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みつからない店を探して


酒を呑むと必ず思い出す店がある。行ったのは一度だけ。もう一度行ってみようとその場所を訪れたことがあるが、その店は見つからなかった。したたかに酔った後にたまたま見つけて訪れた店だったし、場所の記憶が曖昧なのか、閉店してしまったのか。新宿三丁目の裏路地で、連なった小さなビルの一階にあるバーだった。濃い茶色のスチールの扉からは中は見えず、扉の表に小さな看板が掲げてあった。店の名前は憶えていない。けれど銀色の小さなプレートに、黒い文字で店名が書かれていたのを覚えている。

それは、それまでの人生で初めてと言っていいほど憂鬱な時だった。つきあっていた女性が、他に好きな男がいると言って去っていった。一緒に遊ぶの、楽しかったんだけど、と、さっぱりした声で電話がかかってきた。俺はまじめにつきあっているつもりだったし、将来は結婚することを考えてもいた。

「一緒に遊ぶのが楽しかった」という言葉に、最初から軽いつきあいのつもりだったのかと聞くと、「そんなはずないじゃない?最初は何もわからないから。あなたを知っていくうちに、軽いお付き合いの気持ちになったのよ」と言われ、何も言えなくなった。値踏みされた結果、価値がないと言われたわけだ。

ほぼ同じ頃に、仕事でミスをした。最初は小さな勘違いだったのに、気がついた時には、いろんな人の手を経て取り返しがつかないほど大きくなっていた。そのダメージが大きすぎて、彼女が去っていったことの痛手をあまり感じなくなったほどだ。

どうやってミスを取り返すか。それには、いちばん苦手としている上司の力を借りるしかない。いつも俺を見下し、冷たい目をしているその上司のことを考えただけで、胃が痛くなった。いっそのこと会社を辞めてしまうか。しかし辞めるにしろ、責任は取ってからでなければならないだろう。朝起きるのが辛く、食事をとると吐き気がする。当たり前のように、夜は酒に頼った。俺が子供の頃から、父親が家で酒を呑むたびに俺に「酒は楽しい時にしか呑むなよ」と言っていたのを思い出す。しかし、その時の俺は呑まずにはいられなかったのだ。

俺のミスを知って心配してくれた同僚が、仕事の帰りに呑みに行こうと誘ってくれた。ふたりで居酒屋で呑んだ。仕事のミスの件は、まだ上に報告していなかった。
早く報告した方がいい、と同僚は言った。分かっているけれど、どう言い出したらいいのかわからない、と俺は答えた。同僚は、報告の仕方を考えてアドバイスしてくれた。

今考えれば、同僚は俺を本当に心配していたのだと思うが、その時の俺は、素直に聞き入れられなかった。話しているうちに言い合いのようになり、気まずいまま店を出て、自分ひとりで歩き出した。途中、見つけた立ち飲みのバルに入ってビールを注文したが、周囲の客の喧騒に耐えられず、すぐに店を出た。家に帰るために駅に向かうのも嫌で、やみくもに歩いた。途中、コンビニで酎ハイを買って呑みながら。

憂鬱はどんどんひどくなり、足取りはどんどん怪しくなった。歩き続けるのに疲れ、ふらつきながら人の少ない路地に入って立ち止まった。その時に目についたのが、その店だったのだ。

いつもの俺なら、店内の見えない扉のバーになんて、気後れして入らないと思う。けれど、その時は何も考えずに扉を押し開けていた。

薄暗い店内。小さなその店には、カウンター席しかないようだった。カウンターには誰も客がいない。店のマスターなのか、カウンター内側で座っていた男が立ち上がり、俺を見て一瞬の間ののち「いらっしゃい」と言った。俺は急に酔いが覚めたように感じた。他に客もいないし、気後れしたのだ。

値段の高い店かもしれない。一杯だけ呑んで出よう。俺はそう思い、カウンターチェアに腰掛けた。

マスターらしき店の男は初老で、小柄だが、浅く日焼けして精悍な目をしている。
「どなたかに聞いて来られましたか?」と聞かれ「いや、通りかかって。もしかして、一見さんお断りなんですかね」と答えると「いえいえ、そんなことはないんですが、珍しいのでね」とマスターは言った。

そしてマスターは、この店にはメニューはない。けれど値段は相場で、高くはないはずだ。何か呑みたいものがあれば作るし、なければオススメを出している、と説明した。俺は、オススメを、と注文した。

カウンターの上に冷えたカクテルグラスを置き、シェーカーに氷を入れながら、マスターが言う。
「何か嫌なことでもありましたか?失礼だが、憂鬱なお顔をされていますよ」
「そうなんですよ」俺は素直に認めた。まったく知らない、もう会うこともないかもしれない他人だから素直になれたのかもしれない。「自分が嫌になっちゃって」

マスターは薄く微笑み、シェーカーを振って、キラキラ光る透明の酒をグラスに注ぎ、レモンを添えた。
「さあどうぞ」カクテルグラスをこちらへ滑らせながら男が言った。「ところで、この酒は、何色に見えますか?」

不思議なことを聞くな、と俺は考えた。どう見ても透明に見える。そこで、「色?いや、透明に見えますよ」と答えた。

するとマスターは「そうですか。それならあなたは大丈夫。明日から何もかも上手くいきます」と笑顔で言った。

なるほど。客に笑顔になってもらうテクニックなんだな、と、俺は考えた。憂鬱そうな客を慰めるために、このマスターはこういう話術を使うのだろう。

カクテルはほんのり甘くてさっぱりしており、俺は一気に飲み干して「美味しいですね」と笑顔で答えた。
根拠がないにしろ、明日から何もかも上手くいくと言われて、俺はとても良い気分だった。
そして、マスターの気遣いの話に便乗するつもりで、「もし、明日からも上手くいかなかったら、この酒は何色に見えたんですか」と聞いた。

マスターは、「もし不幸が続く時は、にごった黒い色に見えます。そして」と言って、誰もいないのに少し声をひそめ「もし金色に見えたら、あなたに明日はないのです。けれど、生まれ変わって、誰よりも素晴らしい人生を歩むことができます」

「生まれ変わるのか。それで誰よりも素晴らしい人生ならいいなあ」俺は笑った。するとマスターが言った。「金色に見える人はほとんどいません。それは、生まれ変わる以外に幸せを手にすることができない人だけ。ところで、あなたは今の自分以外の人になりたいと思いますか?」

俺は、有名人や同僚、上司、日頃自分が羨ましいと思ったことのある人たちを思い浮かべたが、生まれ変わりたいとは思えなかった。彼らにも苦労はあるだろう。そう思った。苦労なく幸せ続きの人なんていないのだ。自分が彼らのように、お金や名誉を手に入れられればいいとは思うが、彼らになりたいとは思えなかった。

いい店だな、と俺は思った。憂鬱な気持ちは消え、明日から頑張ろうと思うことができて気が楽になった。「また来ますよ」俺は笑顔でマスターに言った。するとマスターはちょっと驚いたような顔をした。

「そうですね。またお会いできるとよいですね。」俺は少し違和感を感じたが、言われた金額を払って外に出た。高くはなかった。むしろ安いとさえ思った。

翌日、俺は会社で、嫌いな上司に自分のミスを打ち明け、ミスの取り返しに全力を注いだ。上司は、俺が考えていたほど怒りはしなかった。むしろ「ミスを取り返すのもいい経験だ」と言ってくれた。俺が必要以上に彼を怖がっていただけなのかもしれない。おかげで、その上司のことも嫌だと思わなくなった。

ミスを取り返したことが分かって、またあのマスターに会いたいと思い、あの店を探しに行ってみたが、見つからなかった。ここかもしれない、と思ったビルの一階には、見覚えのない扉で、見覚えのない店の看板があった。

最後に「またお会いできたらいい」とマスターが言ったことを俺は思い出し、もしかするとあの店は、閉店が決まっていたのかもしれないな、と思った。あの日、客が誰もいなかったこともあり、俺はそう納得した。

それから3年経つ。今日も俺は、仕事帰りに買った酒を家で呑みながら、あの店のことをちょっと思い出した。あのマスターはお元気なんだろうか。また行きたかったな。

手持ち無沙汰な俺は、酒を呑みながら、スマートフォンで、自分ではあまり書き込むことのないアカウントのSNSを開き、他人のコメントを見るともなく見ていた。そのとき、誰かがシェアした画像が目に止まり、俺は、画面に釘付けになった。

それは、あの店の看板によく似たショップカードだった。シルバーの紙に黒い文字。店名は覚えていないが、もしかしたらあの店ではないだろうか。

そのアカウントのコメントには、「図書館で借りた本にショップカードが入っていました」とあった。知らないアカウントなので、俺は、そのアカウントの過去のコメントをさかのぼって読み始めた。どうやら男性で、学生ではなく社会人だろう、ということだけがわかった。そのアカウントをフォローしている人は数人で、そう多くはなかった。コメントも頻繁ではなかった。過去のコメントをさかのぼっているうちに、新しいコメントが表示された。

「せっかくなので今からその店に行ってみようと思います」

その文章には写真がついていた。路地裏の小さなビルの連なり。そこには見覚えのある看板がかかった扉があった。やはりあの店だ。閉店したのではなかったのか。

その後、新しいコメントはなかった。閲覧に制限のあるアカウントではないし、こちらからメッセージを送ることもできる。あの店の場所を知りたかったが、さすがにいきなりメッセージを送るのは失礼だろうと思い、早く新しいコメントが表示されないかと待っていたが、12時を過ぎても更新されず、あきらめて眠ることにした。

翌朝、起きると一番最初にそのアカウントを確認したが、コメントは何もなかった。仕事へ行き、帰りにコンビニで弁当と酒を買い、新しいコメントを確認したが何もない。しばらく考えたが、俺は、思い切ってその人にメッセージを送ってみることにした。自分もその店に行ったことがあるが、場所を忘れてしまった。もしよければ場所を教えていただけないだろうか。そういう内容のメッセージを送った。

返事が来たのは翌日だった。「場所は新宿三丁目です。でも、次の日に行ったら、なぜか違う店の看板がかかっていて、扉も違う感じだったので、場所に自信がありません。本に挟まっていたショップカードには住所が書いてあったけれど、カードを店の人に渡してしまったので」そういう内容だった。

自分も行ってみたが見つけられなかった、と俺は返事をした。いくつか短いメッセージをやりとりし、ふたりで行ってみないか、という話になった。翌日の夜に新宿三丁目のコンビニの前で待ち合わせをすることになった。

待ち合わせに来たのは、Tシャツの上にベージュのラフなジャケットを羽織り、ジーンズを履いた20代前半と思われる男性だった。俺は仕事の帰りで、スーツを着ていた。なんと挨拶をすればよいのかよくわからなかったが、向こうから、俺のアカウントの名前で「〇〇さんですか」と話しかけてくれた。さっそくふたりで店に向かうことにした。

歩きながら「どうして見つからないんでしょうね。酔ってたっていうのもあるけど」などと話をした。ふたりとも、記憶している道筋は同じだった。そして、その店があると思われる路地裏にたどり着いた。

しかしそこには、記憶にある看板と扉のビルはなかった。しばらくふたりであちこち歩いてみたが、どこにも見つからなかった。いったん、どこかの店に入って話をしようということになり、ふたりで駅の近くまで戻り、チェーンのカフェに入った。

「見つかりませんでしたね」と、彼は言った。そして、改めてお互いに簡単な自己紹介をした。彼は23歳だという。何の仕事をしているか、など、他のことは何も言わなかった。

そして彼は、「カクテルの色のこと、きかれましたか?」と言った。俺は、聞かれた、透明に見えると言った、と答えた。
彼は言った。「僕は、金色のカクテルだったんですよ」

俺は一瞬息をのんだが、「金色だと未来がない」というのは、マスターが俺にだけ話したことで、きっと彼には「金色だと明日からうまくいく」と言ったのだろう、と、とっさに思った。
つまり、マスターは客を慰めるために、どんな色のカクテルでも「うまくいく」と言っているのだろうと考えたのだ。

彼は、マスターとのやりとりを話しはじめた。

彼が店に入った時、客は誰もいなかった。彼はバーに行ったことがなかったので、どうしたらよいかわからず、図書館で借りた本にショップカードが入っていたので、気になってきてみました、と、カードをマスターに見せた。マスターはカードを受け取って裏返したみたりしていたが、「なるほどね」といって、そのカードをカウンターの中に置いてしまった。それでショップカードを渡したままなのだという。

マスターに促されるまま、おすすめのカクテルを彼は注文した。そして、マスターがカクテルを作ってグラスに注いだ時、それはとても美しい金色に輝くカクテルだったので、思わず見とれてしまった。そんな色のお酒があるとは知らなかった。おいしそうだ、と言うと、マスターはそのグラスを彼に渡さずに、胸の高さまで掲げ、カクテルが何色に見えるか、と尋ねた。彼は、金色に輝いている、と答えた。マスターはそこで、「失礼だがあなたは今までつらい人生でしたか?」と尋ねた。

彼は一瞬とまどったあと、「そうですね」と答えたという。
彼は話をつづけた。
詳しいことを説明するのは自分もつらいし、聞く人も楽しくない話なのでやめておくが、自分は今までとてもつらい人生だった。小学生のときから、実の家族もいない。それで子供時代はずいぶんと苦労した。大人になると、いろんな人の人生を知り、自分と人を比べてしまって、よりつらいと思うようになった。それでもなんとか生きてきたが、最近、人に裏切られることが重なり、自分は何をしてもうまくいかないような気持になってしまった。

自分がいまからどれだけ努力しても、なんとか生きていくことができるだけで、たくさんのお金を手にすることもできないだろうし、好きな人ができても、生い立ちを考えると結婚など想像もできない。ほかにもいろんなことがあって、いっそこの人生を終わりにしたいと思っていた。自分が死んでも誰も泣かないだろうと思った。

あまりちゃんとした勉強をせずに大人になったけれど、本を読むのが好きだったので、お金のかからない図書館にはよく行っていた。そこで借りた本に、店のカードが挟んであった。前に借りた人が、しおりがわりに挟んだのだろうと思った。

お酒を飲む習慣はなかったが、その店へ行ってみようと思った。あまりお金もなかったが、いくらかのお金があれば、1杯くらいはお酒を飲めるだろうと、持っているお金をすべて持ってでかけた。バーに行ったことなどなかったが、気後れはなかった。「実をいうと、そのあとで死ぬつもりだったんです」彼はそう言って、下を向いてちょっと恥ずかしそうに笑った。

マスターは、彼がつらい人生だったと答えると、こう言った。「違う人生を選びたいと思いますか?」
彼は、返事ができなかった。確かに自分はつらいけれど、「ほかの人生にかわりたい」と、即答はできなかったのだ。

マスターが優しく言った。「答えなくてもいいですよ。それでは、カクテルに最後の仕上げをします」そしてマスターがそのカクテルにレモンをしぼると、金色に輝いていたカクテルの色が、すうっと透明に変わったのだという。そのさまがあまりにも美しかったので、彼は驚いた。透明だけれど、きらきらと輝いていたのだ。

マスターはまた聞いた。「何色のカクテルに見えますか?」「色はないです。透明です。」彼は答えた。
マスターが「どうぞ」と、笑顔でカクテルを彼に差し出した。

「色が変わったことも不思議なんですけど、そのお酒を飲んだら、リラックスして、また明日からがんばろう、となぜか思えたんです」彼は笑顔で言った。

「マスターは、うちにお酒を呑みに来る人は、みんな何かしら、つらいと思っている人たちです、そんなお店なんですよ、と言うんです。つらい人は、この店のショップカードを、どこかで手にしてやってくる、たまにカードを手にしないのに、つらすぎてここへ迷い込んでくる人もいるけどね、でももう大丈夫、あなたは、明日からは素晴らしい人生です、と言ってくれました。よくわからなかったけれど、お酒を呑んで気分もよくなったので、ありがとうございます、とお礼を言いました。そして、翌朝目が覚めた時も、がんばろうと思えました。それで、翌日にさっそくお礼を言おうと店に行ってみたけれど、見つからなかった。夢だったのかな、と思ったりもしたけれど、あなたからメッセージをいただいて、ほかにもあの店に行った人がいるんだな、と思って嬉しかったので、今日、もう一度探してみようと思ったんです」

そのあと、ふたりでまたその店を探してみたが、やはり見つからなかった。そして、きっといま、僕たちはそんなに不幸じゃないから、あの店にたどり着けないのだろう、と、笑いながら結論付けた。

駅まで戻り、それぞれが乗る電車の改札へと向かうとき、「元気で!」と彼が笑顔で言ってくれたので、俺も手を挙げて大きく振った。帰りにコンビニで何か酒を買おう。そしてまた明日からがんばろう、と考えた。
店は見つからなかったけれど、俺はなんだかとても気分がよかった。


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