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『一日三善』

自分で言うのもなんだが、僕は冴えない。
家賃3万円の小さなアパートに一人暮らし。
申し訳程度に付いた小さなキッチンで料理をすることもなく、食事は牛丼かコンビニが定番。
運動不足で体型は完全に重力に負けている。
やりがいも充実もない仕事を日々こなし、成績も大したことはない。
当然彼女なんていないし、過去に好意を持った女性から相手にされなかった経験もあって恋愛に前向きにもなれない。
おっさんと呼ばれる年齢になった。

人から見れば冴えないつまらない毎日。

ただ一つだけ、心がけていることがある。
「一日三善」
何でもいい。何か良いことを1日3回やろうって決めている。
基準は僕。これ良いことしたかも!って思えばOK。

住まいから駅までは商店街を抜けていく。
魅力も特徴もない小さな町だから、商店街もパッとしない。
センスが良いとは言えない婦人服屋。空き箱の上に安い靴を並べただけの靴屋。商品が回転しているように見えない文房具屋。その2階のカフェは辛気臭い薄暗さで、入口の階段前で毎朝掃き掃除をしている店員の女性も無表情。

すれ違った主婦の手提げ袋からスタンプカードがひらりと落ちた。
「落ちましたよ」と声をかけ手渡した。
まず一善。
駅の改札を抜けて電車に乗る。出勤ラッシュだが、都会に比べれば大した混雑でもない。
職場の最寄り駅で降り、駅前のコンビニに寄る。
中から急ぎ足で出てくるサラリーマンがいたので、僕が扉を開けて彼が外に出るのを待った。
これも一善。
こんな些細な事でって思われるかもしれないが、人に言うわけでも誰かから評価されるわけでもない、僕の中で決めた僕だけのルールなんだから構わない。
帰宅途中、自販機横にあるゴミ箱の外に落ちてたペットボトルをゴミ箱の中に収めて、この日の三善は達成。

ある日の朝、商店街ですれ違う人を避けた拍子に、カフェ入口に出ていた看板に足が当たり、ガシャと音を立てて看板がずれた。
ホウキを片手に開店前の清掃をしていた女性店員が無表情にこちらを見る。
「ごめん、すみません」慌てて看板を戻す。迷惑そうな顔でも愛想笑いでもなくただ無表情でこちらを見るだけの店員にもう一度「すみません」と言い残して立ち去った。
これは一善に入るか?いや、自分でぶつかったものを直したんだから違うか。
そんな事を思いながらも、エレベーターで開くボタンを押して乗り込む人を待ち、店で誰かが出しっ放しにしたカートを片付け、水が流れ続ける公園の水飲み場で蛇口を閉めた。今日も三善達成。

別のある朝、商店街で駅の方から老女が頼りなげにこちらに向かって歩いていた。タイヤのついた荷物入れを引いていたが、石畳では動かしにくそうだ。思わず「どうしました?」と声をかけた。
娘の家に向かいたいというその老女は、片手に住所を書いたメモを持っていた。これはプロに任せるのが早い。
僕は来た道を戻る形で、商店街を出てすぐの交番へと彼女を導いて、若い警察官に後を任せた。
いつも余裕を持って家を出ているわけではない。これは急がないとまずい。早足で商店街を進んだ。ふと見上げると、2階のカフェからあの女性店員が無表情に手を振っていた。
実は彼女はシャイなだけで、先日の看板にぶつかったときも心の中では悪く思っていなかったのかもしれない。そう思って手を振り返してみた。
よく見ると彼女の手には白い雑巾が握られていて、要するに彼女は僕に手を振ったのではなく窓ガラスを拭いていたのだ。
駆け足に加え恥ずかしさから頭に血がのぼる。誰も見ていなかったことを祈りながら駅へと急いだ。

ただでさえ太めの体に脂汗のにじむ見苦しい僕が、滝のように汗を流して職場に入ったものだから、当然評判は悪い。デブがとか何とか、陰口もチラホラ聞こえてくるが、今に始まったことではないから気にしない。
それよりも、今日の一善はすごくないか?困った老女を助けたというのは僕にとって大きな充実感をもたらした。

様子が変わったのは、あと少しで昼休みというタイミングだった。
受付からの内線電話を神妙な顔で受けていた上司が、僕を呼んだ。「警察が話を聞きたいそうだ」
職場は一瞬ざわめいた。全く身に覚えのない僕は、それでも警察に逆らう理由もないから、言われるままにロビーへと出て行き、そのままパトカーに乗せられてしまった。
要件は商店街での窃盗事件だった。当然僕がそんな愚かな犯罪を犯すはずはないが、今朝の商店街疾走が防犯カメラに映っていたため事情聴取となったそうだ。何てことだ。
すぐさま駆け足の理由と、老女を案内した交番に問い合わせてもらうよう依頼した。
交番にそんな記録がないと聞いて、さらに驚いた。なんとその時間帯に警察官はパトロールで不在していたのだそうだ。まさか!

あの時の老女は見るからに地元の人ではない。訪ね先の娘の住所を持っていたが、交番に任せるつもりだった僕はまともに見ていないから覚えていない。怪しむ目でしか僕を見ない刑事相手にとにかく主張を繰り返し、誰かが何かを見ていることを祈って調査を訴えるしかなかった。

程なく、僕は釈放された。
証言者は、カフェの女性店員だった。
僕が老女に声をかけたとき、いつものように階段の入り口で清掃をしていた彼女は僕を目撃していた。窃盗事件で僕が容疑者になったと噂で聞いた彼女は、必ず徒歩圏内に目的地があるはずだと周囲を探し回って、老女とその娘の家を見つけ出してくれたのだそうだ。

後日、交番の警察官を装った犯人が逮捕された。

僕は改めてお礼を伝えるため商店街の2階にあるカフェに赴いた。
カフェの窓からは商店街が一望できた。
「あの、毎日決まった時間に通られますし。ゴミを拾ったり、カートを片付けていましたし。信号機の押しボタンを押していますし。倒れた自転車を起こしていましたし。」無表情のまま、女性店員はポツリポツリと僕の行動を語った。
一日三善は、僕の中だけにあったわけではなかった。
嬉しくなって「辛気臭いカフェだなんてとんだ誤解だったよ」とこれまでの印象を撤回した。
「は?」
女性店員の返事を聞いて、僕の中だけにあった印象をうっかり口にしてしまったことに気付いて気まずくなった。
彼女は、ムッとした顔も愛想笑いもせず、無表情に僕を見ていた。

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