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読むこと読めないこと

最近、本を読む量が少なくなっている。読みたいと思った本があって、買っても時間がないからとか気分が乗らないとか、ひたすら積読本が増えていくばかり。

一番本を読んでいたのは、新卒のころ。あれだけ本を読んでいたのは、実家のある茨城から東京まで通勤していて、電車に乗っている時間が片道で一時間以上あったことが大きい。でももし今毎日同じ時間電車に乗っていたとして、あの時ほど本が読めたかはわからない。

あの時はわからないことだらけで、何かわからないことや困ったことがあると、本を読むことで答えを得たり考え方を学んでいたりしていた。本を読めばそれなりに満足することが書いてあった。それから、つらいこととかうまくいかない日常から本の中にある幻想世界に逃げ込んでいたこともある。あの頃、本は知識や経験の泉であり、日常から隔離された聖域でもあった。

それから、若いから体力があって貪欲だったことはある。本を読めば読むほど知ることができて、知らない世界を知ることが楽しくて仕方がなかった。

あともう一つ。その頃はまだSNSやインターネットが発達しておらず、携帯電話も電話とメールが主体だった。

ところがこのところは、そのことごとくが異なる。

まず、時間がそんなにない。本を読んできた結果かもしれないけれど、自分に興味のあることがわかったり、やることができてきたり、本を読む以外に費やす時間が増えた。
これは本を読む以外にもたくさん楽しみがあるということではあるけれど、本に向き合ってまったく知らない未知の世界に触れる機会が減ってしまっていることは一つの事実である。

二つ目は、本の中に答えがないことが多々あること。特に、新しいことをやっている時はその分野にそれらしいことが書いてあっても自分たちの事例には当てはまらず、自分で答えを出したり、そもそも正解とは何かを考えなくてはいけないことばかりになった。そして、実生活の中では幻想世界に逃げ込んでも、それは一時期関わっていないようになるだけで、現実のなかであれやこれや向き合ってもがかなくば課題を解決されることはないことに気が付いてしまったから。
確かに現実逃避は逃避にすぎず、本質的な問題に向かうことから逃げるだけ、とは言える。でも、その逃避の中で現実に生かすことができるものが手に入ることも多い。それが少なくなっている。

そして三つめは、通信手段が発達しすぎて一人の時間がとりづらくなってきたことだ。「ひとり」というのは単純に周りに人がいないだけの状態ではなくて、今はSNSを開けば誰かとつながる。誰かの面白い言葉やステキな写真を際限なく見ることができるけれど、それは「ひとり」とは言えない。
ある本で、本を読むということは本だけではなくて「ひとりの時間」の両方が必要だ、と書いてあって、はっとした。特に疲れていたりすると本を能動的に追うより、SNSで誰かの何かを受動的に見ている方が楽で手軽なので後者を選んでしまいがち。結果的に本を読むことからどんどん遠ざかってしまう。

今は「ひとりの時間」を作るのにも労力が必要で、ただ漫然としていると「ひとりの時間」はどんどんなくなってしまう環境にぼくはいる。SNSは自分で選んでいる自分の見たいものが多いから、見ているのは楽しい。けれど、未知の、自分が欲しいとは思っていなくても自分に必要なことは手に入らない。

本を読む以外にも知的好奇心を満たしたり、経験できることはある。けれど、本を読むことでしか手に入らないこともたくさんあって、それを欲しいと思っている。
本を読むにぼくが必要なのは、時間と、「ひとりの時間」だ。どちらも意識して掴まないと手に入らず、楽に作ることができなくなっている。

皆さまのご厚意が宇宙開発の促進につながることはたぶんないでしょうが、私の記事作成意欲促進に一助をいただけますと幸いでございます。