という「強い悪魔」によって騙し取られて、排除され、少子化・少数化された後で、中露の独裁者たちの奴隷にまで成り下がるという必然にあるのである。

 ヘーゲルの言う「歴史」、人倫の敗北が、我々の背後に存在する真の歴史・カントの言う「自然」である。

 私はただ「理性」の死を嘆く。
 
 親切で、自殺しやすい、純粋な「理性」の死を。

 人類は完全に終わったのだ。

 理性はもう古い。動物以下の野蛮・暴力こそがすべてだ!
 
 キリストのような「神」は単なる理想なのであって、決して現実でも自然でもないということだ。
 
 習近平、プーチン、日本の魅力的で無慈悲な女…。

 ただこれら「劣悪な忌々しい魂たち」こそがこの地上を支配する時がまさに近づいているというだけの些末な話である。

 まさに彼らによって、「神」こそが悪魔であり、我々悪魔こそが「神」であるという、ヘーゲルのいう「主人と奴隷」の話に近い現象が近いうちに見受けられる。

 世の中には「絶対」などない。

 日本人男性の多くが選んできた「自殺」という選択肢は、今思えばまさに最善のプランだったのかもしれない。大都会東京にも大震災が近いという話もあるが、世の中そんなにうまくはいくまい。

 自然は我々が一方的にいじめられ、苦しみ、さいなまれ、孤独死、自殺することを望んでいるようにすら思える。そんな自然でも私は自然のみと対話したい気分だ。他に逃げ道などないから。

2012年04月13日 『エロティシズム 』 (バタイユ哲学)

「子を産まない日本の腰抜け臆病女共の無意味で不親切な人生を笑え!」

 かの三島由紀夫も心酔したフランスの有名な哲学者バタイユの名著「エロティシズム」を元に女性本来のあり方について述べたい。

 暗くて利己的で排他的で矮小な精神を持つ第二団塊世代の女とは、来たるべき時代に生まれてくることのできなかった、たとえば私や私の友人たちにいたであろう子供たちのような、第三団塊世代喪失の責任を被るべきである。

このラインより上のエリアが無料で表示されます。
 すなわち、彼女たちとは、誰もがそうするように自分の身を社会に捧げるという自己犠牲を怠り、理性を以って働く男性の唯一の拠り所である愛と喜び、さらには来たるべき生命をも奪ってきた。彼女たちは、男たちに対しては日常的なコミョニケーションすら拒絶してきた。

 そして、その悪魔以下の愚かさを以って、さしあたって性愛以外何の価値がないにも関わらず、自分自身の唯一の存在価値を出し惜しみして、社会にコミットしない、身も心もシャットダウンした、根暗で利己的で、全く生きる価値のない反社会的な意識の世代であるとも言える。

 その点、自ら進んで自分の美しい肉体を社会的な生贄に供する、たとえば原紗央莉のように突出して美しいAV女優や風俗嬢は、美しい自己が男性に供されることで得られる再帰的な悦びを受け入れることのできる、いくぶん社会的な存在と言える。
 
 よって、男と話すことすら忌避するような、美しいが行き過ぎた、ドケチなまでに矮小な潔癖さを持つ病的な第二団塊世代の女に比べれば、原紗央莉らAV女優や風俗嬢の社会に対する身の呈し方の潔さこそ、逆に認められるべきである。

 ぶっちゃけ女とは、多くの男と関係を持っても非道徳的であると言われるし、また非常に美しいにも関わらず、一切の男と会話すらしなくてもまた反社会的である。しかし、道徳それ自体が、そのようなある種の矛盾を孕むものだということをヘーゲルは「精神現象学」で述べている。

「女性は服従することによって、みずからの表面に対する深みを見いださなければならない。」   
 (ニーチェ著 氷上英廣訳 『ツァラトゥストラはこう言った』(上)より)


「…女たちは、本質的に、…つまり流出という意味でのコミュニケーションに捧げられている。
…親たちは女たちを贈与しなければならないのだ。」
(バタイユ著 酒井健訳 『エロティシズム』より) 

 たとえば原紗央莉とは、圧倒的な美を以って、その社会的稀少価値を惜しみなく晒す、その自己犠牲的な、ニーチェの言う「服従」、ニーチェに近いと自認するバタイユの言う「流出」こそが、まさにエロティシズムの精神であり、すなわち、女元来の価値、あり方、一切、そのものなのである。

 確かに今日の女子高校生を含む露出女や、痴女は全く称えられるべきではないけれども、そういった女側の自己満足だけで終わるのではなく、そうではなくて、その精神が若いうちから体ごと男に向かって行かなければ、少子化の観点においても、多くの若い男が働く意欲をなくしてニート化する観点においても、社会というものは成り立っていかないのである。

[彼女のいるニートなんて聞いたことがないし、日本で有名な園子温や古谷実の創作物のように、カネも仕事もない、見た目も良くない男にかわいい女が積極的に関わってくるなんて話は、宝くじのような確率の創作の中だけの完全な絵空事である。]

 私と同世代である、お世辞にも美しいとは言えない木嶋佳苗でさえ、「女である」というだけで、幾人もの男が殺到し、大金を貢いで、場合によっては命を失う――。

 そして、いかなる男も、日本においてはその自己犠牲がマックスの一人である原紗央莉のような美とエロティシズムとを至高の喜びと感ずるであろうし、また逆に、いかなる男も、美しくない年老いた女のフェミニズムの議論に関わることはそれに比べれば全く不毛で無意味だと思うのである。
 
 このように女に対してだけは、議論は不要であり、「社会的自己犠牲」を前提に訓育するのみなのである。

※こちらは2012年03月24日にアメブロで投稿された、現在非公開の記事となります。
 あくまで一哲学者の記録として保存することを目的とした記事であり、2020年現在の社会情勢にそぐわない部分があることはもちろん、私自身、道半ばの時期で、今の私自身とは異なる点も多々あり、ニーチェに影響された大変厳しい文章となっていますことを予めご了承下さい。


2


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?