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『いろいろあった』

「昔いろいろあって」
「みんないろいろあるよ」

この言葉を聞くたびに思ってしまう。
玉石混交な人の経歴を"いろいろあった"で勝手に集約しないで欲しいと。
あるいは、そんな言葉でまとめられるような出来事しか経験してこなかったのかと。

今でも思い出すたびに苦しさのあまり身悶えして転げ回りたくなるような、"いろいろあった"なんて言葉ではとても表現できない、あの記憶。

少し昔の話をしよう。

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北関東の農家に生まれた僕は、幼いころから身体が大変に弱かった。

ちょっとしたことで風邪をひきやすく、さらにはアレルギー体質で食べられない食材が多かった。
祖父母が同居していたころは、選り好みはワガママとばかりになんでも口に入れられてしまい、アレルギー反応を起こしては両親に抱えられて近所の医院に駆け込むような日常だった。

成長と共に体付きこそしっかりしてきたものの、身体の弱さは気の弱さまで育ててしまい、こんな様じゃ農業を継がせられないと周囲が諦めるのも早かった。
賢さから将来を期待されたわけではなく、消去法で僕は残された勉学の道を歩むしかなかった。その結果、僕は東京の大学に進学することになる。

ここまでは、どこにでもある生い立ちだ。"いろいろあった"でまとめられても問題ない。

東京といえば高層ビルが立ち並び人混みが溢れる煌びやかなイメージがあったが、幸いというべきか、僕が進学したH大学は都心から離れた、のどかな田園風景が広がる場所にあった。

入居した大学の寮は、賑やかで雑多だった。
かろうじて壁で仕切られた個室にいても人の気配と騒ぎが遮断されることはなかったが、慣れてしまえば問題なかった。

僕が所属する学部は元々それほど人数は多くなく、学年が進み専攻分野に分かれれば上級生も含めて全員が顔見知りになるほど近い存在になる。

その先輩の中に、シホさんはいた。

スラリとしたスタイルと横顔に、一瞬で僕は虜になった。

生来の体格の良さと農家育ちで鍛えた腕、それから少し気弱な性格で、言われるままに荷物持ちや雑用を引き受けているうちに、後輩としてはそれなりに可愛がられることが多かった。

「ありがとう、カサハラ君」

僕に向かって微笑むシホさんのためなら、どんな用事でもこなした。

サークルのような雰囲気の中で、集まって飲む機会も多かった。そしてシホさんはとんでもなくお酒に強かった。

一方の僕は成人していたものの、予想通りアルコールは一切受け付けない体質だった。せっかくの楽しい雰囲気を壊すのではないかと少し危惧していたが、幸いにも無理強いや無茶をするメンバーがいなかったおかげで、気にせず一員としていることができた。

代わりに、僕にできることは何でも引き受けた。
良く動く後輩、呼べば来る後輩、そんな立ち位置を確立しつつ、居場所を見つけた僕は居心地の良い学生生活を送っていた。

この頃までは。

***

老朽化した建物の一部が取り壊されることになった。

その倉庫にある学部の資材を別の建物に運ぶことになり、その労力として当然僕も召集されることになった。

「頼むね」と微笑むシホさんに、活躍できる場だと信じ込んでいた僕は「まかせてください」と張り切って力こぶを見せた。

集合時間は上級生たちのゼミが終わる午後4時だったが、早めに到着して準備をしておこうと、僕は昼過ぎには支度をして寮を出ようとした。

玄関の近くにある談話室に、数人の同期が集まっていた。
出かける僕の姿を見つけたその中の一人が僕を呼び止めて「一杯飲んで行けよ」と茶色い液体を渡された。

その日は湿度が高くて蒸し暑かった。
本来であれば、少し慎重になるべきだった。ほんの少し気を配れば、匂いに違和感も感じていただろう。
しかし、日差しが強く暑さのピークを迎える時間帯に、僕はそれを麦茶だと思い込んでしまい、疑いもせず一気にあおった。

その瞬間、頭がぐらりと回り。

次に気が付いたとき、僕は畳の床に寝かされて、周囲を数人が心配そうに取り囲んでいた。

窓の外は真っ暗だった。

集合時間をはるかに過ぎていることを悟り、僕はガバッと起き上がった。
途端に、脳内が回転するような痛みと具合の悪さにふらついた。

「無理すんなよ」悪ふざけで僕にアルコールを飲ませた数人の同期たちが、目を覚ました僕にホッとした表情で「大丈夫か」と声をかけ、「とりあえずこれを飲め」と水を差しだしてきた。

でもそれどころではない。もう間に合わないかもしれないけれど。

僕は引き止める声も手も振り切って、転げるように外へ出た。

日がとっぷりと暮れている。あれだけ自信満々に作業の手伝いを申し出ておいて、まさかすっぽかしてしまうとは。

暗い空から、パラパラと小雨が降っていた。
傘を取りに戻る余裕もなく、雨の中、僕は大学へと走った。

足がよろめく。まっすぐ走れていない。

きっとみんな呆れている。手が足りなくて困ったかもしれない。約束を守れず迷惑をかけてしまったかもしれない。

倉庫の扉と窓からは明かりが漏れており、そこを行き来する黒い人影がいくつか見えた。
作業はまだ終わっていなかった。

「おせぇぞー」

雨に濡れないようビニールをかぶせた段ボールを抱えた先輩の一人が、僕の姿を見つけて大声で呼びかけてきた。

やっと来たか、とばかりにこちらを向いた複数の顔を見た瞬間、僕は路上の石につまずいてよろめいた。

「おい、大丈夫か」

1人の先輩が様子のおかしい僕に駆け寄ってきた。

路上に膝をつく。ぐっしょり雨に濡れた服が重かった。
倉庫の奥で書類の詰め込み作業をしていたシホさんが僕に気付いて駆け寄ってきた。

「カサハラ君、大丈夫?」

駆け寄ってきたシホさんが、濡れた僕に傘を差し出してくれる。

僕は膝をついたそのまま、ひざまずき、頭を下げて「ごめんなさい」と言った。後悔と情けなさで頭がいっぱいになり、大量の涙があふれ出た。

普通ではない僕の様子を、皆が気にしながらも荷物の移動作業を続ける中、僕は土下座のように地面に崩れた格好で泣きながら「すみません、すみません」と繰り返した。

シホさんは僕に傘をかけたまま「大丈夫、大丈夫だから」と背中をさすり続けてくれた。

***

おそらく誰かが連絡をしてくれたのだろう。
間もなく迎えの車が来て、何の役にも立たない僕は寮に連れ帰られた。

その後、アルコールのせいか雨に濡れたせいか、その両方かもしれないが、高熱と全身の痛みに丸1週間苦しみ続けた。

救急車沙汰にこそならなかったものの、アルコールが飲めないことを知りながらふざけて飲ませた同期たちはこっぴどく叱られ、厳重注意が大学中に配布された。

事情を知った先輩たちからは、僕の落ち度ではないからと責められることはなかった。
それでも、よりによって肝心な時に穴をあけたうえ醜態をさらしてしまった僕は、それっきりすっかり意気消沈してしまった。
シホさんに対して憧れの気持ちを抱く資格すらないまま、卒業を見送った。

そして僕も卒業を迎え、決して逃げたつもりではなく、たまたま条件に合う就職先を見つけて静岡へと移り住んだ。

当時の記憶がよみがえるたびに、胸を掻きむしりたくなるような苦しい衝動に襲われた。

"いろいろあった"なんて、大雑把に括られるような簡単なものではない。

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静岡でも僕は、相変わらず何でも引き受けるポジションだった。

大柄で力のあるところを生かして、呼ばれればどこにでも行き、何でも引き受けた。

その何かが取引先の部長に気に入られたのだろうか、地元育ちの娘さんをお嫁さんに迎えることになり、やがて職場でも後輩ポジションを卒業して、今では一つの企画部署を持ち部下もつくようになった。

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時世の流れで、テレワークが一気に広がった。

一足早くテレワークの仕組みを確立し実践していた僕の部署に、ある日、東京のとある新聞社から取材の打診があった。

実はこれまでも問い合わせはたびたびあって、そのための提供資料の準備もしてあったので、この話を受けることに差し支えはなかった。

会社用の携帯端末に、相手先の担当者から着信があった。取材担当者は女性。アナウンサーのように美しい声の持ち主に、僕は柄にもなくうっとりしてしまった。

改めて詳しく資料を提供するため、メールアドレスを伝える。
ほどなく、取材元の担当者からのメールが来た。

ヒラノ シホ。

苗字は違うけど、同じシホさんか。

H大学でのあの失態は、甘酸っぱいとかほろ苦いというよりも、まだ僕の心に打撃を与えてくる地雷のような存在だった。

心臓を握られるような苦しさに耐えつつ、それでもシホという名前には僕を捉える特殊な仕掛けでもあるのかもなと馬鹿なことを考えつつ、メールを返した。

しばらく後、また電話の着信があった。

たった今やり取りをしているヒラノシホさんだ。

彼女はメールでの資料を受け取った旨を伝え、お礼を言った。
メールの返信でいいのに丁寧だなと思いながら、彼女の美しい声に耳を当てていると、彼女が「つかぬことをお伺いしますが」と続けた。

「H大学の経済学部に在籍していた、カサハラさんですか?」

***

苗字が違うのはまぁそういうことで、学部の先輩シホさんは僕との再会を懐かしみ、彼女は「いい機会だからみんなで乾杯しよう!」と提案してきた。

まさにテレワークの取材を受けたばかりで「環境がなくて」という言い訳が立つわけもなく、流されるままに参加することとなってしまう。

もちろん自宅からだ。
嫁さんにはあらぬ誤解を受けることのないよう、大学時代の学部の仲間だと必死に説明した。
「女性もいるけど、本当にただのゼミ仲間だから!なんなら覗きに来てもいいから!」と汗をかきながら説明する僕に、ハイハイ分かったから、と麦茶のペットボトルを持たされて仕事部屋へと押し込まれてしまった。

リビングにはお気に入りのアニメに夢中な2歳の息子の後ろ姿が見えた。

時間の5分前から、ソワソワしながら画面の前に向かう。

最初に繋がったのはシホさんだった。
画面にパッと広がった彼女の笑顔は、10年の時を重ねてもスラリと魅力的だった。

挨拶をしようとモタモタしている間に、次々と懐かしい顔が浮かんできた。

「おぉ~カサハラ!」
「おっさんになったなぁ」

合計7名が参加した今回の集まり。モニター越しに、それぞれの飲み物で乾杯した。

当時の懐かしい話に花が咲き、盛り上がる。
今までなら、卒業すればその先はそれぞれの進路になり、たとえ連絡先を知っていても距離が遠くなれば会う機会もなく、いつしか疎遠になっていく。
しかし、テレワークが広がった今、距離が意味を成さなくなり、こうしてまた再び繋がって乾杯できる。
不思議なものだなと思う。

先輩の一人がシホさんに向かって「今日は飲まないんだな」と言った。
「そうなの!」少し浮かれた様子でシホさんは画面の前で少し立ち上がった。彼女のすこしふっくらとした体形が映し出された。

彼女の手元にあるおしゃれなグラスと発泡する液体から、僕はてっきりカクテルか何かだと思い込んでいた。そうか。そうなのか!

「おめでとう!」
明るいムードが画面を超えてはじけるようにお互いの空間へと伝わり合った。

正直、僕は当時の恥ずかしい記憶もあり今回の集まりは不安だった。
しかしこうして気の置けない先輩たちがいてくれたおかげで、シホさんの今を知ることができた。僕には聞けなかったし気付くこともできなかった。幸せだった。

予定していた1時間ほどの交流が終わり、「それじゃ」と次々に解散していく。

ありがとう、おやすみなさい、またね。

そんな言葉を聞きながら僕もそろそろ退出ボタンを押そうとすると「カサハラくん」とシホさんに呼ばれた。

「はいっ」まどろみ始めていた僕は一気に緊張が戻って、うわずった返事をした。

「カサハラくんとの再会のおかげだね」満足そうな表情で、シホさんが言ってくれた。
いつの間にか、残っているのは僕とシホさんだけになっていた。

「みんなそれぞれ、いろいろあったかもしれないけど、でも元気そうで今日こうして会えて良かった」

そう、いろいろあった。

僕と同じようにシホさんも、卒業して、社会に出て、出会いがあって、そして今こうして僕と空間を超えて向き合っている。

「あの、僕」
なぜだか言うのは今だと思った。
「シホさんに憧れていました」

「うん」シホさんは特に驚くでもなく、穏やかに微笑んだまま「そうかなって思ってた」そう言って、グラスに残った最後の飲み物を口にした。
傾けたグラスの表面を、結露した水滴が流れた。

胸につかえた鉛の塊が、ようやくほぐされて軽くなり、他の歴史と同じように僕の中に静かに沈殿していく感覚があった。

いろいろあった。
10年かけて、卒業して大人になった気がした。

「じゃあ」

「うん、また乾杯しよう」

終(5114文字)

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