見出し画像

『オレンジのカーディガン』商店街シリーズ第4話

始発に近い駅から乗る電車で、私はいつも座って通勤する。職場がある駅の改札へ向かう階段に一番近い車両の、扉の横の座席が定位置になっている。
毎日同じ時間、同じ区間を乗り合わせていれば、自然と決まった顔ぶれを覚えていく。

いつからか、同じ駅で降りる彼の姿を記憶していた。

乗客が増えてきてから乗り込んでくるその人は、いつもドア付近に立つ。不安定に揺られながら片手でビジネスバッグを持ち、もう片手でビジネス本を開いていた。
特別高くも低くもない身長。ピタッと分けて整えられた黒髪。丸い輪郭と大きな瞳の童顔は20代に見えたし、高級そうなスーツと落ち着いた雰囲気は30代と言われても納得できる。
手にしているのは経営やマネジメントの本が多くて、管理職かそれに近い立場、もしかしたら経営者なのかも、なんて思って横目で見ていた。
名前など知る由もなかったから、ビジネスバッグに記されたブランドロゴを彼の名前のように繰り返し目でなぞり心の中で読んだ。

職場のある駅に着くと、先にドアを出る彼の後を追うようにホームに降り、間に何人もの人をはさんで階段を降りる。
改札を出ると彼は右へと向かう。私は反対の左へ。改札の正面は商店街になっていて、駅との往来をする人の姿が絶え間なく流れた。

身なり正しい彼に触発されて、私も服装を注意深く確認するようになった。小さな毛玉もほつれも絶対に見逃さない。

周囲の目を引きやすいオレンジ色のカーディガンは、元来目立たず地味な私にしては大きなトレードマークになっている。

------

事務職が中心の職場に服装の指定はなく、よほど派手でなければ自由だった。オフィスカジュアルを楽しむ女性が多い中、かつての私は制服のように白いブラウスと紺色のカーディガンを着ていることが多かった。
就職から1年半ほど経ったある日、隣の部署の上役から「君は新人?」と聞かれて内心驚いてしまった。入社後の挨拶もしているし、貴方の部署によく資料を届けているし、そのうちの何度かは手渡しをしている。人の良いその上司は廊下で挨拶をすればにこやかに返してくれるし、いつだったか残業で遅くなった時はコーヒーをご馳走してもらったことだってある。
ここまで会話を交わしていたのに認識されていなかった。うすうす自覚していた自分のあまりの目立たなさに、このとき大きなショックを受けた。

仕事からの帰り道、女性向けオフィス用の服が並ぶ駅ビルのショーウィンドウに飾られていたのがオレンジ色のカーディガンだった。
仕事着としてコーディネートされた鮮やかな色は目を引いた。会社で認識されていなかったショックを引きずっていた私はすぐ店に入り、その一式を購入した。
翌日には勇気を出して目立つオレンジを身に付けて出社した。職場では注目を集めて恥ずかしかったけど、「気分転換に」と言ったら誰もが納得してくれた。
その後も、オレンジ色のカーディガンを意識した服装で通勤するようになった。しばらくして隣の部署の上司が明らかに私を認識した目で挨拶を交わすようになり、やっと1人の人として会社に所属している自覚を持てるようになった。

------

「映画の割引券をもらったから行っておいでよ」

隣の部署の上司はいつも通りの気前の良い口調で、カウンターの上にチケットの束を置いて「じゃ」と片手をヒョイと上げて去っていった。

今話題の俳優が主演する映画は、テレビCMでも予告が流れているので少し気になっていた。何人かが賑やかにチケットを手に取り、私が覗いたときには残り2枚になっていた。

一人で映画館はちょっと敷居が高いなぁ、と躊躇していると、人影が横に立った。メガネをかけて長い髪をキュっとひとまとめにして、制服のようにいつも黒系統の服を着ている彼女は、見た目の通り仕事のできる寡黙な同僚だった。

「あっ、どうぞ」

残り2枚のチケットをゆずるように身を引くと、同僚は「1枚でいいから」と自分の分をサッと取り上げて「もう1枚、どうぞ」と私を見た。
「えっ、一人で?」思わず口にした私を、"そうですが、なにか?"と言いたげな目で見返してきた。一人で映画館にも行けない自分を情けなく感じていると、彼女は読めない無表情のまま言った。
「一緒に行く?」

対して親しくもない(失礼)同僚と気まずい映画鑑賞になるのではという心配は全くの杞憂だった。
映画館の慣れない操作を教えてもらいながら席の確保を進め、上映中はどうせ会話を交わさないので気を遣うこともない。なにより映画に最初から最後まで没頭する環境は見事で、それまで自宅で気楽にCMをはさみながら鑑賞するのとはまるで違っていた。
上映後、目の周囲を赤くしていた彼女はもともと原作小説のファンなのだそうだ。「読むなら貸そうか」という申し出を、自分で買うからと断った。



遅い時間のダイヤは不規則で、停車中で扉を開いたままの車両のいつもの座席に乗り込んだ。

開きっぱなしのドアからポツポツと人が入ってくるのがわかる。

やがて扉が閉まり、電車が動き始めた。

ふとスマホから目をあげると、向かいの席にピカピカと磨かれた靴が見えた。顔を上げると、正面の席に座っていたのはいつもの朝のあの人だった。
びっくりして慌ててスマホに目を落とす。
こんな時間まで働いているんだ。一日中動き回っていたはずなのに、仕立ての良いスーツと磨かれた靴はくたびれた様子もなく、彼が背筋をスッと伸ばして座っている様子が伝わってきた。

あのビジネスバッグのブランドロゴを視界ギリギリに捉えるのが精いっぱいで、私はそれ以上視線を上げることもできず、うつむいたまま手元を見つめ続けた。
彼がいつも乗り込む駅で降りるまで、足を揃えて気を緩めないように気をつけた。

------

余韻に浸りたいからと、日程を金曜日の夜に設定した同僚の気持ちがよく理解できた。映画館での非現実な空間で味わった興奮と情熱は翌日になっても薄れることはなかった。

週末、私は久しぶりに家の近くにある大型書店に向かった。原作本は映画化されたばかりの話題作だけあって、入り口近くの特設コーナーに平積みされていた。映画の象徴的なシーンがプリントされたパネルには、あの俳優たちの姿があってまた心を揺らされる。原作者は知らない名前の小説家だった。

本を読む習慣のない私は、大人になってから活字などほとんど読む機会がない。
緊張しながら買ったばかりの紙袋から小説を取り出す。映画宣伝の帯がついた表紙を開くと、その文字列から映画館で観てきたばかりの映像が流れ込んでくる。あっという間に私は再びその世界に没頭した。
知りたいと思った登場人物の、知らなかった日常生活を新たに知ることができた。映画には登場しなかった主人公の幼馴染の存在がストーリーに大きく影響を与えていたことを知り、込み上げてくるような感動を覚えた。

一気に読みきるほど私の読書スピードは速くなく、続きは次の出勤電車の中で開いた。
いつもより小説一冊分重いカバン。
映画の帯が見えるのは恥ずかしかったので、小説用のカバーをかけている。

車内がだんだんと混み始めても、私は本に夢中で気づかない。
いつの間にかいくつもの駅を通り過ぎ、ふと、視線を感じた気がして目をあげる。その先で、いつもの彼がすっと目線をそらしたのがわかった。私が小説を開いていることなんて初めてだから、何を読んでいるのか気になって覗き込んでいたのかもしれない。
それにしても、いつもなら必ず意識するはずの彼の乗車に気付いていなかったことに我ながら驚いた。

活字を読み慣れない私は、1週間近くかけてようやく小説を読了した。

------

その日も、いつもの時間にいつもの駅に到着した。

同じ小説家が書いて映画化された別の原作小説をカバンに入れて、いつものように人の流れに合わせて電車を降りる。

ホームから改札に降りる階段を下っていると、前方から「わっ」と小さな声がわいた。「危ない」という声も上がった。
次の瞬間、一気に階段を駆け上がってきた長身の男性が私の横をかすめた。とっさに身をかばうように掲げた私のカバンに男が肩にかけていた重量のあるリュックがぶつかり、押されるような強い衝撃を受けた。

リュックを背負った男性があっとこちらを振り返る。

取っ手が開いた私のカバンの口から飛び出した小物がスローモーションのように宙を舞い、驚いた表情の男性との間を無重力空間のように演出した。

それでもよほど急いでいたようで、私とぶつかった衝撃でさらに加速した勢いを緩めることなくリュックの男性はそのまま転がるように階段を上りきり、ドアが閉まりかけていた電車の中へと飛び込んだ。

ドアが閉まる瞬間、転倒したのであろう彼の長い足が見えてすぐに隠れた。

時間が流れ始め、現実に戻った合図のようにカシャ、ガシャンと嫌な音が辺りに散らばる。

通勤客が大半を占めるこの時間帯、電車を降りた人々は足元の障害物を器用に避けながら通り抜けていく。
今にも手を踏まれそうになりながら荷物を拾い集めていると、目の前に、私のペンケースが差し出された。

あっ。

あの人が、「さ、早く」と一緒に散らばった荷物を集めてくれた。
「ありがとうございます、あの」慌ただしい時間帯の非常事態に、私はすんなり言葉も出てこない。
「あ、失礼しました」彼はうろたえる私を安心させるためか、笑顔を向けて言った。
「私はタカヤマって言います。高い低いの高いに、山と川の山です」
「高山さん…」
私は毎日見続けていた彼の本当の名前を声に出した。

次の電車の到着時間が近付き、階段を行き交う人の流れがまた慌ただしくなってきた。私たちはひとまず階段を降りて、少し広い改札前のスペースで改めて自己紹介をした。
彼、高山さんが名刺を差し出してくれたので、私も滅多に使わない名刺入れから慣れない手つきで名刺を取り出して手渡した。こんな些細な動作で社会人であることを改めて自覚した。
慣れた所作で受け取った名刺を眺めて彼は「名前を知れて良かったです」と、私と同じ感想を口にした。「これからはあなたのことを“オレンジのカーディガンの人”と呼ばなくて済みます」
爽やかに微笑む彼の表情を見つめながら、あぁ、ここでも着続けてきたこの服装の恩恵を受けたのだと思った。
私が彼のことを心の中で“ポール・スミスさん”と呼んでいたことは、言わないでおいた。

お互い出勤前ということで手短な挨拶を終えると、私たちは改札を出て反対方向にあるそれぞれの職場へと向かった。
高山さんは別れぎわ「ではまた明日」と言って軽く手を挙げた。
そう、明日からは名前で挨拶ができる。

嬉しかった。

浮かれた気持ちで足が自然とステップを踏む。
散らばったまま無造作に入れたカバンの中身が、シャン、カシャン、とリズムを刻んで軽やかな音を立てた。

終(4353文字)

------

前:『自己紹介』商店街シリーズ第3話

次:『雪』商店街シリーズ番外編1


スキやシェア、コメントはとても励みになります。ありがとうございます。いただいたサポートは取材や書籍等に使用します。これからも様々な体験を通して知見を広めます。