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誕生日

先日、一つ歳をとった。

30も後半になると、無事に歳をとることができるというありがたさを感じるようになった。

昨年は、日原鍾乳洞に連れて行ってもらった。涼しいところに行きたかったのと、非日常感を求めて冒険をしたかったのだ。近くの川に足だけ入って涼み、帰りに採れたて山葵を買って帰った。緑の中でたくさん空気を吸って、とても気持ち良かったのを覚えている。

近年の私は、物というより、思い出が欲しい。

今年のふみさんの誕生日はそれこそ、自粛の渦中だったため、家でできることで祝おうと、朝から夕飯まで、少し張り切ってつくった。
物で残りはしないけど、気持ちは十分込めた。それが伝われば良い、という自己満足に過ぎないかもしれないけど。

ふみさんも、初めて牛すじの赤ワイン煮込み、ミネストローネに挑戦し、私の好きなじゃがいもの素揚げと一緒に、ディナーを用意してくれた。2時間弱かかったと言っていた。

長生きができたとして、「あの年は、あれをつくってくれたよね、ほら、あれ」と、具体的に思い出せなくなっても、つくってくれたという思い出は忘れないでいたいなあと思う。

(カ)

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そもそも若い頃は結婚すると思っていなかったし、世のカップルが誓う「永遠」なんていうものはない、と信じている人間だった(今も)。
結婚する頃にも頭の中に鳴り響いていたのは、友部正人さんの『反復』という歌のフレーズ、「このぼくを精一杯好きになっておくれ/そして、今度の夏が来たらさっさと忘れておくれ」であり、そのくせして鶴岡八幡宮の境内で「永遠」を心に期す誓詞を読み上げていたのだから、何とも罰当たりな人間である。
それでも、あの歌が語るような、一瞬一瞬の積み重ねとしての「反復」というものはありうるのだ、という当たり前のことが、最近ようやくわかってきたかもしれない。

と、ここまで書いていてふと気づくと、2日ぐらい前に妻のお母さんから届いた荷物、その中に入っていた、2枚×15袋入りの煎餅がきれいさっぱりなくなっている。いや、妻の好物として入れていただいていたものなので(私のためにはビールを入れていただいていた)、特に何もいうことはないのだが、こんなにきれいさっぱりなくなるものかと思うほど、煎餅は跡形もない。
という私は私で、先ほどドラッグストアで買ってきたブルボンのチョコ菓子を、一瞬でたいらげている。届いたLINEによれば、妻は仕事で丸の内から新宿へ移動中だそうだ。
夜は焼き魚にしよう。と思ううちに、また何かが「反復」していく。

(文)

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